第2話
莉雨ちゃんが居酒屋にやって来たのは、八時半を過ぎた頃だった。
喜んだのも束の間、十時になる前に用があると莉雨ちゃんは帰ってしまい、結局終電まで桂花さんと飲むはめになった。
翔馬は町田の郊外の社屋の隣の、親の家に暮らしている。
十二時を回ったとき、町田駅で並ぶタクシーの行列を思い描きうんざりしていると、桂花さんがもっと飲もうとからんできた。
「いや、もう帰らないと」
何度も言ううち、酔いが回ってわけがわからなくなった。
結局、江古田にある桂花さんが一人で暮らすマンションに泊まってしまった。だから、翌日、ステラから電話がかかって、もう一度店に来て欲しいと言われたときは困った。
莉雨ちゃんの顔を見られない。そう思ったのだ。もちろん、莉雨ちゃんはこちらの気持ちを知らないし、なんの義理もない。だが、たった一晩でほんの少し、いや、かなりの割り合いで、気持ちが桂花さんに傾いてしまった自分が情けないのだ。
桂花さんがどういう態度を取るのかも、戦々恐々だった。いつものハイ・テンションだったなら、年上の女性に遊ばれた自分を発見するはめになる。といって、濃密な視線を送られても……。
ステラに着いたのは、ランチタイムが過ぎた頃だった。本当は午前中には出向きたかったが、工場の美寿々主任に、こってり一時間近くも絞られたせいで遅くなってしまった。昨日、銀座の店で、店の要望に合わせて、勝手にデザインを変えると決めてきた件だった。美寿々主任は縫製を担当している。デザインが変われば、縫製も変わる。変えたデザインのせいで、有り得ない縫製をしなきゃならないと、すごい剣幕だった。
ところが、ステラに行ってみると、桂花さんはなんだか元気がなかった。莉雨ちゃんも眉間に皺を寄せている。
「なんかあったんですか」
恐る恐る声をかけると、二人の目つきが鋭くなった。
お客さんが入ってきて、翔馬の疑問は後回しになった。仕方がないから、レジ横にしゃがみこみ、鞄から伝票を取り出して眺めるフリをする。男が一人、ランジェリーショップにいるのは、とても気まずい。
一枚のブラジャーとキャミソールを二枚購入してお客さんが出て行くと、桂花さんはしぼんだ風船みたいになって、レジ後ろのスツールに腰掛けた。とても話しかけられる雰囲気じゃない。
それでも、莉雨ちゃんがアイスティを出してくれた。ただ、味がいつもとちょっと違う。間が抜けたみたいな、薄味。ストローまで忘れられている。
ようやく莉雨ちゃんから話が聞けたのは、それから優に三十分は経ってからだった。
「下着泥棒に遭ったんです」
えっと、翔馬は店の中を見渡した。きらきら、ラブリーな店の中は、いつもと変わらないように見えるが。
「ちがいます、ここじゃないですよ。桂花さんのところ」
「ええっ?」
翔馬は思わず桂花さんを振り返った。
「今朝、ベランダに干しといたブラジャーが一着なくなってたらしくて」
こちらを見つめる桂花さんの目が険しくなる。
顔を莉雨ちゃんに戻すと、莉雨ちゃんも目を細めている。
「ほんとうのこと、言ってくださいね」
「ほんとのことって?」
「――こんなこと、初めてなのよ」
桂花さんに睨まれる。
だからなんだと言うのだ。翔馬は交互に二人の顔を見た。
「お気に入りのブラだったのに。フランス製の、三万九千円もしたやつなのに」
「三万九千円!」
思わず大声になってしまった。驚いたせいで、起きた事件を忘れそうだ。
「そんな高いの買うんですか、女の人は」
「フランス製なら普通よ、この値段は。昨日、寝る前にその話になったじゃない」
と、空気が張り詰めた気がしたが、そう思ったのは翔馬だけだったようだ。翔馬が桂花さんのところへ泊まったことは、もう莉雨ちゃんは知っているらしい。それなのに、いつもどおりの表情。失恋決定だ。といっても、桂花さんとそうなってしまった自分に嘆く権利はないが。
「翔馬クン、持ってかなかった? フランス製のブラ」
「ぼくが? どうして?」
あんまりだ。昨夜のベッドの中で、桂花さんと交わした会話が蘇る。
なんだか成り行きで愛し合ったあと、けだるい体を持て余しながら、たわいない話をした。そして最後に、行き着いたのが、下着のデザインの話だった。土筆メリヤスの売上の落ち込みが、頭の中にいつもあるからだろう。
――土筆メリヤスに、斬新な風を吹き込むなら、フランス製のブラジャーのデザインを参考にしたらどうかなあ。
そう桂花さんは言ったのだ。
――お宅が好きそうな、上品なデザインよ。なんなら、今、着けて見せてあげようか?
