第8話
青々とした稲が植えられた田んぼを後にして村長の屋敷に戻ると、そのままの格好で私達が使う小屋から掃除道具と古い新聞紙の束を持ち、土蔵に向かった。
それは小屋の反対側にあり、大分古いものに見えた。ムラマツが錠前を外して分厚い両開きの戸を開放し、その奥にある木製の引戸も開けると、中から黴臭い空気が外に漏れ出てくる。
ムラマツは蔵の中に入り、私が続く。床にはかなりの埃が積もり、並んでいる幾つかの棚に寘かれた様々な文物にも埃が被っている。
「棚に有る物を外に出して、お屋敷の縁側に並べろ。下に新聞紙を敷くのを忘れるなよ。後で虫干しにする。大方を出したら、蔵の中を掃除する」
私はムラマツの言う通りに棚に置かれた物を片っ端から外に出して、新聞紙の敷かれた縁側に並べていった。如何にも古そうな壺や皿、掛軸、書物などばかりで、この家がかなり古くから続いている旧家である事がわかる。
作業を続けていると、いつの間にか座敷に村長夫人が立っているのに気付いた。初対面の時と同じように音もなく現れたのだ。やはり黒い和服に身を包んでいる。ムラマツの話だと最近、息子と夫を亡くしているから、その姿は喪に服しているのだ。
ムラマツは村長夫人に頭を下げた。
「前にお伝えした様に、蔵の整理をしています。お品々は明日、虫干しにします」
白い顔を微塵も動かす事もなく、村長夫人は無言で小さく頷くと、やはり音もなく去って行った。私には一瞥もしなかった。
村長夫人を見るのはこれで2度目だが、私の事はまるで空気の様な扱いだ。ムラマツと同じく私には関心がないのだろう。顔の皺はそれほど多くはないが、髪の毛の半分が白くなっているのは、度重なる不幸に心労が貯まっているからか。使用人の身内の子供にまで気を回す余裕はないのだろうが、当時小学生の私に、大人と同等の配慮が出来る筈もなく、胸の奥に何とも言えない不満を募らせた。
この家の人間は、誰も自分を気にしていない。
その思いは学校でつま弾きにされている私を、更に孤独にさせた。
骨董品を出して、空になった蔵の掃除が始まった。床や棚に積もる埃を払い、床を雑巾がけしていくと、奥の壁に奇妙な落書きがあるのを見つけた。
床に近い所に何種類かの色鉛筆で描かれたそれは、全体的に色褪せている点から見るに、随分昔からそこにあったものらしい。
鉛筆が一般に普及したのは大正に入ってからであり、ましてや色鉛筆などは高級な輸入品があるのみで、滅多に手に入る代物ではない。その色鉛筆を何10年も前に持っているのだから、この家の裕福さがわかる。
それは稚拙で雑な絵だったが、全長20センチ弱の頭を上げた蛇に見えた。しかし、普通の蛇と異なる箇所があった。
頭部に角の様な長い突起が数本生えているのだ。胴体も赤や青、黄色と様々な色でまだら模様に塗られている。
こんな蛇がいるのだろうか。私は不思議に思った。外国ならば、こんな姿の蛇が存在するのだろうか。落書きの絵柄や場所から見て、この絵を描いたのは小学校に入る前の子供に間違いない。しかし、幼児の落書きにも関わらず、私の好奇心を惹き付ける奇妙な絵だった。
私は魅入られた様に暫くの間、その落書きを見つめていたが、そこへムラマツが声をかけてきた。
「何をやっている。掃除は終わったぞ。早く出るんだ」
その声に私は我に返り、急いで蔵から出た。もう日が暮れていた。
「今日の仕事は終わりだ。風呂に入れ」
ムラマツの言う通りに風呂に入った私は、汗と汚れを洗い流した。
明日からまた学校か……。
私の気持ちは憂鬱になった。
しかし、翌日は憂鬱どころでは済まなかった。私を絶対的な窮地に陥れる出来事が起きるのである。
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