第17話 甘い唇

 アントワーヌが長い、長い少女時代を過ごした部屋とお別れする時がやって来た。ベッドにそっと手を乗せる。

 テーブルの上の花瓶にはまだバラの花が飾られたままだった。アントワーヌは棘のあるバラを愛していた。人を寄せつけない自分に似ているという悲しい理由で⋯⋯。

「やっぱり寂しいものなの?」

「すごくね」

「悲しい場所だったのに?」

 わたしはコツコツとバルコニーの方向に歩いて行った。開け放たれた窓からはもうすぐやって来る夏の匂いが感じられる。――夏、そう夏だ!


ね、ひとりでここまで歩けなかったの。ずいぶん長い間。この間、陛下も仰ってたけど、第一王女なのに王位継承権争いの舞台にも上がれなかった。もちろんそんなものに興味はなかったけど。ただ毎日、次の日も目が覚めますようにって、そればかり祈ったわ。そんなに信仰心が強いわけじゃないのよ、あなたの妻は。ね、伯爵様」

 彼のすっかり板についた貴族服のボタンを、ツンと突いた。彼はわたしの風になびく髪を撫でた。

「伯爵夫人になったことに対する後悔は?」

「後悔⋯⋯それはやっぱり夜」

「君は毎晩、俺を拒む」

 こくん、と頷く。

「だって師匠と、その⋯⋯いろいろあった場所で初めては⋯⋯」

「ほら! あったんじゃないか! 全部、吐け」

「普通の人にはわからないと思う」

「なにをしたんだよ」


 ラカムは話をすっかり聞くつもりになって、ベッドにどっかり腰を下ろしてしまった。

 仕方がないのでわたしも椅子に腰を下ろす。どう説明したものか、わからない。

「あのね⋯⋯魔力の交換をするの⋯⋯」

「そんなことができるの?」

「まぁ、その、やり方によって」

 彼はベッドの上に仰向けに倒れた。突然のスプリングの音に、悪い想像をした使用人もいたかもしれない。

「あー、クソ! もっと早くお前の異変に気づけば」

「⋯⋯ごめんなさい」

 わたしは彼の隣にごろんと丸く転がった。

 彼はしばらくわたしの目を見ながら、髪を弄って遊んでいた。なにか、考え事をしているようだった。


「許す! でも条件がある」

「なに?」

 今夜のことだったらどうしようとドキドキする。だって今夜はもう城を出る。この部屋では寝ない。断る理由がない。

「アイツがしたことを俺にして」

「ええッ!? できないよ!」

「もう夫婦なんだからいいじゃないか。どんな変態プレイでも許すから、教えろよ」

「だって苦しいかもよ!?」

「苦しいのかよ、ちくしょう!」

 なにがなんだかわからなくて混乱してくる。この間の話を聞いてわかったんだけど、彼には『神の加護』が付いている。すなわち、微弱とはいえ神聖力を持っているということだ。

 わたしは例外として――普通、ふたつの力は反発する。源が神と悪魔という拮抗した存在だから。

 ラカムには苦しさしかないかもしれない。


「ほら、早く」

「⋯⋯後悔しないでよ」

 わたしは自分の顔にかかる髪を手で押さえながら、不貞腐れている彼の顔に、そっと唇を下ろしていった。ラカムはわたしの首に腕を回し、ぐいと引いた。これが彼なりのヤキモチなんだろう。


 わたしだってラカムがわたしにキスする時、抱きしめる時、本当に毎回モヤる。だってそれはわたしであって、わたしの身体じゃない。

 誰もが褒める美しい王女殿下の流れるような髪を撫でるその手を、アメジストの瞳を見つめるその瞳を、細い腰を抱き寄せるその逞しい強引な腕を⋯⋯嫉妬しないわけがない。

 誰だ? 心と心が繋がってればいいって言ったヤツ。


 ⋯⋯大人しくそのまま唇を下ろして、触れた。ここまではいつも通り。

 ラカムの呼吸も落ち着いている。

 わたしは、自分の頭の中に魔力の泉を作り、少しずつ、少しずつ、滴下していく。唾液に混じる魔力の量を微妙に調整しながら。

 ラカムは最初、されるがままにぼーっとしているのかと思った。だから魔力の濃度を少し上げた。

 彼の反応は変わらなかった。良かった、拒絶反応はないみたい。

 更に魔力を足す。でもわたしの魔力にしてみたらまだまだ少ない方だ。

 ――キャッ!

 身体が反転して、いつの間にか彼の下に組み敷かれていた。

「こんなにいやらしいことを何度もしたのか?」

「ちょ、ちょっと待って」

「続けろよ」

 今度は強引に唇を奪われて、身体の中のすべてを持っていかれそうになる。

 まずい! 魔力で正気を失ってる!


 ドンッと、彼を突き飛ばした。

 彼は息を荒くして驚いた顔をしていた。

「ごめん⋯⋯調子に乗りすぎた。もうこんなにひどいことはしないから許してくれよ」

「わたしこそ、魔力が普通の人の身体にどんなふうに作用するのかわかってなかったから」

 口元を手の甲で隠しながら、ラカムは一言こういった。

「お前って、すごく甘いんだな」

「え!?」

「お前の魔力ってすごく甘い。それが無尽蔵にその身体の中にあるなんて、すごくいやらしい」

「ラカム?」

 ふわっとわたしを抱きしめると、彼は耳元で囁いた。

「もう少しだけ、いい?」

「バカ。早く行かないとみんなが待ってるよ」

「もう少し」


 結局、彼には甘いわたしはキスを許した。今度は彼が満足するくらいに魔力を微調整して。

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