第32話 彼との距離

スンスンと匂いを嗅ぐ音が聞こえ、羞恥で顔に熱が集まるのがわかった。

恥ずかしすぎて、逃げ出そうと身をよじったところで、耳元に囁かれる。

甘い響きを持つ言葉に、一瞬動きが止まってしまう。

その間に、腰に回された腕にさらに力が入るのが分かった。

逃さないとでもいうかのような強い拘束。

逃げることができないという事実を突きつけられたような気がして、絶望感を覚えた。

これからどうなってしまうのだろう、そんなことを考える余裕もないほどの緊張感に苛まれる。

「……やめてっ……くださっ!」

必死の懇願。

声は震え、掠れ気味になる。

情けない姿だと思うかもしれない、しかしこれが現実だ。

今の私には、こんな方法でしか抵抗する術がないのだから、仕方がないだろう。

そんな私を嘲笑うかのように、首元を強く吸われる感覚が走り、痛みを感じ、小さく呻いた。

噛まれたのだと理解したのは、唇が離れてから数秒経ってのことだった。

歯型がついているであろう部分を労わるように触れられ、

ピリッとした痛みが走ると共に、体の芯が熱く疼いたのを感じた。

そのことに困惑していると、不意に耳元で囁く声が聞こえてきた。

その言葉に反応できずに居ると、再度同じ事を言われる。

それに対して、今度は意味を理解することが出来たのだが、どうしても返事をすることができなかった。

何故なら、自分でも分かっていたことなのだ、自分の心の奥底にある本心を。

だから、余計に怖かった、それを見透かされてしまったようで。

そんなことなら最初から言わなければ良かったと思うものの、

もう遅い、既に引き返せなくなってしまっているのだ、

自分は彼に依存してしまったのだと自覚してしまった、手遅れだったのだ。

今更、取り繕って見せたところで無駄なことだ、もう隠し通せやしないのだから、

いっその事全て話してしまおうかと思った。

そうしなければ、一生後悔することになると分かっていながら、

怖くて、言い出せないままでいる自分を殴りたくなった。

ああ、どうしてこんなにも意気地なしなのだろうか、

自分のことなのに全く分からない、自分の中の筈なのに理解できない、

その事実が情けなく思える、女々しいったらありゃしない、

心の中で自嘲気味なものを零してみたが、気分は晴れないままだった。

寧ろどんどん悪い方向に突き進んでいっている様にさえ思えるくらいだ、

今は誰にも会いたくないなと考えており、布団から起き上がれずに居る現状であった。

何故こんなにも体調が悪いかと言えば、昨日散々彼に触れられたからだ、

つまりはそう言う事だろう、思い出しただけで恥ずかしくなってくる。

あー、もう駄目だ、今日はずっと寝ていることにしようかな、

そんなことを思っていれば、ドアの向こう側から聞き慣れた声がしてきて飛び起きた。

急いで支度をしてドアを開けるとそこには予想通りの人物が居た。

いつも通りの服装、髪型、そして眼鏡、全てがいつも通りである。

唯一いつもと違う点があるとすれば、普段よりもテンションが高いという点だろうか、

まぁ、それもいつものことといえばそれまでなのだが、

それにしても随分と機嫌が良いように見える。

何かあったのだろうか、不思議に思いながら見つめていると、視線がぶつかった。

途端、満面の笑みを浮かべられて、不覚にもドキッとしてしまった。

顔が熱くなるのを感じながら、視線を逸らす、すると、クスクスと笑う声が聞こえてきた。

馬鹿にされているのだと思うと腹が立った、ムキになって、思いっきり睨みつけてやる。

そうすると、彼は笑いながら謝ってきた。

まったく誠意の欠片も感じられない謝罪の仕方だったんので、

そういうところが嫌いなんだと改めて思った。

そうすると、今度は真面目な顔つきになった、かと思えば、真剣な眼差しを向けてきて、

何かを言おうとしている様子だった。

その様子に嫌な予感を覚える、こういう時はいつもロクでもないことを言うに決まっているからだ。

案の定、とんでもないことを言い出した。

「君と出逢えて良かったと思ってる、愛してるよ、結婚してください」

いきなり言われた台詞に理解が追いつかなくて固まるしかなかった。

この人は何を言っているんだ、冗談にしてはタチが悪いぞ、と思いながら恐る恐る尋ねる。

「……本気で言ってます?」

その問いに即答してきた。

もちろん本気だと、真っ直ぐに見つめてくる瞳を見れば分かる、嘘ではないようだ。

