第24話

 カミ様の住まう洞窟への誘惑を払い除けた私は、アントラの居る場所を目指して歩き続けた。道は緩やかな下り坂になっており、その端には広場にあった池の縁から掘られた小さな水路が平行して続いている。そしてそれらが伸びる先で、私は信じられない光景を見た。

 そこは山間に開けた平地で、大して広くはないものの幾つかに区分けされた水田になっており、件の水路が繋がっていた。どの水田にも一面に稲が植えられている。

 それらの稲は高々と背を伸ばして既に青々しい穂をつけていた。

 私は驚きを以て、緑の絨毯の如く眼前に広がる水田地帯を見つめた。疎開村の田んぼでムラマツと共に田植えを行ったのは、つい一昨日の事である。しかし、この邑の稲は真夏を迎えた時の様な成長ぶりだ。いくらなんでも早すぎる。一体どうなっているのか。

 歩みを止めて立ち尽くす私に、遠くから私の名前を呼ぶ、野太い声が聞こえてきた。そちらに視線を移すとアントラが両手を上げて大きく振っている。私はそちらに向かって小走りに近寄って行った。途中で水田で何かの作業をしている住人達が挨拶をしてくる。私は彼らに返事をしながらアントラの元に辿り着いた。

「来てくれたんだな。嬉しいよ」

 アントラがにこやかな表情で言う。

「はい。ウーさんに言われてお昼ごはんを持って来ました」

「そうか。ありがとうよ。そう言えば、もう飯の時間だな。お前も腹が減っただろう。ここで食っちまおう」

 アントラは私から渡された風呂敷包みを地面に置いて、それを広げた。竹皮にくるまれた大きな握り飯が数個と、竹で作られた水筒が2本出てきた。

「お前の分だ。食え」

 アントラは2個の握り飯を指差した。ムラマツから毎日与えられていた物よりも遥かに大きく、色艶が良い。私は頭を下げて1つを手に取った。

「いただきます」

 そう言って握り飯を食べ始めると、中に醤油で煮付けた豚肉の小さな塊が入っていた。疎開村で出されたのは只の塩むすびだったので、私は驚きと共に夢中で食べた。旨かった。

 食べながら改めて水田を見渡す。力強く成長した無数の稲穂が春のそよ風を受けて、ゆらゆらと揺れている。

 何故これらの稲は、こんなに大きくなっているのか?

 私の疑問を察したのか、アントラが声をかけた。

「驚いただろう?まだ4月だぜ。俺がこいつらを植えたのは去年の暮れだ。ここの稲は真冬でも育つんだよ。稲だけじゃない。この邑にも雪が降ったが、それでもありとあらゆる作物が成長した。しかも普通の2倍3倍の密度で植えているのにだ」

 アントラに言われて気付いたが、疎開村で私とムラマツが植えた苗の間隔よりも、この水田の稲の間隔は3分の1しかない。こんなに植えたら養分が不足して稲は育たない事は、子供の私にもわかるのだが、それにも関わらず水田の中で稲はぎっしりと詰まっている。

「どうしてそんなに早く、沢山の作物が育つんですか?」

 私の問いにアントラは大きく頭を振った。

「さっぱりわからない。他の住人達もわからなかった。俺は去年の暮れ、この邑に来るまで畑仕事なんかした事もなかった。俺だけじゃない。この邑に居る奴らの殆どは素人農家だ。土地の耕し方も、作付けや肥料のやり方なんてものも全く知らない。皆、先に住み着いた奴らの真似をしているだけだ。それなのに、俺達のでたらめなやり方でも、ここの作物はちゃんと育つんだよ。俺より先にここに来た連中の話じゃあ、去年や一昨年は4回もコメや野菜が獲れたそうだ。おかげで狭い田畑でも、俺達は毎日腹一杯飯が食える。土と、それに水が特別に良いんだろうが、本当の理由は誰も知らない」

 アントラの話す内容に、私は何重にも驚いた。

「え?アントラさん達はこの邑で生まれ育ったんじゃないんですか?」

 大男は笑った。

「お前の世話役になったから白状するが、俺も女房も、元々は別の場所に住んでいた。この邑とは縁もゆかりもないよ。お前が来るまでは、1番の新入りだったんだ。掟だから他の住人の詳しい過去は知らないが、あいつ等の話しぶりじゃあ、たぶん全員がこの邑の出身じゃないだろう」

「全員が他所からここに来たって事ですか?ユキさんも?」

「おそらくはそうだ。あの子の話し方からして、西の方の生まれだろうからな。他にも色んな奴が、そいつ等の故郷の言葉を話している。だけどユキちゃんは、この邑で一番の古株だと思う。誰と軽い世間話をしても、そいつがここに来た時には邑長とユキちゃんが既に居たと言っていたからな。掟だから本人に直接聞いた訳じゃないが……」

「ユキさんは家族がいないんですか?邑長は家族では……」

「顔立ちが全く違うし、言葉も違う。長は東の人だ。もちろん、それだけで断言は出来ないが、2人を見ていると、とてもじゃないが家族だとは思えない」

 隠れ里なのだから、私の様に外の世界からやって来た者は一定数いるだろう。しかし、住人全員がそうだというのは……。代々住む者が1人もいないとは……。

 なんとも不気味な話に、私は暫くの間、唖然とした。その様子にアントラは、握り飯を頬張りながら私を見つめた。

「……この事はあまり考えるな。理由はわからないが、この邑には食い物が一杯あって、しかも簡単に手に入る。ここでコメや野菜を作っている者以外にも、豚や鶏を飼育している住人達もいる。生け簀を作って川魚を養殖している者もいる。味噌や醤油だって邑で作っているんだ。全員が素人なのに、嘘みたいにちゃんと作れる。そうやってお互いに自分の作った物を分け合って生きている。今のご時世、外の世界では満足に食えない奴ばかりだ。お前だってそうだったんだろう?それに比べりゃ、旨い物を腹一杯食えるだけで充分じゃないか。だから理由なんて考えるな」

 少しの間を置いて私は頷いた。アントラの言う通り、何年間も腹ぺこで過ごしてきた日々に比べれば、この邑の生活は天と地程の違いがある。掟によって外の世界には戻れないが、そこに在って、自分を苦しめていた飢えや戦争の恐怖は、この邑には皆無だ。今はそれで充分だ。余計な事は気にせず、他の住人達と同様に生きていこうと私は思った。

「飯を食ったら手伝ってくれ。ここでは作物は良く育つが、雑草も同じ様に沢山生えてくるんだ。あとひと月もすれば収穫だから、毎日そいつらを取り除くのが今の仕事だよ」

 アントラの言葉に私は再度頷くと、充満する様に生い茂る稲の大群を眺めた。

 後れ馳せながら説明するが、私が辿り着いた隠れ里の事を『村』ではなく『邑』と呼ぶのは、長から見せられた掟について書かれた紙に、『邑』と表記されていたからだ。邑とは古代中国で壁に囲まれた集落の事を指すが、外界から隔絶された山奥の隠れ里も似た様な場所である。

 この邑には名前はなかった。長も住人達も単に邑と呼んでいた。そして私の目には、人を含めたあらゆる動植物が繁栄する、豊穣の楽園に見えた。

 少なくとも、この時には。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る