Eカップと僕
popurinn
第1話
いい雲だな。
原宿駅の改札を出て、空を見上げたとき、高矢崎翔馬【たかやざき しょうま】はつぶやいた。
夏の終わりの、夕暮れどきの空に浮かぶ雲。
クロワッサンを逆さにしたような形だ。
白いコバルト絵の具を筆にたっぷりつけて、ぽってりと塗れば、きっとうまく表現できるだろう。端はササッと薄く描く。ほんのりオレンジ色を入れてもいい。
いけない、いけない。
翔馬は自分を叱った。絵のことなんか、考えている場合ではないのだ。今は仕事中。六軒目の販売店に向かう途中だ。
横断歩道を渡り終えると、すぐに桃色のクレープ屋の看板が見えてきた。目指す店は、あのクレープ屋の手前を右に曲がってすぐのところにある。
売れ具合はどうだろうか。
右手に下げた紙袋が重たかった。重量はないはずなのに、販売店へ近づくと重く感じる。七枚のブラジャーは、形が崩れないように梱包材でほっこりとくるんで重ねられている。
ふいに、茜営業部長の叱咤激励の声が蘇った。
「うちのはね、大手に引けを取らない製品だよ。三代目! 今日も自信を持って売ってきてよ!」
あ~あ。
もう雲は見上げてないけれど、ため息は出た。足元には、ひょろりと長くて細い翔馬の影が伸びている。
翔馬は創業七十年の女性下着の製造メーカー、土筆メリヤスの三代目である。土筆と書いて、つくしと読む。古臭い名前だ。
つくしんぼは知っていても、今どきこの字が読める者がいるだろうか。ましてや得意先の販売員の女の子たちは。
「ドヒツメリヤスなんて、変わった名前ですね」
と、何度言われたか知れない。
だが、翔馬は会社のみんなに、名前を変えたいと言えないでいる。創業したのが戦争が終わった翌年の春先だったからと、春が来たのが嬉しかったからと、おじいちゃんに聞かされた記憶が、翔馬の口を重くしている。
株式会社といっても、従業員十七人の小さな所帯だ。それでも長くやってこられたのは、茜営業部長の言う通り、製品がいいんだろう。だが、翔馬には、自分ちの製品がよそと比べてどれほどいいのか、本当のところよくわからない。二代目社長として頑張ってきた父親が倒れて、急遽母親に泣きつかれて継いだ社長業で、仕事に就く前は美大にそのまま残って絵を描くつもりでいた。女の人の下着なんか、まったく興味がなかったのだ。
まして、土筆メリヤスは、ブラジャー専門。Aカップ、Bカップと聞いて、はじめ頭に浮かんだのはカップ麺だったほどで、ましてワイヤー有り無しとか、サイドのテンションとか言われても、何がなんだかわからなかった。
いまでも、よくわかっているとは言えない。女性の下着に興味が湧くのは、それは、好きな女の子が付けている場合に限ってであって、下着そのものを愛でた経験はない。だから、社長とは名ばかりで、営業をやらされている。自社の製品を頭に叩き込むには、まず営業でお得意さんを回れと、病床で父が言い残したのだ。
土筆メリヤスが都内に自社製品を置いているランジェリー・ショップは全部で九店。新宿、原宿、渋谷、広尾に目黒、恵比寿に銀座。上野に日暮里、北千住と浅草の店にも置いている。
メリーゴーランドに乗ってるみたいだな。
ラブリーな外観の店舗を廻っていると、父親に乗せられた馬に跨っている気分になる。
ぐるぐる、ぐるぐる。
いまのところ、馬を下りて新規開拓をしようとか、別の乗り物に乗り換えようとか、そんな気概は翔馬にはない。
卒業製作の絵が、大学代表に選ばれなかったのが響いている。
あれからまだ半年。メリーゴーランドは回り続けている。
紙袋を左手に持ち替えて、翔馬はポケットからハンカチを出すと、額の汗を拭った。今年も残暑が厳しい。だが、スーツの上着を我慢して脱がない。ランジェリー専門店は、どこも冷蔵庫みたいに冷房を効かせている。
よその店舗に比べて、この竹下通りにあるランジェリーショップ・ステラは、特別だ。
ステラには、二人の店員がいる。神原桂花【かんばら けいか】さんと沢木莉雨【さわき りう】ちゃん。桂花さんのほうは、三十に手が届くベテラン販売員で、莉雨ちゃんのほうは、多分翔馬と同じくらい。
この沢木莉雨ちゃんが、翔馬にとって特別だった。淡い、言ってみれば、土筆メリヤスの新製品に付けられた、薄桃色のレースのような気持ちでしかないが、月に一度の営業の楽しみになっている。
今日も、この店に入るときだけは、翔馬の胸はほんの少し弾んだ。ピンク色のドレープがかかったカーテンの下がった窓に姿を映し、指先で自分の前髪を直した。
「毎度でーす」
リリンとドアベルを鳴らして入っていくと、ブラジャーやガードル、キャミソールがきらきらと吊り下がった向こうから、いらっしゃーいと声が上がった。先輩店員の桂花さんだ。今日もテンション高め。コツッコツッとヒールの音も響く。
「翔馬くんさあ、蕎麦屋の出前じゃないんだから、その毎度でーすってのやめてよね」
今日の桂花さんは、腰まであるほぼ金色の髪に、小さな白い花を散らしていた。なんとかというアニメのキャラクターになっているのだろうが、翔馬にはわからない。ただ、この原宿にはぴったりだと思う。わざわざランジェリーショップで下着を購入する客は年配層に多いが、ここ原宿では、ぐっと年齢層が下がる。
お客さんはいなかった。銀座の店では、夕暮れどきが混むと聞いたが、原宿では五時を過ぎると客足は止まってしまう。
「暑いねー。なんか、飲む?」
