第3話

 馬車が村に入った頃には真夜中になっていた。そこでムラマツは私に言う。

「俺は村長の所で下男をしている。お屋敷の隅に小屋を借りているから、お前もそこに住む事になる。到着したら奥様にご挨拶をするんだ」

 私は仰天した。てっきり農家をやっていると思っていたからだ。母との会話を思い出すに、彼女もそうだったに違いない。ムラマツと言う男は肝心な事を手紙には書かなかったのだ。陸軍の研究所は仕方ないにしても、他にも後出しの話があったのは酷い。私は益々騙された様な気持ちになった。

 馬車は静まり返った家々の間を通る道をゆっくりと進み、夜目にも一際大きな屋敷の裏庭で停まった。ムラマツは馬車から降りて、私にも促す。彼は裏口の扉を開けると、中に呼び掛けた。

「奥様、只今戻りました」

 暫くすると、火の灯った燭台を片手に1つの影が音もなく廊下の向こうからやって来た。黒い和服を着た、50歳程の女だった。彼女が村長夫人なのだろう。土間に立つ私達の姿を認めると、夫人は口を開いた。

「遅かったわね」

 硬い口調を受けてムラマツが頭を下げる。

「申し訳ありません。汽車の到着が遅れまして。こいつが私の縁戚の子供です。今夜はもう遅いので、明日からよろしくお願いいたします」

「そうね。お願いするわ」

 夫人は私の方を見た。私は慌てて頭を下げる。

「エイジです。よろしくお願いいたします」

「そう。しっかりやりなさい」

 それだけ言うと来た時と同じく、音もなく屋敷の奧へと消えた。

 私達は再び外に出る。馬小屋に馬を繋いだムラマツは裏庭の隅に立っている小屋へ私を連れて行った。それは東京では見た事もない、古くて粗末な建物だった。

 古びた引戸を開けて、ムラマツに入れと促される。中の土臭さに、私は思わず顔をしかめたが、ムラマツは何も言わなかった。

「今日は遅いから、これを食って寝ろ」

 土間の端にある小さな台所から男は皿に乗った握り飯を差し出した。

 私はそれを受け取って、信じられない思いでまじまじと見た。

 朝に母と共に朝食を摂ってから、何も口に入れていない。それなのに、握り飯が1つだけなのだ。いくらなんでも少なすぎる。

 私の表情を見て取ったムラマツが言う。

「少ないか。だが我慢しろ。さっきも言ったが、陸軍の研究所が来て、この村の米や食い物は殆ど奴らに徴発されちまったんだ。去年までは多少余裕が有ったが、この村にはもう、余所者に食わせる分なんて無いんだよ。部屋の奥に布団が敷いてあるから、それを食って早く寝ろ。明日から学校と仕事だ」

 ムラマツは外に出て行った。未だやる事があるらしい。残された私は我慢できない空腹を満たすために、冷えた握り飯にかじりついた。それが無くなると言われた通り奥の部屋に上がって、リュックの中にあった寝間着に着替えて布団の中に潜り込んだ。

 話が違う。

 私は冷たい蒲団の中でそう思った。地方の農村に疎開すれば、多少の不便はあっても食べ物だけには困らないと思っていた。母も近所に住んでいる人達も皆、その様に話していた。私もその話を信じていた。

 だが、現実はそうではなかった。多少ましな場所が他に有るのかも知れないが、そんな所は例外で、今や殆どの日本人が食糧不足に苦しんでいるのだ。私はその事を思い知り、この村に来た事を早くも後悔していた。

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