第12話 アン・ブリッジ

 月が、揺れる。

 昨日より少し満ちて。

「どう? 今夜の月は」

「猫の爪ほど細くはありませんね」

「そう、丸くなっても月は揺れるんだよ、知っているかい?」

 一面にバラの芳香が漂う。ざざんと庭園が風に波打つ。

「窓を閉めようか?」

「いいえ、月を見たいのです」

「昔から月が好きだったからね」


 唇を求められる、と思った瞬間にはもう触れられていた。ユーリには八重歯があるのか、合わせた瞬間にチクリ、と鋭く痛んだ。

 一度身体を離したけれど「大丈夫だよ」と微笑まれて、また唇を重ねる。

 似たもののはずなのに、彼の唇はわたしの唇とはまるで違う。優美で、甘い果実酒を延々と口の中に注がれているような、そんな気持ちになり、心も酔いしれる。

 もう一口も飲めない、というところで丁度離される。

 でもまたすぐに喉が渇く。乾いてかわいて仕方がない。飲み干すまで飲んでしまいたい⋯⋯。


「アン、飲みすぎだよ。私の魔力はそんなに美味しいかい?」

「魔力、ですか?」

「そうだよ、ほら」

 髪を掴まれて上を向かされる。ユーリの顔が上から降ってくる。

 迸る魔力が、口の端から逃げようとする。一滴も逃したくない。

「ほら、君と僕の魔力はやはり相性がいい。昔からそう思っていた」

「昔?」

「そう、君が冒険に出る前」

「では出て行ったわたしは悪い子でしたね」

「そうだ、お仕置だ」

 また耳たぶを噛まれる。

「私のものだという消えない印だよ。おやすみ、アン。早く戻っておいで――」


 ◇


 翌朝はまるで飲めないお酒を飲みすぎた日のように頭が重く、朝食どころではなかった。

「食欲がないの」と言って、スープを出してもらう。

 周囲の人たちにまた体調が優れないんじゃないかと心配されたけれど、わたしはそっと笑った。

 中でもラカムはひどく心配してくれたけど⋯⋯わたしはラカムにも作り笑いしかできなかった。『油断のできない男』という言葉が頭の中を横切り、自分の中の自分がふたつに引き裂かれてしまいそうな錯覚に襲われる。

「今日は午前中、マナー講座なんだ。二ヶ月後までに君に恥ずかしい思いをさせないようにしなくちゃね」

「わたしは北部について勉強するわ。がんばって」


 二ヶ月後――それはわたしにとって恐ろしい数字だった。その時がきたら身も心もあの男に捧げなければならないのかしら?

 命を救われたのだから、身体くらいやってもいいかもしれない。

「良くはないだろう? 私のかわいい花嫁」

「ユーリ!」

 彼がステッキをカツンと絨毯に当てると、部屋の鍵は閉まり、カーテンも自然に閉じた。

「⋯⋯私のかわいいアン、待ったかい?」

「どうして会いたい時に会えないの?」

「それには深い事情がある」

 大人に諭される子供のように、わたしは頷いた。


 ユーリの漆黒の瞳が⋯⋯不思議なことに金色に光った。

「私の本当の力は昼には使えないんだ。不便なものでね⋯⋯」

「でもカーテンを締め切りにしたら怪しまれないかしら?」

「その時は魔法でどうにかなる。君が考えなくちゃいけないのは、月のことだけだよ」

 月⋯⋯満ちては欠ける。今頃また少し、月は太ったに違いない。

「わたし、夜の空に浮かぶ月が見たいわ」

「その前に仕上げを」


 ユーリは絨毯に複雑な紋様を描いた。それはわたしにもよくわからない魔法だった。

 ステッキの先で叩くと、魔法陣は光を放って浮かび上がった。

「キレイ⋯⋯」

「アン、君に魔法を見せてあげよう」

 目が潰れそうに明るい稲妻が轟き、部屋がどうなっているのか、少し心配になる。

 わたしの周りには強い風が吹いて、中心にいたわたしは少し浮かび上がった。

 また、浮遊感。

 ユーリが何事かを呟いて、わたしを指差した。すると――。

 蛙がお姫様になったように、お姫様は蛙になった。

 わたしはまさしく今、アン・ブリッジだった!

 細い、枯れ枝のような指、嫌になるほど鬱陶しい癖のある赤毛、ユーリの瞳に映るわたしは緑色の瞳をしていた。アントワーヌの紫の瞳ではなく!


「アン! 完成したよ!」

 ユーリは走り寄ってわたしをキツく抱き締めた。わたしはまだ信じられない気持ちでわたしを見ていた⋯⋯。あんなに自分に戻りたかったじゃない!

 ユーリにはわたしの姿が美しくなくても構わなかったようだ。とにかく喜んでいるのが手に取るようにわかった。

「アン、私のアン」

 唇からは零れ落ちる程に魔力を注がれ、まだ安定しないわたしの身体は拒絶反応を示した。涙が両眼から流れ落ち、呼吸が安定しない。


「クソ、準備はしたのにまだ足りないって言うのか? 神よ」

「ごめんなさい、許して――。許して」

 ユーリは怒ってわたしの髪を引き上げ、顔を無理やり上げさせた。そうして魔力を与えられるとわたしは胃の中の物を嘔吐した。

「ああ、かわいそうなアン。このまま安定するまで夜を待とう。真昼では不利だ」

 アンの姿のままじゃ王宮を歩くわけにはいかない。それは助けを求められないことも意味していた。

 ユーリが怒りに任せて魔法陣を描いている間、わたしは机の裏側にユーリにはわからない印を残した。もしこの意味を汲み取ってくれるなら――。

 ⋯⋯わたしは意識を失った。

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