そして桂花さんは、あっ、今、洗って干してるところだと言い足した。デザインのニュアンスを崩したくないから、桂花さんはいつも下着を手洗いし、ベランダに干すのだという。
「いままで、一度だって、下着が盗まれたことなんかなかったのよ。あんたが泊まって、初めてなくなったんだから」
「だからって、ぼくが犯人ですか?」
いい加減にして欲しい。毎日、嫌というほど、ブラジャーを手にしているのだ。縫製担当の美寿々主任といっしょに、ブラジャーのカップの内側に指を入れて感触を確かめ、より止めやすいホックを付けるために、実際に何枚も胸に当てているのだ。そんな男が、わざわざベランダへ出て、ブラジャーを盗むだろうか?
「断じて、断じてぼくじゃありません」
怒っても怖くないと子どもの頃から言われ続けてきた童顔だが、翔馬はキッと二人を睨んだ。
「じゃ、誰?」
桂花さんが目を丸くしてつぶやく。
「ほかに心当たりはないんですもんね」
莉雨ちゃんの言い方には、まだ翔馬への疑惑が残っている。
「ほかにいるに決まってるじゃないですか。きっと、近所に住んでる変態ですよ」
そうだ、そうに違いないと翔馬は思った。桂花さんのマンションは二階だ。あまりセキュリティのしっかりしたマンションには見えなかった。おそらく簡単にベランダに行けるんじゃないのか。
しかも、桂花さんの暮らす町には、大学がいくつかある。変質者ではないとしても、男子学生がきれいなブラジャーを見つけて、ついふらっとという展開だってあったかもしれない。
「あの辺りで下着泥棒が出たなんて話、一度も聞いたことないわ」
「最近、引っ越して来たのかもしれませんよ」
翔馬は言ってみた。
「そうですよ。女性の下着を盗むなんて、もうやめようと思っていた泥棒は、あの日、桂花さんのベランダで美しいブラジャーを見つけてしまった。がまんができなくなり、つい、ふらっと」
「なんか、見てきたみたいですね」
莉雨ちゃんが感心したように言った。
「ほんと。あんたの言うとおりかもね。だったらさ、翔馬クン」
「なんですか」
「探してよ、その泥棒」
「へっ? ぼくがですか?」
「そ。あんたが高いブラジャー取り返してよ」
断定的で高圧的。桂花さんのこういう態度には以前から慣れている。だが、いつもに増して遠慮が感じられないのは、昨夜のことがあるからだろうか? 昨夜、たしかに二人の仲は急接近した。いや、接近なんてもんじゃない。Aカップが大好きだった自分なのに、丼を伏せたような巨大な胸に顔をうずめるしあわせを教えられた。
その陶酔の記憶が、翔馬の勢いを削ぐ。
「――それは警察の仕事だと思いますけど」
すると桂花さんは顔の前で手を振って、
「いやーだ、絶対やだ」
と、同意を求めるように莉雨ちゃんを見た。
「桂花さんの住んでるマンションにいちばん近い交番にいるおまわりさんなんですけど、桂花さんの知り合いで」
「返って好都合じゃ」
白いモノが飛んできて、翔馬の顔に当たって、ポシャッと落ちた。手に取ってギョッとする。桂花さんが投げたガードルだ。ランジェリーショップは、これだから困る。
「あのおまわりね、あたしの中学んときの同級生なの! 真面目で、いっつもあたしのこと、馬鹿にしてた。そんなヤツにあたしの下着を探してもらうのなんか、絶対やなの!」
警察官を目指すような少年だったなら、桂花さんみたいな女とは相性が悪いだろうな。
つい、口元がほころんでしまった。
「何がおかしいのよ」
「なんでもありません」
「今日から犯人探しを始めるわよ」
というわけで、町田に戻って伝票書きやら裁断機の修理の見守りやらをしてから、翔馬はふたたび江古田の桂花さんのマンションに行くはめになった。
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