第19話
私はカツ丼をおかわりした。数年間に渡り食糧と栄養不足に苦しめられてきた私には、恥も外聞もなかった。脇目もふらずに猛烈な勢いで大人2人分を平らげた私は、久しぶりに心身共に満腹感で満たされたせいなのか、それまで無意識に続いていた緊張の糸があっさりと途切れてしまった。自分でも気づかない内に床に寝転んで、そのまま眠り込んでしまったのだ。結局、その日の夜はアントラの家に泊めさせてもらった。夢など全く見なかった。
朝、目覚めると布団の中にいた。アントラとウーが用意してくれたらしい。快眠後のすっきりした気分になり、私は板張りの天井を見上げながら昨日の食事を思い出していた。
旨かった。
食べている時は空きっ腹を埋める事しか頭になかったが、ウーという女性が作ったカツ丼は本当に旨かった。彼女には朝一番にお礼を言わなければ。アントラにもやはりお礼を……。
ここで唐突に私の頭の中に、疎開先の事が思い浮かんだ。
ムラマツと村長夫人、あの2人は今頃どうしているのか。私が帰らなかったのを心配しているだろうか。いや、あんな連中の事は考えるな。どうせ向こうも何とも思ってはいない。むしろ、お荷物が消えてせいせいしているさ。自分はこれからこの邑で生きていくんだ。ならば、これからの事を考えよう。
それにしても……。
ここは一体、どういう場所なのだ?山奥に存在する、地図に無い邑。そんなものがあるだなんて。疎開村に居た時は、この邑の話など噂にも耳にしてはいない。ここの事は誰も知らないのだ。そんな得体の知れない所に自分が住むなど、本当に大丈夫なのか?
それまで満ち足りていた私の心に、改めて言い知れぬ不安が沸き上がってきた。そんな思いで天井を見つめる私の視界に、真っ白い顔がいきなり現れた。
「目え覚めたか?」
ユキが私に話しかけてきた。私の心臓が一瞬跳ね上がる。それを懸命に押し隠して、私は口を開いた。
「う、うん。お、おはよう……」
私の言葉に白い少女はにっこりと笑顔を浮かべた。
「おはようさん。朝ごはん出来とるで。顔を洗ってな」
何故、ユキが未だここに居るのか?上半身を起こして見回すと、寝室となっている部屋には布団が4つ敷いてある。私の布団は部屋の一番奥にあったが、その脇にある布団の中から、ユキは頬杖をついて私を見ていた。
「も、もしかして隣に寝ていたの?」
私が声を上擦らせて問いかけると、ユキはあっさりと頷く。
「ど、どうして?自分の家で寝たら良いのに」
「別にええやんか。私の自由や」
何故そんな事を聞くのかと、不思議そうな表情でユキが答える。私の胸は高鳴りが止まらなかった。一人っ子の私にとって、女の子と一緒に寝るのはこれが初めての事だったのだ。そして私は彼女の裸を見てしまっている。
私の気持ちなど一向に解していないユキは、素早い動きで立ち上がると台所のある方へ顔を向けた。昨日と同じ、白い袖無しのワンピース姿だった。そのまま寝たらしい。もっとも私も昨日と同じ格好だったが。
「アントラとウーが待っとる。早う行くで」
私はユキの後を追って台所に向かった。囲炉裏の周りには大男と細身の女が腰を下ろしている。私の顔を見るとアントラが声をかけた。
「おお、起きたか。早く顔を洗え。朝飯だ」
「おはようございます」
私は返事をすると、台所に行く。そこでは先にユキが立っていた。石造りの流し場の横には大きな
当時、東京では上水道は普及していたものの、地方となると主に地下水を汲み上げて使っていた。疎開先の村も、当然この邑にも水道はなかった。
ユキの次に洗顔とうがいを済ませ、囲炉裏前に座った私に、アントラが言う。
「昨日、あれから女房と話したんだが、お前の世話役を引き受ける事にしたよ。改めてよろしくな、エイジ」
それを聞いた私は、内心安堵しながら床に手を置いて頭を下げた。
「あ、ありがとうございます。これからよろしくお願いいたします。昨日のご飯、美味しかったです。本当にありがとうございます」
アントラは大声で笑った。
「そうか、旨かったか!朝飯を食ったら邑長の所に行こう。この事を報告する」
「はい。いただきます」
邑長は今日、詳しい話を聞くと言っていたのを私は思い出した。
ウーが用意してくれた朝食は白米を炊いたご飯に味噌汁、そして卵だった。昨日のカツ丼も白米だったが、この数年、東京では白米など殆ど食べられなかった。家畜の餌に使う様な雑穀に、わずかなタクアンを毎朝食べていたのである。ましてや卵など。私は昨晩と同じく、信じられない思いで卵かけご飯を口にした。旨かった。
朝食を済ませて私とユキ、アントラは小屋を出た。ユキが私に声をかける。
「私はこれで失礼するわ。今日は邑長のシケた顔を見とうないんや。悪いけどアントラ、後は頼むわ。エイジ、またな」
私が何かを言う前に白い少女は駆け出して、我々が向かう先とは逆の方へ去っていった。
「あの子は本当に元気だなあ。さあ、俺達も行こう」
アントラは微笑みながらユキを見送ると、邑長の小屋へ歩いていく。私はその横に並んだ。道の脇に立つ幾つかの小屋を通りすぎる内に、アントラが小さな声で呟いた。
「一緒に暮らすと直ぐにわかる事になるから、前もって伝えておく。実は、俺の女房は口が利けないんだ」
「え……」
アントラの言葉に私は唖然となった。そう言えば昨夜も今朝も、ウーが何かを話すのを見てはいない。
「生まれつきじゃないんだ。去年、ある事が起こって、それが原因になっている。だから、あいつの返事は頷くか首を振るしかない。その辺は気にしないでくれ」
「わ、わかりました……」
「その内、色々話してやるよ。今は勘弁してくれ。邑長はたぶん、ここの掟の事を説明する筈だ。俺達の時もそうだったからな。奇妙な掟だが、黙って聞いておくんだ。すまんが俺は立ち会えない」
「は、はい」
俺達の時?どういう意味だ?
私はアントラに質問しようとしたが出来なかった。そんな雰囲気ではなくなっていたからだ。
アントラは下を向いていた。今までの豪快で力強い印象とは反する、何とも言えない暗さが大男に纏わりついているのを私は感じた。
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