序章 良き隣人 ♯3

「大丈夫か」


 ファーロはそう言って少年を見て、そしてベッドに横たわるホランに目を移した。

「あぁ……クソっ……」


 ホランの首は鋭利な刃物で切り裂かれ、寝具が血で赤く染まっている。見開かれた目は、確認するまでもなく死を物語っていた。おそらく少年の持っていた短刀は、黒衣の男がホランを殺めた得物だろう。ファーロは壁を背にして、崩れるように座り込んだ。


 部屋の外では、男が怒声を上げながら扉を蹴りつけている。木の扉は蹴られる度に軋みを上げる。頑丈そうな作りではあるが、破られるのも時間の問題だ。脇腹の傷は深く、手で押さえても血が止めどなく流れる。どうすればいい。


 考えを巡らせていると、ファーロの目が部屋の隅に留まった。膨れ上がった袋や鞄、丸められた厚布がまとめられている。おそらく出立の準備をしていたのであろう。その一つ、さほど大きくない布鞄を取り出すと、中に詰められていた荷物を床にまき散らし、食料が入っていると思われる包だけを詰めなおした。そして力なく立ち上がると、誰に向けるでもなく言った。


「紙と、何か書くものは……」


 書机に羽筆を見つけたファーロは、息を切らしながら椅子へ座る。たった数歩の移動だけでも苦しい。机に積まれた本から一冊を乱雑に取ると、表紙をめくって題目の書かれた項を破り取った、そこには「カーサルキス伝」と記されている。カーサルキスとは、かつていくつもの竜人部族がこの地に点在していた時代、各族長を長きに渡って取りまとめ、争いのない共生社会を築き上げた人物である。他にも「竜の神話」「竜人史」といった標題が見える。ホランの蔵書はたった数冊しかないが、その全てが竜人の歴史や文化に関するものであったことを、ファーロは思い出した。


「いつまで隠れてるつもりだ!」


 扉の外から男が叫んだ。


「取引しよう。そのガキを渡したら、医者を連れてきてやる」

「時間をくれ。考えてみるよ」


 ファーロは適当な相槌を打ちながら、破り取った項の余白部分に、筆を走らせる。一瞬視界が霞んだ。いよいよ時間がない。力のないよれた文字で”ある伝言”を書き終えたファーロは、布鞄を持って、すぐ後ろに立っていた少年の前に膝を折る。そして少年の目を睨むように見つめ、男に聞かれないよう声を落として、こう言った。


「いいか。よく聞いてくれ」

 一呼吸おいて、続ける。


「これを持って窓から逃げるんだ」

「でも――」

「大事なことなんだ聞いてくれ」


 ファーロは少年の反論を遮って、続ける。


「窓から出たら森へ逃げろ。どこかへ隠れて一晩待つんだ。夜が明けたら――」

「でも、じいちゃんとやることが――」

「ホランは死んだ」


 声を荒げそうになってしまったファーロは、もう一度呼吸する。

「だが君は生きなければならない」


 傷口が一層痛み、ファーロは顔をしかめる。少年が黙ったのを確認して、計画の続きを言おうとしたら、男がまた扉を蹴りだした。いや、先ほどよりも音が重い。おそらく体当たりしているのだろうとファーロは直感し、焦燥感が強まる。


「夜が明けたら。道沿いに南へ行くんだ。ただしなるべく道は使わず、使うときは注意してくれ。怪しい人間を見かけたらすぐに隠れろ。一日も歩けば、エスカーラ領に着く。そうしたら城の衛兵にこの”手紙”を渡すんだ」


