第8話 歪む世界



 突然、耳がピンっと尖った。

「ルシア、乗れ。休憩は終わりだ」

「え……はいっ」 


 背中に膝が絞られるや、俺は合図をまたず地を蹴った。まっしぐらに西へ駆ける。

 追ってきていたのは、ソルティテート軍ではなかった。

 空を割り、地を割り、影を割って名状しがたい邪悪が津波となって迫ってくる。


「ルシア、俺にしがみつけ。絶対に振り落とされるなよ!」


〝大暗黒を巡る幾多の古き者たちに告ぐ

 きたれり、炎煌の熾星。集えり、灼熱の烈風。

 我が呼び声に応え、降魔の剣を顕現し、

 汝の火炎もて、浅ましき邪悪を薙ぎ払え〟


 ――〝光芒星炎剣レーヴァティン


 俺が駆け抜けた後に魔法陣が現れた。

 高出力光線が周囲に拡散し、それぞれ別方向を一閃する。名状しがたい肉塊が細切れとなって宙を舞い、薙ぎ払われた後の地中水分が瞬時に蒸発して爆発する。


「けっ、しゃらくせぇんだよ!」


 このあいだ襲ってきた妖魔どもと同じにしては、今度は数が多すぎる。


「ああぅ。うぐぐぐぐ……っ」

「ルシアっ!?」 


 振り返ると同時にルシアが苦しみながら背中から落下した。

 邪悪たちはまだ引きも切らせず迫ってきていた。


「お前ら、邪魔だーっ!」


 無詠唱。視界いっぱいに炎の城壁がそそり立ち、邪悪どもを押し切っていく。

 ちなみに狼の視野角は二七〇度。ほぼ「C」の範囲が炎の壁で覆われたことになる。


 地面に落ちたルシアは、四肢がなくなっていた。


 弟子の身に何が起きているのかわからない。

 だがうろたえたところで、俺は獣だ。

 この手では、抱きしめてやることもできない。


 俺はルシアをくわえあげて走り出した。


 せめて……、

 海を見せてやりたかった。


    §


 西陽海は一年を通して波が荒く、風も強い。

 うるさいくらいの潮騒と海の匂いに、ルシアはそっと目を開けた。


「師匠……」

「見えるか」

「これが」


「ああ、海だ。西陽海だ」

「青い、空と同じです……きれい」

「ああ。きれいだな」


 波が浜を洗う音が強くなる。ルシアは俺の毛躯に頭をあずけたまま、その波音に心を委ねているようだ。


「ねえ、師匠。聞いてくれますか」

「なんだ?」

 ルシアは海を見つめながらいった。


「私は、あなたを救い出したい」

「救い、出す……?」


「この呪殺魔法の世界から、あなたを救い出したかった。でも呪殺魔法の術式が思いのほか周到で強固なプロトコルだったので、わたしも……こうなっちゃいました」


「ルシア……?」


「師匠。気づきませんか。あなたが私を守ってくれたんです。牢を出て、ここまで連れてきて、くれた。だから私は、呪殺魔法を一部だけ、書き換えることができたのです」


「ルシア、ルシアしっかりしろっ」

「信じて、くれますか。私が……師匠を救い出しますから」


 そういうと、ルシアは目を閉じ、俺の毛躯に寄りかかった。


 その姿がついに砕けて、欠片を海風が空へと連れ去っていった。


 俺は立ち上がると、海岸沿って北を目指した。

 ルシアが買ってくれたハーネスを感じながら徐々に速度を上げ、走る。


「――風よ、集いて我らを運べ!」


   §


 西都ポルトゥス。 


 太陽時代で南都リジュヴォアに次ぐ繁栄を誇った。

 都を数百年に渡って導いてきたはずの魔女たちを最初に火刑に架けた都の民も、ここだった。

 誰が言い出したのかはわかってる。


 狂魂の魔女ランダマイザだ。


 魔女の讒言ざんげんに正教会が乗り、マズいとわかりながら権威と金欲しさに良識と良心を悪魔に売ったことで後に引けなくなった。


 坊主が狂えば、信徒も狂う。王も狂い、貴族も狂い、平民まで狂っていった。

 あとは止められる者がいない血祭騒ぎカーニバルだ。


 火刑は、夜に行われた。

 魔女が市民の目を見て、呪いをかけないよう配慮された。


 大通りの両端にはゆっくり進む檻馬車を一目見ようと、観衆が貴賤の別なくならぶ。中には、すすり泣きながら繁栄落日の瞬間を見守っていた。


 おり馬車は松明を掲げた騎兵に警護されて進んだ。檻には黒いヴェールがかけられ、中の魔女のシルエットだけ。呪詛を吐くでなく、我が身の最後を嘆くでもなく、ひっそりと椅子に座っている。


