第18話

 ユキが私を連れていったのは、邑の長が使う小屋とほぼ同等の大きさを持つ建物だった。玄関の戸を開くとユキは中に向かって声をかけた。

「アントラ、ウー、邪魔するで」

 彼女に応じて2人の男女が出てきた。厳つい顔をした熊の様に体格の良い大男と、ユキ程ではないが色白の線が細い女で、共に40歳前後と思われる。男は岩石の様な顔をほころばせながらユキに返事をした。

「いらっしゃい、ユキちゃん。また晩飯食っていくかい?」

「悪いなアントラ。それでな、実はお願いがあんねん」

 ユキはそう言うと、自分の背後に隠れていた私を前に押し出す。

「こいつの分もええか?」

 大男は少し驚いた表情を浮かべたが、直ぐに笑顔に戻ると大きく頷いた。

「さっき邑にやって来た子供だな。もちろん良いとも。大丈夫だよな?」

 彼は隣に立つ女に訊ねると、彼女も頷く。

「さあ、中に入ってくれ。そんなに広くはないが、くつろいで。直ぐに飯の準備をするから」

 ユキと私は薦めに従い中に入る。土間に台所、その奥に板張りの座敷があり、先程の小屋と変わりはない。

 4人は囲炉裏の周りに座り、ユキが私に小屋の住人達を紹介する。

「邑の住民や。こっちのおっちゃんがアントラ、女の人は奥さんのウーや」

 アントラと呼ばれた男が声を出して笑う。

「俺はおっちゃんで、女房は女の人かよ。随分扱いが違うな」

 ユキも笑う。

「堪忍やで、おっちゃん」

 2人は大笑いした。ユキとはかなり仲の良い関係らしい。邑長との対応の違いに私は興味を持ったが、それよりも知りたい事がある。数分前にも耳にしたが、アントラ?ウー?それが人の名前なのか?あだ名だとしても奇妙過ぎる。目を丸くしている私にアントラが答えた。

「驚いているな。無理もない。俺達も初めは同じだった。2人共、元々は普通の名前だったよ。でも、この邑では全ての住民に専用の名前が長から与えられて、皆はその名で呼び合うんだ。それがここの掟さ」

 私が何かを言おうとしたが、ユキに先を越された。

「この子はエイジって言うねん。未だ長から名前を貰ってないから、当分はエイジって呼んでや」

「それじゃあ、長から邑に住む許しが出たんだな。よろしくな、エイジ」

 ここでウーと言う女は立ち上がると、台所に向かった。食事の用意をするのだろう。

「掟?そんなものがあるんですか?」

 私の疑問にアントラは答える。

「それなりの人数が住んでいるから、ルールが必要なんだよ。ところでユキちゃん、お願いってのは他にもあるんだろう?」

 ユキは額に片手をぴしゃりと当てた。

「さすがや、アントラ。エイジが邑に住むのに世話役が要るねん。アントラとウーで引き受けてくれんか?あんたらは元々夫婦やから、適任だと思うねん」

「子供のエイジを1人で生活させられないんだな。俺は構わないが、女房がどう思うかだな」

 ここで小屋の中に食べ物が放つ良い匂いが漂ってきた。その途端腹ぺこの私には、その事しか考えられなくなる。

 何を作っているんだろう。この際、何でも良いから早く食べたい。でも初めてのお宅で、はしたない真似は出来ない。

 口の中に涌き出てくる唾液を懸命に飲み込みながら、私はユキとアントラの話に集中しようと勤めた。なんと言っても、私の面倒を見てくれるかも知れない人達の前なのだから、行儀良くしなければ。

「ウーには私からも重ねてお願いしとくわ」

「ははは。女房はユキちゃんには甘いからな」

 そこへ盆を抱えたウーが戻って来た。彼女が床に置いた盆の中身を見て、私は跳ね上がりそうになった。

 カツ丼だった。

 カツ丼など、アメリカとの戦争が始まってから食べたことがなかった。それどころか肉類すら、口にしていない。こんな山奥で信じられない物を見た私は遂に、ユキとアントラとの会話を放ったらかしにして、堪らなく良い匂いを放つどんぶりに目を釘付けにしてしまった。

「こんなもの、久しぶりだろう?遠慮は要らん。直ぐに食ってくれ」

 アントラの声に、私は震えながら尋ねた。

「ほ、本当にいいんですか?」

「もちろんだとも。おかわりが欲しいなら言ってくれ。大丈夫だよな?」

 アントラがウーを見ると、彼女は笑顔で頷いた。私はお預けを解かれた犬の様に、どんぶりの1つを掴むと、中身を無我夢中で口の中に掻き込んだ。

 その場の全員が大笑いをする中、私は泣きながらカツ丼を食べた。

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