ということは、つまり、そういうことなのか、

そこまで考えて、一気に体温が上がるのを感じた。

心臓が激しく脈打ち始める、全身が沸騰しそうなくらいに熱い、頭が爆発してしまいそうだ。

思考回路が完全に停止してしまい、まともに考えることなど出来そうにないので、

それくらい混乱しているのだ、無理もないことだろう。

今までの人生の中で、これほどまでに動揺したことは一度もなかったように思う。

それほどまでに衝撃的だったので、この男の発言は、私にとってあまりにも予想外すぎた。

だからこそ、こんなにも戸惑っているわけであって、決して嬉しくないわけではない。

むしろ逆であり、嬉し過ぎるあまり、感情が追いついていないだけなのだ。

その証拠に、さっきからずっとニヤけてしまっている。

口元が緩んでしまいそうになるのを必死で抑えようとしているせいで、変な顔になっているに違いない。

それだけ、今の状況を受け入れ難い状況にあるということだ。

なにせ、相手はあの有名な俳優なのだから、驚きを通り越して呆れてしまうレベルの出来事である。

信じられないというのが本音だ。

しかし、同時に納得している自分も居る。

なるほど、それならばこの容姿端麗さも頷けるというもので、納得せざるを得ない状況だと言えるだろう。

だが、そうなると疑問が残る。

なぜ、よりにもよって私を選んだのか、ということだ。

普通ならば、私なんかより相応しい相手がいくらでも居るはず、

それこそ、モデルとか女優とか、そういった人達の方が断然良いに決まってる。

それなのに、わざわざ私を選ぶ理由とは一体なんなのか、

考えれば考えるほど分からなくなるばかりだ。

そんな風に頭を悩ませていた時だったのが、

不意に名前を呼ばれたかと思うと、唇に柔らかい感触が伝わってきた。

驚いて目を見開く、目の前には整った男の顔があり、目が合った瞬間、背筋が凍り付いた。

逃げようにも逃げられない、身動き一つ取れない、蛇に睨まれた蛙状態ので、

もはや諦めるしかない、そう思った矢先、今度はゆっくりと顔を近づけてきたから、

反射的に目を瞑ると、耳元までやってきた唇から吐息混じりの声が発せられた。

その言葉を聞いた瞬間、身体中の血液が沸騰するような感覚に襲われたので、

顔が燃えるように熱いから、おそらく真っ赤になっていることだろう。

恥ずかしさのあまり俯いていると、 顎に手を添えられ、上を向かされて再び口付けられてしまった。

最初は触れるだけだったのだが、徐々に深いものに変わっていき、最後には舌を絡め取られてしまった。

そのせいで力が抜けてしまい、崩れ落ちそうになったところを支えられ、

結局、解放されるまでされるがままの状態になってしまったのである。

しばらくして、ようやく解放された時には、すっかり息が上がってしまっていた。

呼吸を整えようと必死になっていると、不意に頭を撫でられたので、

驚いて顔を上げた先にあったものは、愛おしげにこちらを見つめる双眸だった。

その瞳を見つめている内に、だんだんと落ち着いてきた頃、今度は優しく抱き締められた。

背中に回された腕の感触や、伝わってくる体温が心地よくて、自然と頬が緩んでいくのが分かった。

しばらくの間、お互いに無言のままだったが、不思議と気まずさはなく、寧ろ心地良さを感じていたくらいだ。

どれくらいの時間が経過しただろうか、不意に、彼が口を開いた。

「あのさ、一つだけ聞いてもいい?」

なんだろうと思い、首を傾げつつも了承の意を示すために頷くと、彼は言葉を続けた。

どうやら、私のことが好きなのかどうか、確認したかったらしい。

正直、そんなことは聞かれるまでもない、というか、聞くまでもないと思っていたのだが、

一応念のため確認しておく必要があると考えたのであろう。

まあ、気持ちは分からなくもない、私だって同じ立場だったら同じことをしていたかもしれないから、

うん、きっとそうだ、間違いない、うんうん、と一人で勝手に納得していたら、突然顔を覗き込まれた。

至近距離にある端正な顔立ちに見惚れていると、ふと目が合った、ような気がした。

次の瞬間、唇を奪われていたので、しかも、かなり激しいやつ、

息継ぎする暇もなく貪るようなキスをされて、酸素不足に陥りかけ、

意識が遠退きかけた所で、ようやく解放された、と思ったら、今度は首筋を舐められた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る