 ……襲うなら今かっ


 すると、その檻馬車の前を、幼な児が飛び出した。


 背後の群衆が膝で、小さな背中を押しやったのを俺は見逃さなかった。

 見逃さなかったのだから、見過ごすわけにもいかなかった。


 二頭馬の前に投げされた子供の服をくわえて、聴衆へ投げ返す。受け止めたのは母親だろう、若い女が抱きしめていた。


「ジャイヴっ、もうあんたって子はっ」

 俺は馬蹄の影に消えた。

 

 馬車はなんの停滞もなくリベルターデ中央広場に向かい、やがて刑場の前で止まった。

 御者が降りて、檻の錠前を外そうとして、警護の騎士が止めた。


「待て。まだ魔女をおろすな。……獣の匂いがするぞ!」


 バレた。こちらに感づいた騎士は褒められていい。

 馬車の下の影に四方から槍が突き入れられて、俺もたまらず飛び出した。


「使い魔にしては大物だ。油断なく囲みつつ、檻馬車から引き離せっ! 護送兵は、魔女をおろして審問官へひき渡せ!」


 騎士の指示で、俺の周りに三十人がかりの車輪ができる。その間にも檻が開けられ、黒い目隠しをされた粗末なワンピースを着せられた魔女が引っ張り出される。


「ビオラゥン! 師匠ぉ!」

「……ジルヴァン?」


 怪訝そうに名を呼ばれた。忘れもしない、忘れようのない俺の戻るべき場所だ。

 俺の心底から感情が怒涛となって溢れ出た。


「お前ら何やってんだ! 誰の知恵でこの町はここまで栄えた、誰の慈愛でこの町に安寧が保たれた。この恩知らずどもが!」


「黙れっ。……使い魔ごときが人の世界を知ったふうにほざくな!」

「北陽ソルティテートとの和議はなったぞ。戦争は回避された!」

「何だとっ。騙されぬぞ、ジルヴァン様はまだ国境のはずだっ」


「俺が直接ビウエラと交渉し、誤解を解いてきた。任務に忠勤するほどに貴公らを鍛え上げた魔女の御前で、貴公らを殺したくない」


「くっ。何をしている魔女を早く連れて行け。お前たち、この使い魔を絶対に通すなよ!」


「ぐぅ! このっ、石頭がぁ!」


 槍の密集隊形に行く手を阻まれ、じりじりと後退しながら吐き捨てた。

 あの審問官がビオラゥンに噴飯ものの罪状を並びあげていく。

 蘇生魔法を研究し、人体実験をしていた。魔女裁判でよくある話。それ以外にもっともらしい罪状が並んでいく。


「おい、自称聖職者っ。今の罪状はお前たちの罪を並べたものか? 地獄へ行くのはお前たちだ。恥を知れ!」


 審問官は顔を赤黒くさせて喚いた。


「警備隊長っ、その犬は魔界から魔女を取り戻さんとする尖兵だ。容赦はいらぬ。さっさと悪魔の使いをほふれ。これ以上言葉巧みに観衆を惑わせては、王の威信に傷がつきますぞ」


 騎士は剣を抜くと、前進合図を送った。


 ……なぜだ。なぜ来ないっ。この世界の俺はどうして、無力なんだ


 その陣形の先で黒煙が上がりはじめた。

 俺は背中が膨らむほどの風を肺に取りこんだ。

 

 グォオオオオッ!