 そう言って、伝言の書かれた紙の端切れを、少年の手に握らせる。

「一緒にこいつも渡せ。念のためだ」


 ファーロは「こいつ」と言って短剣を取り出し、布袋に入れる。そして少年の肩に手を置いた。


「いいか。俺のことは気にするな。じいさんのことは後で悲しめ」


 力を込めて言ったつもりが、上手く発声できない。しかし気持ちは伝わったようだ。ファーロの言葉に、少年は静かに頷いた。


「よし……いけ」


 ファーロがそう言うと、少年は走った。ファーロは腰を落とし、ホランの遺体が眠る、書机傍のベッドに寄りかかった。男の体当たりする振動が、壁伝いでなくとも体に伝わる。


 ファーロは、ベッドに眠るホランの顔へ、敷布を被せた。これ以上少年の目に映らないようにするためだ。そして床に座ると、ホランのベッドに背を預けた。


 少年は少年は静かに窓を開けて、窓枠に手をかけたと思ったら、慌てたように手を離して辺りを見回した。


「おい、どうした」


 ファーロの声はかすれ、おそらく少年には届いていない。少年は荷物のまとめられた一角から「蓋つきの箱」を取り出すと、窓際へ運んだ。「箱」の大きさは少年の背負う布鞄と同じかやや小さいくらいで、両手でないと持てないようだ。「そんなものを持って行ってどうする」と尋ねる気力が、ファーロには残されていなかった。少年は両窓の片側に箱を置くと、もう片方の窓枠を飛び超えた。ファーロは、おそらく最後に見るであろう少年の姿を、ただ見守った。そして箱を抱えて顔を上げた少年と、目が合った。赤い夕陽のような色をしてる。ファーロが手を振ると、少年も応じた。長い時間に感じたが、実際は短かっただろう。そのうち少年は、窓枠から消えて行った。


 ファーロの意識が朦朧とする。窓の奥の暗い中庭に、笑い合う竜人一家を見た。ホランだけ笑っていない。彼が笑うところを終ぞ見なかった。三年前は五人いたが、今や一人になってしまった。柔らかな風が、嫌になるほど嗅いだ穀物の匂いを運んできた。ふと、青々とした一面のライを、思い浮かべた。おかしい。故郷の光景と似ているが、ここまで広くはない。徐々に薄れゆく思考の中で、ファーロはあることに気付いた。振動も音も聞こえない。窓から逃がしたことを勘付かれたか。


 その瞬間、朦朧とした意識は覚醒し、傷の痛みも忘れて立ち上がった。落ちていた剣を拾い、閂を上げ、扉を開放する。そして、外へ通じる扉を開けようとしている男に叫んだ。


「止まれ!」


 男は扉から離れてファーロと向き合い、フードを脱いだ。いくつもの傷跡が、勇壮無比な戦歴を想起させる。このような戦士と対峙したことは、ファーロの人生で一度もなかった。


「まだ生きていたのか、死に損ない」

 男は怒りとも呆れとも、その両方ともとれるような声色でそう言うと、刀を構えた。

「さっさと終わらせよう」


 男の言葉に鋭さが宿る。ファーロは剣を両手で握った。片腕ではもう、この鉄の塊を支えることができない。


 一瞬の間をおいて、最初に仕掛けたのは男だった。右からの斬撃を剣で受けると、次の瞬間には左から斬りかかってくる。目では追えても、身体が即座に反応しない。隙をついて攻勢に転じようとしても、見切られて劣勢に追い込まれる。


 流れを打開しようと、ファーロは一歩下がって間合いを取った。男はすぐさま距離を詰める。しかし、ファーロに身体的な余裕が、瞬間的にでも生まれたことが功を奏した。男が刀を振り上げ、そして斬り下ろす。その軌跡を捉え、打ち当てるように、自らの得物を力いっぱい振り上げた。男の剣が、腕が弾かれる。ファーロは剣を水平に構え、突き出した。しかし、男の反応は早く、自らに迫る切先を刀で左へ受け流すと、左肩を後方に反らし、巧みに避けた。そして刀の柄を両手で握り、ファーロの剣を押し戻す。そのまま鍔迫り合いになると、男は身体をさらに押し込み、柄から片手を離してファーロの傷口を強く握った。


「ぐあっ……!」


 傷口から血が噴き出し、耐えきれずに声が漏れる。しかし、勝敗の如何に関わらず、死を確信していたファーロには、気力しか残っていなかった。傷口を握られながらも男を押し戻すと、その顔面を目掛けて自らの頭を強打した。男はよろけて後ずさる。体勢を立て直される前に、ファーロは男へ飛び掛かった。剣は手を離れ、音を立てて落下する。倒れ込む男を、ファーロは覆いかぶさって組み伏せる。


「クソっ!貴様ァ!」


 暴れる男を全身で押さえながら、手は新しい得物を探していた。そして見つけた。ホランを殺めた短刀である。ファーロは短刀を振り上げると、そのまま男の首筋へ突き立てた。


「カハッ……ゴフッ……」


 男の喉から、空気と血が溢れ出る。ファーロは身体を捻って、仰向けに倒れた。身体が地面に吸い込まれるように、力が抜けていく。目は霞み、重い瞼が閉じていく。ほとんど意識のない状態で、命を賭して助けた少年の顔を思い浮かべ、その名前が、声になって口を出た。


「カナム……」

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