第3話

「おそーい」

 西武池袋線の江古田駅の改札を出た途端、翔馬は桂花さんの声に迎えられた。


 時刻は午後七時半過ぎ。

池袋から電車に乗ったとき、まだ西の空にうっすら残っていた日の光は、すっかり消えてしまった。駅の窓には、街の建物の明かりが映っている。

 

 改札のすぐ脇に、桂花さんと莉雨ちゃんが立っていた。桂花さんはシャラシャラ音がしそうなキャミソールのようなワンピース。莉雨ちゃんはフリンジが付いたブラウスにジーンズ。

「もう、五分も待ってるのよ。遅くなっちゃうじゃないの」

 すみませんと頭を下げたものの、?マークが頭に浮かぶ。遅くなると、何か支障があるのだろうか。

「進展ですよ」

 歩きながら莉雨ちゃんが答えてくれた。

「桂花さんのマンションの近くに、犯人らしき男が出没しているのがわかったんです」

「ええ? もう?」

 今朝の今だ。ちょっと早すぎやしないか?

 すると、前を歩いていた桂花さんが振り返った。

「思い出したの、あたし。ときどき見かけるイケメンなんだけど、あるとき見ちゃったって」

「下着を盗むところをですか?」

「違うわよ」

 桂花さんは馬鹿にしたように翔馬を見つめた。

「衝撃的でした、その事実」

 莉雨ちゃんは先に話を聞いたようだ。

「そのイケメンね、いつも同じ時間にジョギングしてるみたいなの。いい男だから、よく見るようにしてたんだけど、あるときね。見えちゃったのよ。下着を付けてるのを」

 人間なら、誰だって下着は付けるだろう。だが、普通にジョギングしていて見える下着とは。

「タンクトップの隙間からね、見えたの。ブラだった。あれはたしかにブラジャーだったの」

 怖いものでも見たときみたいに、莉雨ちゃんが目を見開いて翔馬を見た。

「まさか」

「ほんとよ。すっごくいい体のイケメンなのよ。それが、ブラ。ブラ付き!」

 すれ違う人が、桂花さんの声に振り返る。翔馬は声をひそめた。


「だけど、その人が桂花さんところのベランダからブラジャーを盗んだとは限らないんじゃないですか。どんな下着を着けようと、個人の勝手なわけだし」

「そうですよね。男の人がブラジャーを付けてるからって、それが盗んだものだとは限らないかも」

 莉雨ちゃんも同意してくれた。

「だけど、あたしのベランダでブラがなくなり、そのすぐ下をブラジャーを着けて走る男がいるのよ。まず疑いたくなるじゃない」

 なるほどとうなずきながら、翔馬は桂花さんと莉雨ちゃんに続いて駅の階段を降りきった。

 桂花さんのマンションは、左方向。

 だが、桂花さんは反対に進んで踏切を渡る。

「公園があるんだけど、多分、この時間なら、彼、まだでストレッチをしてると思うから」

「すごい、把握してるんですか、行動を」

 通りに出て、脇を通っていく車を避けながら莉雨ちゃんが訊くと、桂花さんは車を睨みつけてから応える。

「近所のコンビニになかったものを、公園のそばにあるコンビニに買いに行ったときに見かけたの。そのあと、あたしのマンションの前を走って行ったから、走る前はその公園にいるんだなって」

「毎日なんですか」

 ふたたび車が通って、翔馬は莉雨ちゃんの背中に手を置いて、庇った。途端に、桂花さんに睨まれる。

「毎日よ。イケメンだから気になって、うちの前を通る頃につい窓を見ちゃうのよね」

「仲良くなれるきっかけを狙ってたんだ」

 このぐらい言ってやっていい。睨まれたお返しだ。

 ぷいと、桂花さんは横を向いた。

「別にそういうわけじゃないわよ。あたし、誰だっていいわけじゃないんだから」

「ぼくもです」

 そう言い返したが、

「あ、公園って、あそこですか」

 そう言った莉雨ちゃんの声に遮られてしまった。

 前方に、こんもりとした大きな木が街灯に照らされている。



 テニスコート二つ分ほどの小さな公園が、軒を連ねる住宅に、ひっそりと隠れるようにあった。こんもりした木の下に滑り台と砂場がある、砂場を囲むようにベンチが置かれている。

 公園に入っていくと、ジュゲムジュゲムと奇妙な声が聞こえてきた。端のほうで学生らしきグループが集まって声を出している。

「何やってるんですかね」

「発声の練習ですよ」

 莉雨ちゃんが顔をほころばせた。

「わたし、学生時代、演劇部だったんですけど、舌鳴らしにやりました。寿限無寿限無五劫の擦り切れ、海砂利水魚の水行末雲来末」

「いた!」

 突然桂花さんが叫んだせいで、かわいい莉雨ちゃんの不思議な言い回しが中断された。

「え、どこどこ」

ベンチの脇に男がしゃがんでいる。といっても片方の足は伸ばしているから、ストレッチ中だろう。

「ね、イケメンでしょ」

 桂花さんがしたり顔で言い、莉雨ちゃんも同意した。

「あの人が、ブラジャーを付けてる人?」

「そうよ。多分、今日も付けてるわよ」

「どうします?」

「確かめなきゃね」

 桂花さんの視線が、翔馬の上に止まる。

 なんでぼくが。そう思いながらも、翔馬は男の方へ歩いて行った。男の傍らのベンチにさりげなく腰掛ける。腰掛けるとき、いいですかねと言うように、翔馬は男に軽く頭を下げた。

 たしかに、イケメンだった。浅黒い肌に、高い鼻梁。サインペンで書いたようなくっきりとした目。名前は忘れたが、有名な俳優に似ている。

 伸びをするふりをして、さりげなく男の胸を見た。

 

 男の着ている黒いTシャツは、よく見るシューズメーカーのブランドのロゴが入ったもので、生地が薄かった。素肌とTシャツの間に、何か身につけているのがわかる。

 

 どう? 