 風に宿した咆哮が、広場にいた観衆を恐怖で縛る。

 檻馬車を蹴った反動をつかって槍衾を飛び越えると、黒煙へ走った。 


「ひぃいいいっ!?」

 横を掠めた審問官が悲鳴をあげて卒倒する。


「ああっ、あああああ……うわぁあああっ!」


 俺の愛した魔女が、柱に縛り付けられたまま足元の炎に焼かれ、黒煙に呑まれていく。

 こんなに近くにいたのに間に合わなかった。

 けれど過去は間違いなく変えられた。


 この世界の俺は間に合わなかった。

 けれど、千年後の俺はついに間に合った。


 魔女ビオラゥンとともに死ねる幸福を、得られたのだ。

 彼女のいない過去を変えられないのなら。

 もう未来なんて、いらない。


 俺は燃え盛る炎の中に飛びこんだ。


「ジルヴァン……どうして。そこにいるの」

「ビオラゥンっ! 師匠、せめて死ぬ時はあなたのそばで……っ」

「どうして。――私を見捨てたのですか、師匠」

 暗転。


    §


 目覚めると、もとの牢屋だった。


 ああぁあああっ!

 衝動的に目の前にあったものを爪で引き裂いた。

 青白い幻炎が袈裟懸けに裂けて、老人の目が寂しそうに俺を見つめる。


「バケモノ殿。何があった。あの娘はどうした」

「娘は、ルシアは……夢、だったのか。さっきまでことは、全部」

「バケモノ殿?」


 俺は地面に伏せると頭を抱えた。


「誰でもいいっ。教えてくれ、俺は一体、何に巻き込まれたんだっ?」

「おい、見ろ。あの魔狼が牢に戻ってきてるぞ!」


 鉄格子の外から松明がかざされて、俺は目を細めた。


「魔狼ジルコシアスだ。どうやらオレたちの首は、皮一枚でなんとかつながったな」

「いや、それ。首をとっくに斬られた後じゃね?」

「いつ戻ってきたんだ。それに、今からオレたちでどうやって引っ張り出すんだよ」


 俺の牢屋にルシアを押しこんだ兵士三人だ。


 ちょうどいい。この混乱を憂さ晴らしの餌になってくれ。

 鉄格子を袈裟斬りにする。のっそりと牢から出ると、口を大きく開けた。


 兵士三人は表情を失ったまま横一列で、俺に背中を向けずに脱兎のごとく後ろへ走り出した。

 こちらの機嫌が悪いときに面白いことするの、やめろっ。


「ジャイヴ爺」

「……」

「今のあんたから見て、俺は生きてるのか。死んでいるのか」


「ワシは既に肉体を失った身。無価値な存在の目を当てにしてどうする」


「俺は千年前に戻った。置いてきた後悔を取り戻したように思えた。でも、だめだった。俺は、この後どうすればいい?」

 いって後悔した。ジャイヴ爺にも嘆息された。

「自分から牢屋を出ておいて、言うセリフじゃなかったな」


「バケモノ殿。自分を縛った牢をみずからの意思で壊したのだ。あとはもう、前に進めばよいだけのこと」


 地下牢の廊下を進む。ここにはもう、戻らない。


「俺には、帰りたい場所がある」

「なら、これからそこへ帰るのか」

「ああ。あんたのように肉体を失っても、きっと俺は帰りたいと望むんだろう」


 階段を登り、地上に出る。

 俺の周りを二百人規模の兵士が、剣槍の切っ先を構えて取り囲んでいた。


「ルシタニアの禁忌、魔王ジルコシアスよ。王妃エリゼッチ様直々の詮議がある、ついてこい」


  §


 薔薇の匂いに、むせ返るようだ。

 つれてこられたのは、宮殿の中庭だ。

 俺は首と胴と四肢に縄をかけられ、屈強の兵士に握られている。


 中央の高台四阿あずまやに立つ派手な化粧をした女が、随分前に助けたバトゥカーダとともに睥睨する。


わたしは王妃エリゼッチ。答えなさい、王国の禁忌。ルシアはどこ?」

「……」

「お前にあの娘の価値はわかるまい。どこへ逃がしたか素直に白状すれば良し」

「……」


「白状せねば、その首をこの場で叩き落として市外にさらしてくれよう」


「わん」


 エリゼッチは細い眉を中央へ集めた。


「わん、わんわんッ、ヴァオーン、わんわんッ」


 兵士たちが虚を突かれた顔で主人を見る。

