第10話

「…あ。ご、ごめんなさい!」


少女と別れてから、溶けた分の時間を少しでも稼ごうと飴を舐めながらぼんやりと歩いていたら、急に立ち止まった前の人にぶつかってしまった。

前の人がゆっくりと振り返る。


あ、やばい。この人も面布だ。


手足が、どろりと溶け出すのが分かった。

どんどん溶け、バランスが取れなくなって尻もちをつく。


「…お前」


やばい、これは本当にやばい。全く力が入らない。動けない。


視界の隅に映る地面に転がった提灯を見て、ひょっとこのお面をつけた男が脳裏に浮かんだ。せっかく忠告してもらったのに。さっきは何ともなかったからって無意識に高をくくっていた。


「狐の加護か」

「え…」

「提灯まで揃ってるとは珍しい。あの気まぐれが加護まで付けてやるとは」


お面と提灯を手に取った面布の人物は、ふ、と笑う気配と共にじっと見てきた。広場で食べられそうになった時とはまた違う恐怖を感じる。


「お前、名は?」

「名前…?」


えっと、何だっけ?あれ?何で分からないんだろう。自分の名前なのに。

分かんないけど、でも答えなきゃ。


「…分からないです」

「そうか。なぜ人間がこんなところにいる?」

「それは、あの、覚えてないんですけどお狐様に気に入られたみたいで」

「あぁ、この面を持っていたことが何よりの証拠か」


どんどん体が溶けていく。あっという間に二の腕までが溶け、足も太ももまで溶けていた。あの少女の時より速い。どうして?


「あ…」

「ん?あぁそうか。お前は人間だからな。しかしお前が消えようが心底どうでもいい」


怖い。睨まれているわけじゃないのに、ただ見られているだけなのに。どうしたらいい?このまま溶けきってしまうなんて嫌だ。嫌だ。嫌だ。


「この人間に慈悲をくれてやってはもらえないか?」


背後から声がした。あの少女の声だ。


「なぜ?」

「これにはほんの少しばかりの借りがあってな」


少しばかりの借りって、飴のことだろうか。


「私は受けた恩は必ず返すんだ。知ってるだろう?」

「そうだな」

「それにお前は、人間のことなど心底どうでもいいと言った。ならば、生きていようが構わんだろう」


目の前の面布の人物は無言で狐面を被せてきた。提灯も側に置かれる。


「そなたがそこまで言うとはな。珍しい。人間の恩に報いてやるのは幾年ぶりだ?」

「覚えとらんわ」


視線を逸らされ、金縛りにあったみたいにピクリとも動かなかった体が動かせるようになった。とりあえず助かったらしいけど、両手足は完全に溶けてしまった。それに、前後の面布の人たちが自分のことを生かすも殺すも簡単であることを会話から察して、体に力が入らない。


「人間」

「は、はいっ」

「ここはお前の世界ではない。帰るのならさっさと帰れ」

「はい…」


帰りたいよ本当に。僕だって好きでこんな世界に来たんじゃない。元の世界に、自分を認めてくれる世界に帰りたい。


「あぁそれと」


突然かがみ込んできたかと思うと、おもむろに面布を捲り上げ、目を合わせてきた。


「…あ、あ…」

「己よりも力ある者と会話をする時には、目を合わせないよう頭は低く下げろ。面を隔てていなければ目が潰れていただろうことを覚えておくといい」


冷や汗が止まらなかった。心臓を直に掴まれているような恐怖だった。


「……っ」


必死に何度も頷くと、目の前の人物はゆっくりと立ち去っていった。

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