 

 桂花さんと莉雨ちゃんに顔を戻すと、そう訊く目をしてこちらを見つめている。

 もうちょっと、はっきり見えればなあ。

 男の素肌を見るには、半袖の袖口から覗くしかない。翔馬は鞄の中からボールペンとノートを取り出し、メモを取るふりをした。そして、ちょっとわざとらしかったが、男のほうへボールペンを転がす。


「すみません」

そう言いながら、地面のしゃがみ、上半身を反らせるストレッチを始めた男を盗み見る。

 見えた。腋と袖口の間から、くっきりとレースの付いたブラジャーが覗いている。

 思わず立ち上がって、翔馬は二人に手を振った。すぐさま、二人が駆け出してくる。

 この一連の動きに、男は動きを止め、怪訝な表情で翔馬を見た。


「すみません、ちょっといいですか」

  翔馬が声をかけると、男の目が見開かれ、やって来た桂花さんと莉雨ちゃんを見つめる。

 ツンと、桂花さんに肘で突つかれた。

「あの、つかぬことをお聞きしますが、おたくの身に着けてらっしゃる、そのーー」

  さっと桂花さんが耳元に顔を寄せてきた。

「つかぬことをって、時代劇かよ」

 男は怪訝な表野で、三人の闖入者を見つめる。桂花さんが翔馬の前へ出た。

「あたしたち、下着泥棒を探してるんです」

  ストレートすぎる。男の表情が見る間に険悪なものに変わった。

「突然、申し訳ありません」

  声を上げたのは、莉雨ちゃんだった。

「この人、サンテラス江古田に住んでるんですが、一昨日ベランダに干しておいたブラジャーが盗まれたんです」

  男は刺すような目で、莉雨ちゃんを見返している。

「それが?」

「その、この人があなたがマンションの前をジョギングしているのを見かけたことがあるって」

「だから、ぼくが下着泥棒だって言うんですか?」

「それは、そのーー」

  男のこめかみに、ツーと汗が流れ落ちた。まずい、怒鳴られるぞ。そう思った翔馬は二人を守ろうと身構えたが、意外にも、男の口元に薄い笑みが浮かんだ。

「ぼくが男のくせにブラジャーを付けてるから、でしょ?」

  翔馬は息を飲んで、男の顔を見つめ、それから桂花さんと莉雨ちゃんを振り返った。二人とも固まっている。

 

  ふいに男が男はTシャツの袖をぐいっとまくって、肩を見せた。

「当たりですよ。ぼくはブラジャーを着けてます」

  引き締まった浅黒い肩に、ブラジャーの紐が露わになった。

「ほ、ほんとだ」

  莉雨ちゃんがかすれた声を上げる。翔馬は唖然として、言葉にならない。ただ、仕事柄、ブラジャーを観察するのは忘れなかった。紐の形状かたすると、あれは、日本製。安物じゃない。ワコールかトリンプか。

  三人に注視されて、男は恥ずかしがるふうでもなく、むしろ胸を張っているように見えた。そうすると、厚くて引き締まった胸板がTシャツを押し広げて、ブラジャーの形状がよく見える。

「どうして」

  桂花さんの声は、情けないほどしおれている。

「どうして男のぼくがブラジャーを着けてるか、ですか?」

 三人で同時にうなずくはめになった。

「それはぼくにもわかりませんよ。ただ着けていると落ち着くんです。オフって感じがするんですよ。ストレス発散ですね。でも」

 さっと袖口を戻して男は続けた。

「だからって、下着泥棒呼ばわりはひどいな。ぼくは自分で気に入ったブラを買って身に付けるのが趣味なんであって、女性の下着をこっそり盗んでエロい妄想する趣味はないんです」

 清々しいほどの言い分だった。実際、目の前の男は、そのすっきりとした容貌のおかげもあって、変態というイメージとは程遠い。いや、彼を変態と呼ぶのはどうか。  

 人にはいろんな趣味嗜好がある。鉄道の時刻表を見ているとくつろぐ男もいれば、料理をするとストレス発散になる男もいる。女性の下着を身に付けてくつろぐ男がいたとして、それのどこが悪いのか。

 翔馬は最近スマホの記事で読んだアメリカのニュースを思い出した。男性女性の区分にこだわりたくたくない、ジェンダーな人々を理解したいという考えから、自分のことを、HEでもSHEでもなく、THEYと呼ばせたい人々が現れているらしい。

 とすると、目の前の男も、さしずめTHEYだ。

 そしてTHEYは、さっそうと手を振って、通りを走り去っていった。


「びっくりしたけど」

 呆然と突っ立ったまま、桂花さんがようやく口を開いたのは、男が走り去ってから、五分も経ってからだろうか。

「結構、許容範囲かも、あの人」

「わかります。すてきですよね、あの人」

 莉雨ちゃんまでそんなことを言い出す。

 翔馬はおもしろくなかった。

「で、どうするんです? 下着泥棒のほうは」

 桂花さんが歩き出した。

「お腹もめちゃくちゃ空いちゃったし、とりあえず、うちでなんか食べてから考えよう」

「そうですね。盗まれた現場に戻れば何か思いつくかもしれないし」

 顔を上げると、公園の隣にあるコンビニで、焼肉弁当680円!と書かれた幟が風に揺れているのが見えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る