第6話

 登校3日目、私は学校内での殆ど全ての時間を教室で過ごす事にした。担任教師の注意で暴力を奮われる事は無くなったが、休み時間に廊下や外に出れば何をされるかわかったものではなかったからだ。どうしても便所に行きたくなった時には教員用の便所を使った。そこは前以て担任の許可をもらっていた。それに、ムラマツが出す粗末な食事は決して満腹になる程の量ではなく、私は始終空腹に近かったから、出来るだけ体を動かしたくなかった。せっかく疎開したのに、食糧事情は改善しなかった。

 しかし、校庭は憲兵隊に接収されているので他の生徒達も外で遊ぶ者は稀であり、結局多数の生徒が私と同じ様に教室に留まっていた。もしかしたら、私同様に腹が減っていたのかも知れない。違いが有るとすれば彼等は幾つかの仲の良いグループに分かれて楽しげにお喋りや軽いふざけ合いをしている一方、私は机に座ったままで教科書を読んだり眠ったふりをしている事だった。

 誰も私に話しかける者は無かった。直接的な暴力の代わりに徹底した無視が続いていたのだ。それは西遊記3人組の差し金だろうが、彼等自身も私と交流するつもりはない様に思えた。実際、この疎開村を去る時まで、彼等とは最後までわかり合う事はなかった。

 こんな事なら、東京の学校で集団疎開を行った時に自分も加われば良かった。

 私は内心そう思った。勿論、彼等も疎開先で酷い目に遭っているだろうが、少なくとも友達が一緒ならば、お互いに慰め合ったり地元の連中と喧嘩になった時には、団結して対抗する事も出来ただろう。全くの孤立無援である私よりは幾分ましの筈だ。

 そうやって何回目かの休み時間、子供が立てる特有の甲高い喧騒の中で1人孤独に机へ突っ伏して眠るふりをしていると、私の少し後ろの机に集まっていた2~3人のグループの話し声が漏れ聞こえてきた。それは次の様な内容だった。

「おい、こいつの爺ちゃん、〈迷いの森〉で幽霊見たんだってよ」

「またキノコ目当てに〈迷いの森〉に入ったのかよ。あの森のキノコや山菜は粗方取られちまっただろう?軍隊が食い物かっぱらってから、村の大人達がこぞってあそこに入ったからな」

「だから、俺の爺ちゃんはもっと奥の方に行ったんだよ」

「森の奥は山に繋がっているな。あんまり深入りすると帰って来れなくなるぞ?」

「あれって、森に入ると何処に向かっているのかわからなくなって、勝手に入り口に戻っているんだろ?元々奥まで行けないんじゃないの」

「殆どはそうなるけど、たまに奥の方に行ける奴もいるらしい。そいつらは帰り道がわからなくなるんだ」

「爺ちゃんは、奥まで行っても帰れる様に長い縄を編んで腰に巻いて、片方を入り口近くの木にくくり付けて森に入ったんだ。案の定、沢山キノコや山菜が採れたって。背負っている籠が一杯になる頃に暗くなってきたから、そろそろ帰ろうとしたら、森の更に奥の方に居たんだよ。幽霊が」

 どうやらこの村には〈迷いの森〉という危険な場所がある様だ。それに幽霊?私は自然と興味をそそられて、聞き耳を立てていた。

「全身が真っ白で、ほっそりとした格好の、人に似た姿をしていたって。そんなもの、生まれて初めて見るから、思わずうわあって声を上げたら、向こうも爺ちゃんに気付いて、煙みたいに消えちまったんだよ。爺ちゃん縄を手繰りなから駈け足で森を降りて、そのまま家に帰って来た。蒼い顔しながら、あれは幽霊に違いないって言ってた」

「本当かよ?」

「お前の爺ちゃん半分ボケているからな。枯れ木でも見間違えたんじゃねえの」

「確かに少しボケてきたけど、嘘じゃないよ」

「わかったよ。毒キノコでも食ったんだろう」

「違うって!」

 丁度、その日最後の授業の為に担任が教室に入って来たので、彼等の会話はそこで終わった。

 私は学校帰り、村長宅の裏庭へ入る前に村の西側を見た。ここからかなり離れた村の縁に、黒く、鬱蒼とした森が、その先にある高い山へと続いている。あれが件の〈迷いの森〉らしい。仮の住まいに帰るとムラマツが農具の手入れをしていたので、尋ねてみた。

「〈迷いの森〉って何ですか?」

 それを聞いたムラマツは、いつも厳しい表情を更に厳しくした。

「この村に昔から伝わる迷信だ。飢饉の度に、飢えた幾人かの村人が食い物を求めて森の奥に入ったが、誰も帰らなかったそうだ。大方、人食い熊にやられたんだろう。あの森には絶対に行くなよ」

「でも迷信なんでしょう」

「絶対に行くな。承知しないぞ。明日は学校が休みだ。いい加減、俺の仕事を手伝え」

 ムラマツの顔が厳しさから怖さへと変わる。私は圧倒され、黙って頷いた。幽霊の事まで尋ねる雰囲気ではなかった。

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