一章 逃がし屋 ♯2
それというのも、バトゥは仕事以外で極力人間と関わらないようにしている。ここレイントンでは、職や賃銀、居住できる場所には当然の様に種族間の格差があれど、通りを歩いているだけで事故のように殺されたり、攫われたりするようなことは”ほとんど”ない。それでも竜人を快く思っていない人間もいるのは確かで、彼の生き方は正しいのだろう。しかし、修道士は腐っても修道に生きる者たちで、邪念には自制的であるだろうし、修道院内での暴力沙汰は厳しく罰せられるため、衛兵たちも迂闊な行動はとれない。それならば、ただで酒が飲める誘いを断る道理はないと、トーゲンは考えていた。
机の向こう側に屯している男たちから歓声が上がった。
「それでこそゴイト殿!我らが副院長!我らが太陽!」
どうやら飲酒量を競い合っているらしい。太陽とは彼らにとって最大限の賛辞であり、担がれてる副院長は見るからにいい気なものである。男たちがジョッキを打ち鳴らす。五月蠅い。バトゥはここに居なくて正解だろう。
トーゲンはバトゥの年齢を知らないが、おそらく十五、六歳だと思っているし、そう接している。彼は数年前に父親を亡くし、母親は病弱でまともに仕事もできず、そのうえ三人の弟妹がいる。そのような境遇の者は、人間や竜人、その他種族を問わずいくらでもいるから、トーゲンは彼に特別の同情心を抱いているわけではない。しかし、それでいて呑気で前向きな性格であるから、出会った当初は感心することも多かった。トーゲンは厭世感に捉われることがままあるため、なおさらそう感じるのかも知れない。
食堂は一時よりも落ち着きを取り戻していた。皆銘々に隣り合う仲間たちと話し、時折笑い声をあげる。しかしトーゲンの心は休まらなかった。先ほどからチラチラとトーゲンを見ては嫌悪な表情を浮かべていた修道士の男が、その感情をおくびにも出さず、睨みつけている。
(面倒ごとが起こる前に退散したほうがいいか)
トーゲンがそんなことを悠長に考えているうちに、男が近づいてきて、トーゲンの隣に座った。そして酒臭い息を吐きながら言った。
「お前、三か月前にここへ来た竜人だよな」
「それがどうした」
感情の押し殺されたトーゲンの返事に、男は押し黙る。何も考えず、衝動的に難癖をつけに来たはいいものの、周りに人も多いため言葉を選んでいるようだ。男は何を言うか決めたようで、口を開いた。
「名前はなんと言う」
トーゲンは投げやりに答える。
「聞きたいなら先に名乗れ」
「私はソレスだ」
「……バヤル」
警戒心がそうさせたのか、トーゲンは少しの間をおいて、偽名を口にした。特に必要性もなかったが、偽名を名乗ることが癖づいてしまっているためであろうか。長く使っている「トーゲン」という名も、彼の本名ではない。
「竜人は酒に強いんだろう」
「さあな。弱いやつもいるだろう」
「お前はどうなんだ」
「それなりだ」
ソレスが何を考えているのか、トーゲンには分からなかったし分かろうともしていなかったが、その顔に張り付くにやけた表情が、何かを隠しているのだろうと察していた。ソレスは笑みを消すと、トーゲンに提案をする。
「勝負しないか。どっちが強いか」
「断る」
「わきまえろよトカゲ野郎」
攻撃的な言動にトーゲンは動じることなく、努めて無表情に相手の顔を見る。このとき初めて彼の目を見た。その表情以上に、目は苛立ちを湛えている。トーゲンは残るも立ち去るも面倒なことになると予感しながら、どうしたものかと考えた。するとソレスがいきなり机を叩き、トーゲンを一瞥すると、勢いよく立ち上がって声を上げた。
「ここにいる竜人が対決したいらしいぞ!ゴイト様より飲めるって話だ。受けて立つ者はいるか!」
食堂が静まる。向けられる視線が「何を言っているんだ」と語っている。そして次第に空気が騒めく。
「おい……俺はそんなこと――」
トーゲンは否定しようとしたが、ある男の勇み良い声にかき消された。
「俺が受けて立つ!」
そう言って立ち上がった男はトーゲンの同僚で、名をマネルと言う。体躯は大きく、多少顔を赤らめてはいるが酩酊している様子は一切ない。騒めきが歓声になる。トーゲンは片手で頭を抱えてうつむくと、心の中でソレスにもマネルにも自分にも悪態をついた。バトゥの言うことを聞いておけばよかった。そんなトーゲンにマネルが声を掛ける。
「どうした。やるんじゃないのか。一週間分の俸給でも賭けるか」
男たちがジョッキを机に打ち鳴らす。乱雑な音は次第に一定の間隔を取ってまとまり、「酒を飲め」と囃し立てる。ドン! ドン! ドン! 飲め! 飲め! 飲め! 頭の中に反響する雑音を掻き消すように、トーゲンは自身のジョッキを机に強く打ち付けた。大きな音が鳴って、再び食堂は静まり返る。そして数秒の逡巡の後、トーゲンはマネルに向かってジョッキを持ち上げ、言い放った。
「酒を持ってこい」
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