第35話 私と彼

明日も早いんだからしっかり休んでおかなければならない。

なのに、全然眠れる気がしなかった。

布団に入って目を閉じるが、眠気がやってくる気配はない。

それどころかどんどん目が冴えてきてしまう始末だ。

諦めて体を起こすと、部屋の電気をつけてカーテンを開けた。

窓の外には無数の星が瞬いていた。

綺麗だ、そう思った。

こんな時でなければもっと楽しめただろう。

溜息をついて視線を下に向けると、ベランダが見えた。

そこに向かって足を進め、手すりに手をかける。

ひんやりとした感覚が掌を通して伝わってきて気持ちいい。

空を見上げれば星がよく見える。

昔はよくこうやって夜空を眺めていたっけ。

懐かしい思い出に浸りながらぼーっとしていると、ふいに涙が出てきた。

慌てて拭ってみるが止まらない。

次から次へと溢れ出してきて止まらないのだ。

何で泣いているのか自分でもよく分からない。

でもきっと寂しかったんだと思う。

急に一人になったせいもあるのかもしれない。

でもそれ以上に悔しかったんだ。

何もできなかった自分が許せなくて情けなくて仕方がなかった。

だから泣いてしまったんだと思う。

ひとしきり泣いた後、大きく深呼吸した。

そして覚悟を決める。

もう泣くのはやめよう。

これからは前を向いて生きていこうと決めた。

そう決意した瞬間、少しだけ心が軽くなった気がした。

次の日、いつも通り出勤すると早速仕事が舞い込んできた。

内容は来月行われる社内イベントの企画書の作成。

予算の関係上簡単なものしか用意できないと言われたが、やるからには全力で取り組みたい。

そのためにはまず情報収集が必要だと考え、昼休みを利用して資料室へ向かった。

目的の本を見つけ出してページをめくっていく。

なかなか興味深い内容のものが多い。

中には読んだことのないものもあったので、今度借りてみることにしよう。

一通り目を通した後、休憩のために近くのベンチに座り込む。

背もたれにもたれかかりながら伸びをしていると、突然背後から声をかけられた。

振り向くとそこには見覚えのある顔があった。

彼女はうちの部署にいる社員の一人であり、主に経理を担当している人だ。

名前は確か……駄目だ、思い出せない。

とりあえず愛想笑いをして誤魔化しておくことにする。

そんなことを考えている間にも話は続いており、

いつの間にか連絡先を交換する流れになっていた。

断る理由もないので承諾することにした。

数日後、早速彼女と食事に行くことになった。

待ち合わせの場所に着くと既に到着していたようで、

こちらに気付くなり手を振ってきた。

それに応えるように手を振り返す。

店に入り席に着くと早速注文を済ませる。

しばらくすると料理が運ばれてきた。

どれも美味しそうに見える。

早速食べ始めることにした。

一口食べると口の中に旨みが広がる。

美味しい。

ふと顔を上げると彼女も満足げな表情を浮かべていた。

お互い感想を言い合いながら食事を楽しんだ。

会計を済ませると外へ出た。

外はすっかり暗くなっていた。

そろそろ帰ろうかと思った時、彼女に呼び止められた。

何だろうと思っていると手を握られた。

驚いているうちに引っ張られるようにして連れていかれる。

着いた先は人気のない路地裏だった。

一体何の用があるというのか。

戸惑っているうちに壁ドンされてしまった。

所謂壁ドンというやつである。

彼女の顔を見ると頬を赤らめており息遣いも荒くなっているように見えた。

一体どうしたというのだろう。

混乱していると不意に唇を奪われてしまった。

突然のことに頭が真っ白になる。

呆然としている間に舌を入れられ絡め取られる。

暫くの間されるがままになっているしかなかった。

「はぁ……っ、ん……」

漸く解放された時にはすっかり息が上がってしまっていた。

呼吸を整えてから抗議しようとした矢先、再び口を塞がれる。

何度も角度を変えて深く口付けられて思考が蕩けていく。

しばらくして解放された時にはすっかり力が抜けてしまっていた。

「なにするんですか?」

「ふふ、キスだよ。気持ちよかったでしょ?」

悪びれもせず答える姿に怒りを覚えると同時に何故か胸の高鳴りを感じた。

戸惑いを隠すように睨みつけても効果はないだろう。

その証拠に笑みを浮かべたままだ。

もう一度唇を奪われそうになるのを躱しながら距離を取る。

これ以上されたらおかしくなるかもしれない。

危機感を覚えつつ逃げることに専念する。

しかし相手はしつこく追いかけてきた。

このままでは捕まってしまうと思い、咄嗟に横道に飛び込む。

どうにか撒けただろうかと安堵した直後、腕を掴まれた。

驚いて振り返るとそこには見知った男の顔があった。

御幸一也、大学時代からの同期で今では同僚として働いている男だ。

彼も驚いた顔をしていたが、すぐにいつもの調子に戻ったようだった。

いつもと変わらない口調のまま話しかけてくる彼に苛立ちを覚える。

何故こんなことをするのか問いただそうとした時だった、

背後から声がしたかと思うと同時に抱きしめられたのだ。

驚きのあまり固まっているうちに強引に振り向かされる。

目の前にいたのは御幸一也だった。

いつの間に移動したというのか、全く気付かなかった。

彼は不機嫌そうな顔をしているように見えたが、それも一瞬で消え去り、無表情に戻っている。

何を考えているかわからない様子に恐怖を感じた私は、必死で逃げようとするもののびくともしない。

どうしようと考えているうちに再び唇を重ねられてしまう。

「やめっ、んぅ……」

今度は激しく貪るような口づけだった。

舌を絡め取られ唾液を流し込まれる。

息苦しくなって離れようとするも後頭部を押さえられてしまい動けなくなる。

呼吸ができなくて意識が遠退きそうになる寸前、解放されると同時に崩れ落ちる。

地面に倒れこむ前に抱き留められ、お姫様抱っこの形で運ばれていった。

目を覚ますとベッドの上だった。

どうやら寝室まで運ばれたらしい。

ゆっくりと起き上がると隣から声を掛けられた。

見るとそこに御幸一也がいた。

彼がこんな行動を取った理由を考える余裕はなかった。

何故なら、私は下着姿だったから。

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