第4話

 二人は焼肉弁当をたいらげて、翔馬はあまり食欲が湧かず、パスタで簡単に終えた。

 食欲が湧かなかったのは、言うまでもない。桂花さんの部屋に、莉雨ちゃんがいっしょなのだ。

 だが、莉雨ちゃんは気にするふうもなし、桂花さんはワインを出そうとする。

「それよりベランダを見てみましょう」

 翔馬は二人を引っ張って、ベランダに出た。

 桂花さんの暮らすサンテラス江古田は、七階建ての建物で、桂花さんの部屋は二階にある。

 ベランダからは、通りをはさんで家々の屋根が見えた。あまり眺望がいいとは言えないが、ひとり暮らしの女性の部屋ならじゅうぶんな広さだ。六畳を半分に切ったほどの大きさで、物干し竿がある。隅に、枯れた観葉植物の鉢が転がっていた。その鉢を避けて、ベランダから下を覗いてみた。


「一階からここまで泥棒が来るのは難しそうですね」

 長身の翔馬でも、マンションの塀に上って、このベランダまで来るのは無理そうだ。

「ということは、両隣から入ってきたとか?」

 莉雨ちゃんが隣との境を見てみる。しっかりと壁で仕切られていて、それも無理そうだ。

「風で飛ばされたわけじゃないし。なんなんだろ」

 それは翔馬も同意できる。翔馬が泊まった夜、風はなかった。それに、物干し竿に、今もほろんとぶら下がっているハンガーが証拠だ。風の仕業なら、ハンガーだって物干し竿に留まっていないだろう。

 そのとき、莉雨ちゃんが、

「これ、なんですか」

と、声を上げた。

 

 ベランダの手すりに、莉雨ちゃんが顔を近づけている。そして莉雨ちゃんは細い針のようなものをつまみ上げた。

「それ、釣り針じゃないかなあ」

 翔馬のつぶやきに、桂花さんが素っ頓狂な声を上げた。

「釣り針?」

 顔を近づけて、桂花さんは目を凝らす。

「あたし、釣りなんかやらないわよ」

「釣り好きの彼が来ていたとか?」

 翔馬も顔を近づける。針の先が船の錨のように三つに分かれ、一本の針が、何かを引っ掛けて飛んでいったみたいに折れている。

「そんな人、いなかったわよ」


「桂花さんの釣り針じゃないとすると」

 そう言って莉雨ちゃんはベランダから顔を出して、上を見上げた。

「なんで上なんか見るわけ?」

 桂花さんもつられて見上げ、翔馬も顔を反らしてみる。

「だって、釣りって、よくわかんないですけど、陸や船から海に向かって、要するに下へ向けて竿を振るじゃないですか」

 三人でベランダから顔を出して見上げてみると、三階先の五階のベランダの手すりに干してあるものが見えた。

「あれ! クーラーボックスじゃないですか?」

 莉雨ちゃんが叫んだ。

 たしかに、青色のクーラーボックスが手すりからぶら下がっている。その横には、網の籠も。


「もしかしたら」

 莉雨ちゃんは五階を見上げたまま、つぶやいた。

「行ってみましょう」

「ええ? 五階の人を訪ねるの? あたし、面識ないんですけど」

 嫌がる桂花さんを引っ張って、五階の住人を訪ねることになった。もちろん翔馬も、莉雨ちゃんの意図はわからない。

 


