第26話

 広場から離れた場所にユキと共に行くと、そこにも開けた空き地があり、その縁に幾つかの粗末な小屋が建てられていた。明らかに人が住む為の建物ではない。近付くに従い独特の獣臭が漂ってくる。小屋に着いたユキが木製の戸を開けると、むせ返る程の悪臭が吹き出て、私は思わず小さな悲鳴を上げた。

「邪魔するで。グビラ、ウミボウズ、モグラ」

 怯む私に構わず、ユキが小屋の中へ呼び掛ける。だが、それに答えるのは何頭もの豚の鳴き声だった。

 小屋の中では3人の男達が、板で出来た囲いの中に居る豚の群れに穀物の餌を与えていた。最も近くにいる中背だが筋肉質の中年男が手を止めて口を開く。

「おや、ユキちゃんじゃねえか。こんな早くにどうしたんだい?」

 如何にも酒が好きそうな、赤鼻のその男は親しげな笑みを浮かべながら早口でそう言った。その口調から察するに関東出身のようだ。

「この間来た新入り連れてきたんや。エイジって言うんや。よろしくな」

 ユキが私に右掌を向ける。私は頭を下げた。

「エイジです。よろしくお願いします」

「おお、一昨日の晩にやって来た坊主か。よろしくな。俺はグビラってんだ。あっちにいるのはウミボウズとモグラだ。変な名前だと思うだろうが、邑長に貰ったんだから、ありがたいこった。お前もその内、俺達みたいな変な名前になるんだから覚悟しておきな」

「グビラ達は家畜の世話をしとるんや。私らが毎日肉や卵を食えるんは、この3人のおかげなんやで」

 ユキの言葉に、私は漸く合点がいった。この邑に来た晩、ウーが出してくれたカツ丼に使っていた肉や卵は、ここで取れたものだったのだ。

「ここに来てから3度の食事で美味しいものを頂いています。ありがとうございます」

 再度頭を下げる私に、グビラは照れくさそうに手を振った。

「なあに、気にすんなって。ここではお互い様さ。俺達だって旨いコメや野菜を分けて貰ってるんだからな」

「でも、家畜の世話は大変でしょう?」

「俺も最初はそう思っていたが、やってみると案外簡単だったぜ。ここの家畜は丈夫で病気1つしねえし、あっという間に大きく多く育つ。豚はもう100頭近くになるし、鶏なんかは数えきれねえ。ここで出る糞尿は、田畑の肥料になって旨いコメや野菜が更に採れるって寸法さ。餌や水がとんでもなく良いんだろうが、俺みたいな素人には、本当の理由はさっぱりわからねえ。この邑の大きさじゃあ流石に牛は無理だがな」

「……やっぱり、元々農家ではなかったんですか?」

 私の問いにグビラは頷く。

「俺は横浜の港で長年、荷役の仕事をやってたんだ。ちょっと喧嘩沙汰を起こして、そこに居られなくなって、日本中ふらついた挙げ句、この邑に流れ着いたって訳さ。ご法度だから他の2人と昔話をした事はねえが、あいつ等も似た様なもんらしいな」

 アントラの言葉は正しかった。

「まあ見ての通り、この仕事は臭いと汚れが酷いから、大抵の住人はやりたがらねえ。それに、豚や鶏を肉にするには奴らをシメなきゃならねえからな。毎日顔を見ている生き物だぜ。その時だけは大変というよりは、辛いよな」

 囲いの中で穀物をむさぼり食っている豚の群れを見て、グビラは少しだけ悲しそうな顔をした。

「人の嫌がる仕事をやってくれる。あんたらには、ほんまに感謝やで」

 ユキは両掌を合わせて頭を下げた。グビラは鼻だけではなく顔中を赤くする。

「ユキちゃんまで、よしてくれよ。その分俺達ゃ、他の住人よりも多くの肉や卵を食えるんだ。あちこち渡り歩いて来たからわかるが、ここの豚や鶏は間違いなく何処よりも旨い。それを毎日腹一杯食えるんだ。今のご時世で、俺達は日本一贅沢しているぜ」

 グビラは誇らしげに胸を張る。その通りだった。1945年前半の日本は連合軍の猛攻でシーレーンが分断されて、海外からの物資輸送はほぼ不可能になっていた。日本海ですら米軍の機雷散布が頻繁に行われ、朝鮮半島からの船便もままならない状況だった。その為に深刻な食糧不足に陥っており、社会を動かしていた首相大臣といった大物政治家や、大将元帥のような高級軍人でさえもが満足に食べられなかったのである。

 この、謎めいた邑の住人だけが、好きな物を好きなだけ食べる事が出来た。多少不可思議な点があろうが、生きていく事に比べれば、そんなものは取るに足らない些事に過ぎなかったのだ。ユキやアントラが深く考えるなと言う、その本当の意味を私は理解した。

 これ以上の長居はグビラ達の仕事の妨げになる。私とユキは小屋を後にした。

「私らが毎日食べている物は、ああいう人らが汗や泥にまみれて育ててくれるんや。それを忘れたらあかんで」

 ユキがしみじみとした口調で私に言う。

 他の建物からも豚や鶏の鳴き声が聞こえる。グビラ達は彼らの世話もしているのだ。邑を案内するにあたって、ユキが真っ先に私をこの場所に連れてきた理由がわかった。私の心の中で、改めて感謝の念が沸き上がった。

 道を引き返して邑の中心部に向かう私達に、誰かが横から声をかけてきた。

 それがダダという青年であった。

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