有難いことに、ステラは営業マンに冷たい飲み物を出してくれるのだ。
すっとレジの向こうから腕が伸びて、冷えたアイスティが出てきた。出してくれたのは、莉雨ちゃんだった。今日もうつむきがちに、口の中で言う。
「ご苦労様です」
「ありがとうございます」
アイスティを受け取って、翔馬は莉雨ちゃんを見つめた。まっすぐな肩までの髪と、銀行員みたいにみえる地味な服。ランジェリーショップ店員らしくない控えめさ。白い横顔に、杏色の口紅がよく似合っている。
やっぱりいいなあ、レインちゃんて。
莉雨の雨を取って、レインちゃん。我ながら、莉雨ちゃんの静かな雰囲気にぴったりの呼び名を付けたと思う。もちろん本人の前で口にしたことはないが。
「ねえ、翔馬クン。うれしいお知らせ」
桂花さんに呼ばれて、さりげなく視線を戻す。
「売れたわよう、あんたんちのブラ」
「そうですか。よかったあ」
心底そう思った。ワコールだのトリンプだの、ステラでも有名メーカーの製品は多数取り揃えてある。その中で、土筆メリヤスの製品が売れるとは僥倖だ。
「でも、一つだけね」
カクッと、ズッコケるふりをしてみせた。
キャハハハと、桂花さんがウケてくれたが、ズッコケたのは演技じゃなかった。朝、町田の郊外にある社屋を出てから、ステラで六店目。一店目の新宿店は売上ゼロ。二店目の渋谷店では、売上どころか、返品された始末。
ほかの三店舗も、似たような成績だった。日暮里店が唯一、数着売れていたっけ。
マジに顔が引き攣った翔馬を見逃さなかったのか、桂花さんが畳み掛けてきた。
「しょうがないよねえ、一着じゃさ」
「はい」
と、翔馬は返す。ほんとうに大問題だ。
茜営業部長のボヤキが蘇る。
「はっきり言って、うちのが売れないのは、お客に見る目がなさすぎるんですよ。派手さばっかり好むんだから、最近の客は」
茜営業部長に言わせれば、下着とはまず肌を守るもの。先代から受け継いだこのコンセプトは、これからも大切にすべきだ。
そのためには、派手なデザインよりも、着心地が大事。華美な装飾を避けて、値段も適正価格に抑えるべき。
ところが、桂花さんは続ける。
「デザインがイマイチなのよねえ、お宅のは。ランジェリーって、やっぱり夢がなきゃ。着心地云々よりも、お客はさあ、夢を求めてるのよ」
「はあ」
としか返せない。会社でいつも聞かされる下着の定義とは真逆の見解。
「インパクトなのよ、大事なのは。新しい恋を予感させるような、ときめきがなくちゃ」
そう言って、桂花さんは目の前のド派手なブラを手に取った。そして自分の胸に当ててみる。色は真紅。乳首の部分にハート型の黒いレース。
「ほら、こんなの付けてると、人に見せたくなるじゃない? 一万七千円出した甲斐があるじゃない」
目のやり場に困った。桂花さんは丼を伏せたような重圧感のある巨乳の持ち主。その下のウエストはなぜか絞ったみたいにくびれている。
「ね、似合う?」
今日の桂花さんは、銀色の鋲がたくさん付いたショートパンツを履いている。脚にはベージュ色の編みタイツ。その網目に目がチカチカする。
妄想を避けるために、翔馬は持参した新製品の見本を出した。
ショーケースの上に並べた新製品は、たしかに、地味で、インパクトはなかった。肌色の無地のブラが二つ。紺色のスクールブラみたいなブラが二つ。
「なあに? おんなじようなのばっかじゃん」
桂花さんは容赦ない。だが、食い下がらなくては。ステラのオーナーは貸ビル業など、手広く事業をしている同族会社で、ここは親族の趣味のような店。仕入れは、桂花さんに任されている。
「よく見てください。この横の部分。微妙にラインを変えてるんです。こっちは横にお肉がはみ出ないように、しっかり抑えるタイプのもの。こっちは痩せ型の女性のために、たるみが出ないよう工夫してきました」
営業成績はまだまだだが、お肉がはみ出さないようになどと、顔を赤らめないで言えた自分を褒めてやりたい。
「着け心地よさそうですね」
莉雨ちゃんが助け舟を出してくれた。莉雨ちゃんはいつも、桂花さんに責められると助けてくれるのだ。
翔馬はそっと、ブラをつまみ上げた莉雨ちゃんを見た。
少年と見紛うような体型の莉雨ちゃんだが、翔馬は色っぽいと思う。翔馬は女を前面に出してくるような巨乳よりも、小さくてさりげない胸のほうが好きだ。
きっとA、いやAAカップ。ストライプのシャツブラウスの上からではよくわからないが。
「今回はいらないわ」
すげない返事とともに、桂花さんはさっと土筆メリヤスの製品をまとめてしまった。
「今日は、あたし、もう上がりなの。だから、とにかくおしまい」
「そんな」
「このあと付き合ってくれるんなら、続きの話をしないこともないけど?」
桂花さんにはもう何度も誘われている。そのたびに適当な理由ですり抜けてきたが、今日は行こうと思った。なぜなら、莉雨ちゃんが声を上げたからだ。
「わたしも遅れて参加していいですか?」
いいよーと桂花さんが機嫌良く叫び、青山通りにある居酒屋へ行く段取りになった。翔馬とのツーショットにこだわらないあたり、桂花さんに本気で誘われているわけじゃないと、ちょっとホッとする。
ボーッと立っていると、口紅を塗り直した桂花さんに肩を押された。
「行くよー」
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