第10話
気分が悪くなった私は教室には向かわずに教員用の便所に駆け込み、個室に入って扉を閉めた。そして和式の便器に先程食べた物を吐き出してしまう。
只でさえ食べ物は足りていないのに、胃の中が空っぽになってしまえば一気に空腹感が進む。これから夜になるまで口にできる物は何も無い。私は情けなさに涙が出てきた。
便器の前でしゃがみこみ、項垂れていると便所の扉を開けて騒がしい声が入って来た。私は何事かと声の聞こえる方へ頭を向ける。若い男が甲高い早口で何かを喚いていた。
「アラシ大尉、この村にスパイが居るなんて言っちゃって、本当にあれで良かったんですか?」
野太い声が応じる。
「今更何だね。怪電波の事を相談してきたのは君だろう」
「そりゃあ相談しますよ。初対面の時に、何か異変があったら、どんな些細な事でも申告して欲しいって大尉が仰ったじゃないですか」
昼礼で見たアラシ大尉とイデ研究員が2人揃って便所に入って来たらしい。彼等は私が居る個室の前で止まる。そこには小便用の便器がある。暫くすると2人は小便の音を立て始めた。背後にある個室の扉が閉まっている事に気付いてないらしく、彼らはそのまま話を続ける。
「僕は正体不明の電波を感知したと言っただけですよ?それが、こんな大事になるなんて……」
「陸軍の研究所近くで怪しい電波が出ている。それだけで諜報員の存在を疑うのは憲兵隊としては当然だ」
「電波と言っても超低周波から超高周波まで、極めて広い帯域の周波数が出ているんです。あれは通信用の電波ではありませんよ。今になって思えば、あれはむしろ地震の時に発生する電磁波に近い。大尉もご存知でしょうが、去年の12月に紀伊半島が震源地の地震が起きました。知り合いの話だと、関東大震災に匹敵する程の大地震です」
「名古屋の工場地帯も随分な被害を受けたらしいな」
私はそんな地震があった事など知らなかった。戦時中は政府による情報統制が当たり前だったので、これも隠蔽されたのだろう。知っているのは1部の人間だけだ。
「今回の電波は、あの地震の余震が原因だと僕は思います。あれだけの大地震だ、今も何処かで余震が起きていて、その時に電波も発生するんですよ」
「怪電波が感知される様になったのは、ごく最近になってからなんだろう?研究所がここに来てから3ヶ月以上経つが、それまで感知されなかったのは何故かね?」
「……僕は専門家じゃないから、地震発生の時期やメカニズムまではわかりませんよ。どうにせよ、あの電波は人間が出している可能性は低いです。とてもスパイの仕業とは思えません。大体、今の日本にスパイなんて本当に居るんですか?殆ど日本人だけじゃないですか」
「やれやれ。さっきからスパイだのメカニズムだの、俺は憲兵だよ?敵性用語は慎みたまえ。君は地震の専門家じゃないんだろう?だったら怪電波が地震由来だとは断言出来ない筈だ。重要拠点の警固と防諜は憲兵隊の任務だ。分隊長の立場として、あらゆる可能性は排除しない。それに、ここからそう遠くない軽井沢には、大使館の職員達が大勢疎開しているんだ。奴らは全員外国人だ。そして怪電波。これだけでも諜報員を疑うには充分だ」
「だとしても、いきなり村人全員にスパイの事を言うなんて。少数の有力者だけに打ち明けて、密かに協力してもらう方が良かったんじゃないんですか?」
「村長夫人か。あんな気の抜けた婆さんに話しても、何にもならんよ。大体あの婆さんは露骨に軍人を嫌っていた。ここに疎開した時、俺がわざわざ挨拶に出向いたのに、茶の1つも出さなかったんだぞ。協力なんてする訳がない」
「しかし、大っぴらにスパイの話なんかしたら、仮に本当に居たとしても警戒されるだけでしょう。最悪の場合、逃げられてしまう」
「この村の出口は1ヵ所。他は山に囲まれている。そこを見張っておけば問題ない。離れた所にある駅にも見張りは居る。逃げられんよ。そもそも俺の部下は少ないんだ。本来、大尉なら200人の兵隊持ちの筈なのに、実際は50人足らず。この数で研究所の警固をしながら、近隣の村々を捜索するなんて無理な話だ。こういう場合は住人同士を互いに監視、通報させる方が良い。だから全員に話したんだ」
「それはごもっともですが、僕は村人達の反感が気になるんですよ。食糧の徴発以来、僕らはあからさまに嫌われてますからね。中にはスパイに手を貸す者も居るかも知れない……」
「まさか!そんな非国民は銃殺だぞ!奴らだってそんな事はわかっている。とにかく、この件は憲兵隊に任せておけ!まったく、どうしてこんな狭い地域に、軍の研究所だの大使館だのが集まっているんだ!もっと分散出来なかったのか?」
「あれ、大尉。知らないんですか?」
「何?君は何か知っているのか?」
「いやいや、別に何も……」
小便の音は止み、2人が歩き出す。扉を開ける音が続く。
「イデ君、何か知っていたら教えてくれよ」
「大尉、便所を出る時には手を洗ってください」
扉が閉まる音がして、2人の会話は遠ざかって行く。私はゆっくりと個室から出ると、逃げる様に便所を後にした。
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