第34話 怖い私

「あ、あの、それってどういう意味ですか?」

恐る恐る訊ねてみると、返ってきた答えは意外なものだった。

てっきり、からかわれるだけかと思っていたのに、

まさか真面目に答えてくれるとは思いもしなかった。

でも、それなら尚更、余計意味が分からない、

どういうつもりなんだろうか?

うーん、わからない、さっぱりわからない、

これは困ったことになったなぁ、なんて思いつつ、

内心で頭を抱えているうちに、話は進んでいく。

やがて、全てを語り終えた後、彼は恥ずかしそうに俯いたまま黙り込んでしまった。

その姿はまるで子供のようで、普段の大人びた雰囲気からは想像できないほど可愛らしいものだった。

思わずクスッと笑みを零すと、途端に鋭い視線を向けられてしまった。

怒らせてしまったのだろうか、不安になりつつ様子を窺っていると、

どこか不満げな顔で睨んできたので、慌てて謝ることにした。

そうしてしばらく沈黙が続いた後で、先に口を開いたのは彼の方だった。

何を言うつもりなのかと思って身構えていたが、

意外にも世間話を切り出されただけだったため、拍子抜けしてしまった。

いや、別に残念に思っているわけではないんだけどね、

なんというか、少しくらい期待してもいいんじゃないかなって思っただけですはい、

すみません、調子に乗ってすみませんでした。

心の中で謝りつつ、相槌を打ちながら話を聞いていると、ふとあることに気付いた。

それは、会話の中で度々出てくる名前についてのことだった。

誰のことを指しているのか分からないが、とても親しげに呼んでいて、

正直、妬けてしまうほどに仲の良さそうな印象を受けたのだ。

もしかして、特別な関係だったりするのかな、なんて考えてしまう始末である。

そんなことを考えているうちに、段々と気分が落ち込んできてしまった。

それと同時に、胸の奥底にあるモヤモヤとしたものが

膨らんでいくような感覚を覚えた私は、思わず顔を顰めてしまった。

それに気付いたらしい彼は、どうかしたのかと聞いてきたので、正直に話すことにした。

実は、今話していた内容には全く関係ないのですが、

今日、貴方が会っていた女性についてお聞きしたいことがあります。

というのも、最近、貴方の周りで怪しい動きをしている女性が何人か居まして、そのうちの1人が彼女なんです。

名前は、東條花菜。

25歳独身、職業は事務職員、趣味特技はお菓子作り、好きな食べ物はチョコレート、

嫌いなものは納豆、得意料理はパスタとのことでした。

特に、料理に関しては自信ありそうですねぇ、

あと、ついでにスリーサイズについても知りたかったところですが、

残念ながらそこまでの情報は得られませんでした。

残念です、まあ、まだ初日ですし、

これから少しずつ情報を集めていけばいいかと思いますので、

ご安心下さいませ、それでは、引き続き調査を続けさせて頂きます。

「ああ、よろしく頼んだよ、くれぐれも無理だけはしないようにね」

そう言って微笑む姿は、まさに紳士そのものといった様子で、とても頼もしく見えた。

(やっぱり素敵だなぁ)

そう思いながら、つい見惚れてしまっていた。

いけない、仕事に集中しないと、そう思い直し、気合を入れ直すのだった。

その後、無事に業務を終えた私は、いつものように帰宅しようと廊下を歩いていた。

その時、不意に声をかけられたような気がして振り返った。

その先に居た人物を見て、一瞬固まってしまった。

なぜなら、そこにいたのは、今まさに話題に出ていたばかりの人物だったからだ。

彼女は私に気付くなり、にっこりと微笑みかけてきた。

その瞬間、全身に鳥肌が立ち、冷や汗が流れ出すのを感じた。

恐怖心に支配されながらも必死に声を絞り出し、震える声で訊ねた。

「ど、どうしたんですか、こんなところで……」

そう言いながら一歩ずつ後退していく。

これ以上関わりたくないという思いとは裏腹に、足が動かない。

それどころか、視線すら逸らせなかった。

その間にも、じりじりと距離を詰めてくる彼女に対して、

ただ黙って見ていることしかできない自分が情けなかった。

ついに壁際に追い込まれて逃げ場を失った時、彼女が口を開いた。

その声は低く掠れていて聞き取りづらかったものの、確かにこう言っていた。

――逃ガサナイヨ?

その言葉を聞いた瞬間、全身から血の気が引いていった気がした。

逃げなければ殺される、そう思った私は、咄嗟に踵を返し、走り出した。

しかし、すぐに腕を掴まれてしまい、引き戻されてしまう。

そのまま壁に押し付けられ、身動きが取れなくなってしまった。

抵抗しようにも力が入らない状態では何もできず、為す術がなかった。

「やっと捕まえたぁ〜」

耳元で囁かれた瞬間、ゾクッとした感覚に襲われる。

何とか逃れようとするものの、全く歯が立たない状態だった。

そんな私を嘲笑うかのように、さらに強く抱きしめられる。

苦しさに耐えかねて咳込む私を無視して、首筋に顔を埋められる。

生暖かい感触と共にチクリと痛みが走った。

恐らく痕が残っているのだろう。

それを想像するだけで吐き気がするほどだった。

満足したのか、ようやく解放してくれた頃には、抵抗する体力も無くなっていた。

ぐったりと床に座り込み、息を整えることで精一杯だった。

「今日はこれくらいにしておきましょうかね。また明日、続きをしましょっか」

そう言うと、彼女は部屋から出て行った。

残された私は、悔しさと惨めさで涙が止まらなかった。

どうしてこんなことになってしまったのだろう。

どこで道を間違えてしまったのだろうか。

考えても仕方のないことばかり頭に浮かんでくる。

もう何も考えたくなかった。

今はただ、早く眠りたかった。

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