第11話 ラズベリーより甘い

 図書館に北部に関する本を借りに行く。

 北部の貴族、北部の歴史と成り立ち、その産業。

 どれもこれも欠かせない情報だ。

「あ!」

 図書室に入るとそこには師匠がいた。

 一瞬、目が霞む。大切な人がそこにいることを思い出す。

「アンじゃないか」

「⋯⋯ユーリ!」

 誰もいない図書館の中、わたしは駆け寄って、数歩あゆみ彼の腕の中に入った。懐かしい、その腕の中に。

「なにをしに来たんだい?」

「ユーリこそ」

 わたしはふふっと微笑んだ。大体、彼はわたしがいつどこにいるのかなんて簡単にわかってしまうのだから。

「アンに会いたくて待っていたんだよ」

「でもそれじゃ、わたしは仕事がまるでできなくなってしまうわ」

「終わるまで待っているよ」

「見られていたら進まないわ」

「かもしれないね、とりあえずこっちにおいで」


 ユーリは細い指でわたしの手を引いて、わたしを図書館の分厚いカーテンの中に閉じ込めた。

 きゃっ、と思うと「大丈夫、ここにいるよ」とユーリはわたしを抱きすくめた。

 これから先に起こるかもしれないことを考えると胸が弾んだ。少女の頃に、春、初めてのラズベリーを口に含んだ時のように。

 そのキスはラズベリーよりずっと甘くて滑らかだった。わたしはキスに酔いしれて、もっと欲しい気持ちになってしまう。ユーリは丹念にキスをすると、わたしの耳たぶを軽く噛んだ。

「痛いッ」

「大丈夫、私のものだという簡単な印だ」


 カーテンから出ると圧倒的な日差しがわたしを包んだ。

「師匠? わたし、なんの本を探しに来ましたっけ? 知ってます?」

「うん、北部の資料だと言っていたけど」

「ああ、そうです」

「取ってあげよう」

 背の高い師匠はひょいと重い本を取ってくれた。

「ありがとうございます! ところで師匠はなんの用でこちらに?」

「ここは日当たりがいいんだ」

「ああ⋯⋯昼寝に最適なんですね」

「君もどうだい?」

 一瞬チラッとそのしあわせな光景が目に浮かぶ。今日はなんだか寝不足だし、頭はすっきりしなくて困っていたし。⋯⋯治ったかも。それならいっそう昼寝はいらない。

「遠慮しておきます! ラカムのためにも勉強しておかないと」

「そうか、程々にね。君、がんばりすぎるから」

「ご心配ありがとうございます」

 わたしは重い扉を閉めて図書館をあとにした。

 あれ? 図書館に入ってすぐの記憶がはっきりしない。⋯⋯寝ぼけてたからかもしれない。




 資料を持って歩いていると、お兄様、つまり皇太子殿下に出くわした。最悪だ。向こうもそう思っているに違いない。

「これは麗しの我が妹君じゃないか。どうしたんだ、そんなに荷物を持って。君の腰巾着⋯⋯失礼、勇者様は?」

「お兄様、礼節を重んじる方だと思っておりましたが大変残念です。その勇者様もいまでは爵位をいただいております。失礼ではないでしょうか?」

 サッと顔色が変わり、残忍な表情を見せる。

「ふ、まだ子供だな。いつまでも伏せっていれば良かったものを。

 知っての通り、この国は完全な世襲制ではない。第一王子の私が皇太子になるまで大人しくしていたのは懸命だったな。お前のように強い神聖力を持つ後継者を王は欲したかもしれない。

 しかし、心配するな、妹よ。私は皇太子になったし、お前は伯爵と共に北部へ行く。もう我々は敵同士ではない。素晴らしいじゃないか。――忙しいんだ、失礼するよ」


 国王になるなんて、確かにアントワーヌだった頃にはまったく考えられなかった。アントワーヌには強い神聖力は備わっていたけれど、身体はそれに着いて行けず、奇跡を起こすこともままならなかった。

 もしもそれができたなら、アントワーヌはまず自分を治療することができたはずだから。

 ベッドでほとんど寝たきりのアントワーヌに、使用人たちはみな同情した。しかし心優しい彼女に王位を掴んでほしいと言う者はひとりもいなかった。

 そうこうしているうちにお兄様が皇太子となり、わたしは『勇者の花嫁』にされてしまった。

 いまとなってはそれに不満はない。戸惑っていたアントワーヌもいない。ラカムに着いて行くだけだ。


「アン! その荷物、どうしたんだ? 侍女に手伝わせれば良かったじゃないか」

「確かに⋯⋯。わたし、どうしてひとりで図書館に行ったのかしら」

「それは努力家だからさ。あまり本を読むのが得意でない俺の分も勉強してくれていて、悪いなと思ってるよ」

「そんなこといいのよ。思ってもないくせに! 適材適所って言葉もあるし、先に読んで、後からみっちり教えてあげるからね」

 ラカムは心から安心したという顔をした。

 そのはにかんだ笑顔は、わたしをドキドキさせるのに十分だった。

「良かった。なんだか午前中は気が立ってたみたいだから気にしてたんだ。また無理をして疲れてるんじゃないか、体調が悪いんじゃないかってね」

「⋯⋯ごめんなさい、夕べは寝不足で朝のことはよく覚えてないんだけど⋯⋯わたし、感じ悪かった?」

「いや、君ならなんでもいいよ。さぁ、仕事を持たせて。先に読んで後で教えてくれるんだろう? だったら半分は俺の仕事だからね」

「ふふ、そうかもしれないわ」

 ラカムを見ると不快に感じたのは寝不足のせいだろう。誰でも寝不足の時に構われると鬱陶しいものだもの⋯⋯。


「ところで、んー」

「どうしたの?」

 ラカムが言い淀むなんて珍しいことだった。いつでもはっきり発言して、パーティーを引っ張って行ったのは彼だ。

「陛下に呼び出されたんだけど」

 さっき、お兄様とすれ違った時のことがフラッシュバックする。

「陛下はなんて?」

「婚礼の儀は二ヶ月後の予定だそうだ。⋯⋯アンは大丈夫?」

「そんな大切なことを廊下の真ん中で」

「あ、ごめん!」

「ううん、いいの。⋯⋯わたしはいつでも、明日でも大丈夫。ラカムこそ」

「俺が君を拒否する? 永遠にないだろう」

 彼は彼らしく朗らかに笑った。

 一番近いところの衛兵が咳払いを小さくした。

 わたしたちは笑った。

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