一章 逃がし屋 ♯3

 トーゲンは修道院の防壁の傍、道沿いを流れる小川の辺で這いつくばるように屈んでいた。飲み始めたときはまだ明るかったが、もう月が出ている。川向うには葡萄畑が広がり、街の繁華な区域から死角になっているこの場所は、人通りも少ないため静かで心が落ち着く。冷やされたそよ風が頬に当たって、惨めな心が少しは癒された。


 胃の中のものをあらかた大地に戻して、川の水を頭から被ったおかげで、鉛を吊るしたように鈍化していたトーゲンの思考力は、ある程度回復していた。この場所へ来る途中、介護しようと近づいてきたバトゥをあしらったような気もするが、物が二重に見えて視界もぐらついていたから定かでない。マネルとの勝負の記憶も曖昧で、もし負けていた場合、俸給一週間分は手痛い出費になる。


 なぜあの時怒りを露にしなかったのか。そうはせずとも黙って去ることもできたはずだ。トーゲンは自分が厭になる。不必要な迎合は虚無感を増幅させるだけだと、わかっているはずなのに。


 無様な格好を改めて、腰を下ろしてそよ風に当たっていると、三つの人影が防壁の角を曲がった。それらは明確な殺気を放って、トーゲンへ近づいてくる。顔が判別できるところまで距離が縮まり、トーゲンは辟易する。


「こんな時間に一人でいたら危ないだろう。バヤル」


 トーゲンにそう声を掛けたのは、ソレスであった。お付きの二人は修道院の衛兵だが、トーゲンは名前を思い出せない。何度も顔を見てるが、最初に顔を合わせたときから、トーゲンへの嫌悪感をおくびにも出さない奴らだったため、名前すら覚えようとしていなかった。


「こんな時間にこそこそと、仲良く散歩か? あぁ気が回らなくて失礼。気にしないから、お楽しみは奥でやってくれ」

「なっ……! キサマァ!」


 トーゲンの挑発に憤慨した衛兵の男が腰の剣に手をかけるも、ソレスが制止する。


「こんな低俗な挑発に乗るな」

 男の怒りがひとまず収まったのを確認して、ソレスは続けた。


「お前はマネルに勝ったが、私との勝負はしていなかっただろう。だが目を回してふらついてるお前に、あれ以上酒を飲ませるのは酷だと思ってな。だからお前に、決闘を申し込む」


 トーゲンは溜息をつく。

「どうせあんたは戦わないんだろ」

「私は武闘に疎くてね。決闘において代理人を立てることは、公正な手段だろう」

「二人いることもか」


 トーゲンは二人の男に目を向けた。そのうちの一人が、笑いながら挑発する。


「怖いなら逃げてもいいんだぞ」


 トーゲンは考えた。バトゥならそうする。この状態で戦うよりも、逃げる方が合理的な選択だ。ソレスが口を開いた。


「お前は腕がいいと聞いたから、一人だと物足りないと思ってね。「公正さ」を期すために、武器の使用は禁止とする」


 詭弁にもなっていない馬鹿々々しい屁理屈に、トーゲンは呆れる。このまま背中を見せて無様に逃げ去ることもできるし、そうすることで少しはソレスの留飲も下がるだろう。トーゲンは立ち上がった。そして辺から道へ出ると男たちと向き合って、腕をまくる。


「腰の得物捨てろよ」


 売られた喧嘩を買うことは、迎合ではない。頭も身体も酒に侵されて、足取りもまだ安定していなかったが、自覚できるほどにはっきりと興奮していた。ソレスが道端に逸れて、二人の衛兵が帯から剣を外して地面に落とす。銘々に腕を構え、戦闘の態勢ができたのを見計らい、そして腰を落として踏み込んだ。

 

 *

 

 顔に冷たいものを感じて、仰向けに倒れていたトーゲンは目を覚ました。見知らぬ人間の女が、革の水筒からトーゲンの顔へ、水を落としている。トーゲンは「何だ!」と言いながら、咄嗟に上半身を起こした。側頭に痛みが走り、呻いて顔をしかめる。喧嘩を売った男の一人が、捨てた剣を拾い上げてトーゲンの側頭を鞘で殴ったためだ。手を当てて確認するが、皮膚が裂けている様子はない。


