序章 良き隣人 ♯2

 ガン!決して大きくないが、ファーロは何らかの物が壊される音を聞き取って、目を覚ました。続けて男の怒号が微かに聞こえて、即座にぼやけた思考が明瞭になる。飛び起きてベッドの下に手を伸ばし、木組みの裏側に括りつけていた短剣を取り出す。二重に巻き付けたロープベルトの間へ短剣を差し込み、木棚の隅に立て掛けていた直剣の鞘を掴み取り、そして門口へ走ると突き破るように扉を開けた。


 道向こうの囲いの外に、黒馬が一頭、繋がれている。懸念は確信へと変わり、鞘から剣を抜いて、駆け出した。いつの間に顔を出した月が、夜道を淡く照らしていた。


「じいちゃん!じいちゃん!!」


 少年がホランを呼んで泣いている。男が叫んだ。


「動くな!おとなしくしろ」


 聞いたことのない声だ。ファーロは破壊された窓から、ホランの家へ飛び込んだ。


「何をしている!」


 剣を構えたファーロが声をあげると、居間の奥、寝室から見知らぬ男が姿を現した。ローブにマントを羽織り、フードを深くかぶっている。全身黒ずくめだが、裾から見えるブーツはくすんだ赤色だ。剣帯には刀が装着され、その柄を握っていつでも鞘から抜けるようにしている。男が置いたのか、寝室の書机のランタンが、居間の一角を明るく照らす。


「貴様は誰だ」


 黒衣の男が聞いてきたが、ファーロは答えず寝室に向かって叫ぶ。


「ホラン!大丈夫か!」


 寝室の奥は窺えず、少年の泣き声が聞こえるばかりで返事がない。ファーロは最悪の事態を想像した。せめてあの子だけでも守らなければならない。そんな彼の焦燥など気にも留めず、男が言った。


「ん? 貴様、その短剣をどこで手に入れた」

「なんのことだ」

「川に流された騎士の水死体でも漁ったか。卑しい農民め」


 ファーロは何を言っているのか瞬時に判断できなかったが、どうやら男は、短剣に施された、ソルナ・ザール教のシンボル(※)を基調にした装飾を見て、盗品だと思い込んだようだ。そして、男の羽織るマントの肩部に、同じ紋様が大きく記されていることに気が付いた。脈打つ心臓が、ファーロを鼓舞する。この時のために自分はここにいるのだと言い聞かせている。


「親父はコスタルド大騎士領の農民だった」


 ファーロは男との距離をじりじりと詰める。


「俺が十の時に、まだ青いライがどんどん腐っていった。冬も越せるかわからないって状況でも、大騎士様は徴収を緩めなかった。弟が死んで母も倒れた」


 踏み込めば剣先が男へ届く位置で、ファーロは止まる。


「貴族からくすねた指輪で豆や粉を買ったら親父に何度もぶん殴られた。そのあと狂ったように教会で祈祷を繰り返してさ。愚かな男だと思ったよ」


 ファーロは息を止めて、踏み込んだ。男の反応は早く、鞘から刀を抜くとその勢いのまま斬り上げて、ファーロの剣を弾いた。その刀はまるで巨大な包丁のようだが、刀身の中頃から剣先にかけて、緩やかに湾曲している。平民でも比較的容易に入手できる刀と形状は似ているが、特殊な鋼材を使用しているためか、刀身が黒い。


 ファーロはすぐさま半歩引いて剣を構えなおす。男の繰り出す左右からの斬撃をいなすも、反撃に転じることができない。鉄のかちあう音が室内に反響する。十一年の空白は、ファーロの思う以上に腕を鈍らせていたが、怯みや緩みが一瞬の隙でも生み出せば命はないと、いくつもの戦地で叩き込まれていた。男は刀を内から外へ大きく振ると、その余勢で身体を回転させた。弧を描いた斬撃を、ファーロはすんでに躱す。男の刀を持つ腕は外側に振り払われたが、そのまま手首を返し、続けざまに斬りかかってくる。ファーロはその斬撃を、剣身を斜め下に構えて防いだ。一層大きな音が宙を震わせ、互いの得物が押しあてられたまま膠着した。


 男たちの漏れ出た吐息が、ぶつかり合って離散する。一瞬、男の力が緩んだ隙を突いて、ファーロは肩を強く押し込み、斬り上げた。剣先が男の胸部を切り裂く。しかし、その感触が生身の体のものでないと、ファーロは気付いていた。二人は互いに距離をとって呼吸を整えた。男の衣服の裂け目から、鎖帷子(くさりかたびら)が覗いている。


「ただの農民ではないな」


 男が言った。


「吟遊詩人だ。歌って欲しいか?」


 ファーロが答えた。男は苛立ちを抑えるように大きな溜息をつくと、挑発を無視して続けた。


「貴様が誰であろうと知ったことではないが、人間がなぜトカゲどもを庇う」

「良き隣人だからだよ」


 ファーロは剣の柄を強く握りしめた。黒衣の男も、刀を構えなおす。張り詰めた空気を最初に破ったのは、黒衣の男だった。男が大きく踏み込むと、素早く距離を詰められた。十分な間合いをとっていたはずのファーロは一瞬気圧される。そして上段、ファーロの顔をめがけた一撃を剣で受け止めた。すると、男は柄を両手で握って刀身を後方へ逸らし、柄頭でファーロの顔面を強打した。ファーロは鼻から血を流しながらよろめく。男はすかさず大腿を斬りつけると、流れるように脇腹を切り裂いた。ファーロの衣服が赤く染まり、呻き声が漏れる。世界が歪む。


 ここまでかと思った矢先、ふらつく視界の端に、竜人の少年が映った。少年は短刀を握って男の背後へ忍び寄り、腕を振り上げる。そして屈みこむように、短刀を足の付け根へ突き立てた。


「ぐっ……なんだっ!」


 少年の力では深く刺すことができなかったようだ。短刀は軽い音を立てて地面に転がり、男の足に当たって居間の中央へと蹴り飛ばされた。ファーロは、男が少年の方へ振り向く隙を見逃さず、突進した。男を壁に押し当て、もつれるようにその場を離れる。ファーロは少年の手を掴んで、走った。そして倒れ込むように寝室へ入ると、扉を閉めて閂(かんぬき)を降ろした。



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(※)正円の中心よりやや下に、その直径より長い横線を引き、横線の真ん中から下方向へ、同じ長さの縦線を引いた象徴記号。太陽と調和(=神)を表す円が、地上の人間たちへ恩寵をもたらす、という教えを象徴している。

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