一章 逃がし屋 ♯1
トーゲンは夢を見ていた。石に囲まれたこの場所は、薄暗くて寒い。見上げるほどの高さにある、四角い石の窓を、太陽が通り過ぎた。戻って来いと念じたら、時計の針が逆に回るように、また太陽が顔を出した。トーゲンはその眩しさに、手の甲で目を覆う。石灰が舞った。元々亜麻色だった囚人服は、灰色に汚れている。そう、自分は今囚人服を着ている。そしてここは石切場で、また自分は戻ってきてしまったのだ。トーゲンはそう思って、石の崖を登ろうとした。すると片足が引っ張られて、転んでその場で突っ伏した。
足を見やると、片方の足首に枷が嵌められて、枷からは鎖が伸びて、鎖は杭で地面に固定されている。トーゲンは力を込めて鎖を引っ張ったがビクともしない。何度かそうやって、諦めて仰向けになると、見かねた太陽が窓から消えた。「あばよクソ野郎」 息を切らしながら悪態をつく。岩の冷たさを背中で感じながら、どうしたものかと思案していると、地面から振動が伝わってきた。それは一定のリズムを刻んで繰り返され、徐々に大きくなっていく。そのうち男たちの歌声が聞こえて、よく聞くとそれは歌声というより喧噪のようで、耳元でゴン!と乾いた音が鳴って、目を覚ました。
机に突っ伏ししたまま目だけ開けたトーゲンは、ぼやけた頭で考えた。気分が悪いのはミードを飲みすぎたからか、それとも男たちの不調和で煩い歌声のせいか。いつの間にか、少なくともトーゲンが寝る前に比べて、レイントン修道院の大食堂は喧噪に包まれていた。男たちは歌いながら、ジョッキを机に当てて打ち鳴らしている。
「ああアルカラの獅子よ。その生き様は勇ましい。百の戦を打ち破り、百の王が頭を垂れた。黄金の王冠は彼の者にこそ相応しい。ああアルカラの獅子よ。金色の輝きに目が眩み、終いには城を金で作った。肥えた身体は見る影もなく、金に抱かれて暗雲にも気が付かない。ああアルカラの獅子よ。その死に様はあっけない。自身を貫いた刃の主も知らないままに、自らの血に溺れて死んだ」
レイントン修道院は、ソルドラン王国北東部地方のレイントンにある。修道院と言っても、この場所にいる多くの者は、修道院の警備を任されている雇われの兵士たちだ。修道士たちは毎年この時期になると、最低限の院運営ができるだけの人数を残して、巡礼の旅へ立つ。
先月まで鍬を持っていたような農民上がりの兵士を束ねるのは、修道院の副院長、ゴイトである。彼は院運営の一切の監督を任され、特に警備に関しては直接差配していた。交易街の比較的大きな修道院の副院長となれば、街への影響力もそれなりのものがあるのだろうが、そんな修道士としての重役を微塵も感じさせない”いい加減”な男であった。よく舌の回る口軽なそこつ者、大酒飲みで我欲が強いことは誰もが知っている。娼館で見かけたとの噂もあり、おそらく事実であろう。今夜の騒ぎも、ゴイトを快く思わない修道士や祭司の不在を良いことに、彼が催した。「日頃の労務に報いる」と言っていたが、男たちの喧噪の中心には彼がいる。
そんないい加減な人物であるからこそ、トーゲンのような流浪の竜人を、何も考えずに雇い入れたのだろう。元より、教会と関係の深い修道院で働く竜人など、その機会が”与えられた”としても、滅多にいない。少なくともこの街ではトーゲンと、同僚のバトゥだけだ。
大抵の兵士たちは呑気に酒を飲み歌っているが、何人かの男が、「なぜお前がここにいるんだ」と言わんばかりの怪訝な視線を、トーゲンへ向ける。
「ああアルカラの蛇よ。陰に隠れて刃を研いで、兄の背中を突き刺した。奪った王冠は血にまみれ、王の顔を赤く染めた。ああアルカラの蛇よ。玉座に座れば黄金は、鉛になって光を失う。通りを歩けば犬が吠え、物乞いすらも石を投げた。ああアルカラの蛇よ。今や彼の者を照らすのは月だけだ。水面の月に飛び込んで、そのまま沈んで溺れて死んだ」
一曲歌い終わったようで、トーゲンはようやく騒音から解放された。アルカラとは、ここトレントンのあるボルバス領の領主、ボルバス殿下の家名である。かつてアルカラ家はソルドラン王国の王家であったが、内部闘争や腐敗によって凋落した。これを名目に五大家の一つであるデュラン家が、アルカラ王に反旗を翻して戦争が勃発する。この戦争にデュラン家は勝利して、現在に至るまでソルドラン王国を統治する一方、アルカラ家は王都から遠く離れたボルバスを収める領主となった。トーゲンは少し前、この話を酒の席で聞いたが、至極興味がなかったため、すぐさま頭の隅へ追いやった。
大食堂には、二十人ばかりの男たちがいる。十人が衛兵、五人が修道士、後は……誰であろうか。その辺りで拾ってきた賑やかしだろうとトーゲンは読んでる。そんな大勢の男たちを以てして、四半分も埋めることができないほど、大理石の机は長い。机は縦に二列並んでおり、トーゲンは出入口に一番近い、端の席に座っていた。男たちは食堂の奥側の席に集中しており、トーゲンの周りには誰もいない。なるほど、この机に突っ伏して寝ていたせいで”石切場”の夢を見たのだと、トーゲンは納得する。あの場所では大理石を切り出していた。
(嫌な夢を見た)
トーゲンはジョッキにいくらか残った酒を腹に流し込むと、出入口の外に立っているバトゥと目が合った。バトゥは何かを必死に伝えようと、よくわからない身振り手振りを繰り返している。トーゲンは面倒くさそうに立ち上がると、バトゥの元へ歩いて声を掛けた。
「俺が寝てる間ずっとやってたのか」
バトゥは声を落として、しかし口調は強く、トーゲンに反論する。
「さっき来たんだよ。トーゲンさん寝てるから必死に起こそうと――」
「それでどうやって起きるんだよ」
「でも起きたよ」
トーゲンはさも呆れた態度で手首を振って、言葉にせず「もう帰れ」と伝えると、元居た席へ戻った。バトゥはまだ何か言いたげに大きく手を動かしたが、すぐに無駄だと諦めて、すごすごと帰っていった。彼はこの宴会が開かれることを聞いた後、トーゲンへ「行かない方がいい」と忠告していたから、様子を見にきて、あわよくば連れて帰ろうと思ったのだろう。
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