 トーゲンは頭に手を当てたまま、傍に立つ女を見た。女は色の落ちたような薄赤色のチェニックの上に、黒革のベストを着ている。腹部を守るような厚い革のコルセットにはベルトが巻かれており、装着された細身の剣とナイフが世俗人でない雰囲気を放つ。


「手酷くやられたね。大丈夫?」


 そう言う女の口調は平坦で、あまり心配している様子もない。トーゲンは答えず、頭から手を離して、道の少し離れた場所に倒れている衛兵へ顔を向けると女に聞いた。


「そいつ、死んでないか」

「多分生きてる。助けを呼ぼうか」

「いや、ほっておけ」

「仲間じゃないの?」


 女の疑問に、トーゲンは「いや」と答えて、ガクンと落ちる頭を片手で支えると目を閉じた。なぜだか気持ちが高揚して喧嘩を買ったはいいが、状態が悪かったとはいえ結局負けてしまった。最終的には得物でやられたとはいえ、普段はいなせる打撃を、その身に何度も受けた。だが、もう一人の衛兵は友達も連れて帰れないくらい痛めつけられ、ソレスは決着がつく前に怖気づいて逃げてしまったから、くだらない一方的な自尊心ゲームから降りることはできただろう。トーゲンがそんなことを考えていたら、その様子を見ていた女が言った。


「やっぱり助けを呼ぼう。そいつじゃなくてあんたに」


 女はそいつと言って、伸びている衛兵に顎を向けた。トーゲンその提案をすぐさま拒否する。


「結構だ。そんなことより、いったい誰なんだ」

「イヤだねぇそんな警戒しちゃって。通りすがりのおせっかいじゃいけない?」


 女の言うように、気を張りすぎていると感じたトーゲンは、横に立つ女から顔を反らして不愛想に謝った。


「……いや、悪かった。気持ちはありがたいが、俺は大丈夫だ」

 女はニヤリと笑って腰を下ろすと、トーゲンの横顔を見て名乗った。

「私はルーダ。あんたは?」


 トーゲンは目だけを動かしてルーダを一瞥すると、すぐに視線を戻して、逡巡しながらも口を開いた。

「……トーゲンだ」


 それを聞いたルーダは「あぁ、やっぱり」と言って笑った。トーゲンは怪訝な顔をしてルーダに身体を向ける。


「どういうことだ。俺を知っているのか」

「あんたのこと祝祭のおっさんに聞いて探しに来たんだ。でももう暗いし、用もない修道院に入って怪しまれるのも嫌だったしさ。それでどうしようか考えながら修道院の周りを歩いてたら、衛兵の格好した竜人が倒れてたから、もう運命だと思ったよ」


 祝祭とは修道院の所有する酒場「祝祭の果実」のことで、おっさんはその主人を指しているのだろうとトーゲンは察する。街にきて三ヶ月で、最も言葉を交わした人間は彼だ。だがトーゲンには理解できない。ルーダは何を聞いて、酒場の主人はなぜ自分の名前を出したのか。


「悪いが何を言っているのか全然わからない。何の目的があって俺を探していたんだ」


 ルーダは何かを言いかけたが、道の向こう、通りに面した防壁の角から、こちらへ近づいてくる人影を視界の端で捕捉して口を閉じる。そんな彼女の様子から、トーゲンも遅れて人影に気が付く。


「たぶん衛兵だ、そいつを探しに来たんだろう」


 トーゲンはそいつと言って、伸びている衛兵に顎を向けた。その推測に、ルーダは警戒心を示す。


「面倒くさい?」

「誰かにもよるが、そいつの友達だったら面倒じゃ済まないかもな」


 ルーダは「場所を移そう」と言って立ち上がると、トーゲンに手を伸ばした。


「歩ける?」

「少し痛むが、平気だ」


 トーゲンは、差し出された手を掴まずに立ち上がる。その様子を見てルーダが言った。

「竜人は頑丈だね」


 トーゲンは無感情に答える。

「だからキツイ仕事を押し付けられる」

「ハハッ。いつも感謝してるよ」


 嫌味をさらりと受け流したルーダへ、トーゲンは好感を抱いた。上からの同情よりも、ぞんざいな対等の方が心地が良いからだ。上だろうが下だろうが、一方的な憎しみから因縁をつけられるのは勘弁だが。そんなことを考えながら、トーゲンはルーダを促し、歩き出した彼女の後に続いた。

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