「夜分、すみません。二階の神原です」

 莉雨ちゃんにせっつかれて、桂花さんがしぶしぶインターフォンを押すと、はああいと元気な少年の声が聞こえてきた。

 ドアが開いて出てきたのは、まだ低学年と思われる小学生らしき少年だった。食事の途中だったのか、口元にケチャップ色のご飯粒をつけている。

「おうちの人、いる?」

 しゃがみこんで莉雨ちゃんが尋ねると、奥からパタパタとスリッパの音を立てて、母親らしき女性が出てきた。

「これなんですけど、お宅のものじゃないかなと思って」

 莉雨ちゃんの手のひらに載った釣り針を、女性は目を見開いて見つめた。

「釣り針?」

 莉雨ちゃんがうなずく。

「二階のベランダの手すりに引っ掛かってたんです」

 ふいに、少年が声を上げた。

「パパの釣り針だよ、きっと。この前、失くしたって言ってたもん」

「パパは、どこで釣りをしたとき失くしたのかな」

「それは……」

 少年が口ごもったとき、女性がキッと少年を睨み、奥に向かって怒鳴った。

「パパ、ちょっと来て!」

 テレビのお笑いの声が瞬間聞こえ、そのあとから、のんびりと男性が現れた。

「パパ、これ!」

 女性は莉雨ちゃんの手のひらから釣り針を取り上げ、男性の顔の前にかざした。

「あ、まずい」

 まずいとつぶやいた声を、全員が聞き逃さなかった。

「また、ベランダからキャスティングの練習をしたのね! あんなにやっちゃ駄目って言ったのに」

 女性に責められて、悄然となった男性が、すみませんと頭を下げる。

 翔馬が割って入った。


「どういうことですか?」

 男性が恐縮したたま、説明をはじめた。

「こいつにね、釣りを教えてやろうと思って」

と、男性は少年の肩に手をやる。

「でも、忙しくてなかなか連れて行けなくて。それで、うちのベランダから下を海と見立てて」

「海と?」

 素っ頓狂な叫び声を上げたのは、桂花さんだった。

「じゃ、あんたはうちのベランダ辺りを、磯だまりだとでも思ったってわけ?」

 磯だまりなどという言葉がすんなり出てきた。ほんとうに桂花さんは釣りを知らないのか? そんな疑問が浮かんだが、今は追求しないことにする。

「申し訳ないです。つい、子どもを喜ばせたくて。でも、釣り針を付けて振るような危ない真似はしてません。ただ、一度だけ、間違えて針の付いてる竿を振ってしまって」

「その針がうちのベランダに引っ掛かったってわけね?」

 男性は首を垂れた。

「では、釣果を返してください」

 莉雨ちゃんの声に、男性は慌てた。

「返そうと思ったんですよ。何か白っぽいものを釣り上げてしまったとわかって、家中を探したんです。でも、どうしてもみつからなくて」

 すると、女性がハッと顔を上げ、部屋の奥へ走り、何かを手にして戻ってきた。


「釣果って、これじゃありませんか?」

 女性の手には、桂花さんのフランス製のブラジャーがあった。

「テレビ台と本棚の隙間で見つけたんです。実は、わたし、主人の浮気を疑ってたところだったので、見つけた瞬間、証拠品だと思って隠して置いたんです」

「だから、見つからなかったのか」

 じっとブラジャーを見つめる男性に、少年が言った。

「パパ、よかったね」

「よかったのは、ママのほうよ」

 桂花さんの手にブラジャーを置いた女性は、にっこりと笑った。



 まあるい月が出ている。月は上がった踏切の遮断機のはるか高いところで輝いている。

「じゃ、ぼくは帰ります」

 デコボコした踏切の地面に、翔馬は足を踏み出した。

 桂花さんの暮らすマンションから、三人で駅に向かっている。

「わたしも失礼します」

 莉雨ちゃんが続く。

「なあんだ、二人とも帰っちゃうのね」

 桂花さんはつまらなそうな顔をして、踏切の手前で立ち止まっている。手には、取り返したブラジャーがぶら下がったままだ。畳むなり丸めるなりすればいいのに。通行人がときおり、桂花さんの手元を訝しげな表情で見ていく。

 もう、時刻は十時過ぎ。町田までは一時間半はかかるから、今日のうちに家に着けるかどうか。

 

 明日の予定を頭に描いた。縫製担当の美寿々主任と打ち合わせが入っている。銀座店で受けたデザイン変更を話し合わなくては。きっと、明日もこってり絞られるだろう。

「二人でこっそり飲みになんか行かないでよ~」

 踏切を半分まで渡ったところで、桂花さんがそう言いながら、手を振った。ブラジャーがひらひら揺れている。

「そんなもの、振らないでくださいって」

 翔馬が叫び、

「先輩、また明日」

と言ったところで、チンチンと警報器が鳴り出した。

 走って渡り切り、後ろを振り返ると、降りた遮断機の向こうで、桂花さんが隣に立ったサラリーマン風の男に話しかけられていた。結構、いい男だ。

 遠目でも、しなを作っている桂花さんの様子がわかる。

 戻ろうか。

 思った瞬間、莉雨ちゃんに腕を掴まれた。

「あと二分で上りの電車が来ちゃいますよ」

 翔馬は駅の階段に向けて駆け出した。

                       

                  了



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Eカップと僕 popurinn @popurinn

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