 どんな返答をしたかは、俺にもわからない。


「妾の前でそのような道化の振る舞い、後悔するがよいわ」


 氷結魔法陣から氷槍の穂先が頭を出すと、一気に加速して向かってきた。


「わん、わんわーん」


 目の前に防御法陣を展開し、氷槍を受け止めて砕く。


「わん、わん、わわーん……その程度か?」

「このぉっ!」


 二陣目の氷柱が数を増やして一斉に降り注ぐが、今度は防壁に衝突する前にくるりと反転、女に襲いかかる。


「軌道演算の書き換えを一瞬でっ!?」


「軌道演算だけじゃねえよ。魔力干渉、術式反転、所有権限、全部だ。魔導書通りに唱えるだけが魔法じゃない。弟子のブンザイで、師匠の実力を舐めすぎだ」


「ろくなこと教えてないくせに、師匠風を吹かさないで!」


 氷槍を途中で解除、火炎魔法とぶつかり湯気に変わった。

 湯気の中から姿を表したのは、化粧の剥がれた少女の頃の面影を残す弟子の素顔だった。


「千年魔女ルシアいや、魔女ランダマイザだよな。俺のところに来たあのルシアは、何だ?」

「妾を見捨てたくせに、師匠面をしないで。何をしているの、その犬を殺せ!」


「ルシアの行方はもういいのか? 俺を殺したらわからなくなるぞ?」

「首を晒すといったわよ。その犬頭から記憶を引き出せば、行き先はわかるわ」


「そうか、残念だな。この世界のカラクリは、教えられないってわけだ」


 兵士が剣槍を構えて、俺の背後を取り囲む。


〝風よ風よ、シルフィよ 悪戯たわむれの砂粒ひと握り 駆けこむ血眼にすりこんでやれ〟


 背後で一陣の砂風が巻きおこって、兵士たちの目に振りかかった。悲鳴が起きてその場で悶えはじめた。


「ジャイヴ爺?」

「はやく、いくのだ。さほど大したことはできんのでな」 


「わかった。助かるっ!」


 俺は縄を振り払い、騎士が落とした剣の柄をくわえ、高台へ走った。ふいにヒゲが逆立って、とっさに左へ跳んでいた。いた場所に火の竜巻がバラを焦がして空へ昇っていく。


「〝火災旋風〟。風の素養があったことは憶えてるが、面白い使い方だ」


「うわっ、ひぃやああああ!」


 高台からバラの花壇を踏み分けながら、バトゥカーダが転がるように高台から逃げていく。

 大気に舞う花弁と火弁の先で、魔女ランダマイザは妖気をまとっていた。 


「師匠。どうして私を見捨てるんですか」


 美しい白い額が裂け、奥から魔獣の眼が俺を見据える。こめかみからは歪みねじれた牛の角が生えていた。もはやあの言葉は、彼女の恨み言でも疑問でもない。ひとえに少女の情念を借りて、悪魔が殺意を顕現するため呪詛として繰り言にしているだけだ。


 なぜ、あちこちからルシアの呪詛が繰り返される。

 ともすればここは、この世界は、俺は、一体何なのだ。


 悪魔がビリビリと人の女の美貌を突き破って、針の毛皮をまとった猛牛に変わった。


 前の鉄蹄を軽く蹴って火花を散らし、高台から猛然と滑降してくる。

 俺は落ちていた剣を横一文字にくわえて真正面から向かった。


「――風よ、集え」


 猛牛と俺が衝撃する刹那だった。


 せめぎ合う乱気流でふわりと俺の毛躯が舞い上がる。宙で体をよじり、猛牛の巨針躯を飛びこえると四肢で高台に着地していた。


 振り返ると、猛牛はそのまま突進し、階下の兵士の集団に突っこんでいた。中庭入口の壁にツキのなかった兵士四、五人の血だまりが塗布された。


 そして猛牛もまた、うなじに剣を突き刺されて、絶命していた。


「途中で魔法を諦めて、力攻めに切り替えるべきじゃなかった」


 理由は簡単だ。魔法を使い慣れていなかったからだ。火災竜巻の大魔法を詠唱成功させながら、制御しきない不安を一瞬でも抱いたから、自分の得意な戦法へ逃げた。だが、


「剣との勝負なら、俺のほうがお前の千倍、強い」


 俺も狼になる前はそうだった。剣のほうが魔法より得意だった。


 魔女の弟子で、魔女騎士なのに魔法が使えないのかと勘違いされるほど、俺は周りに魔法を見せなかった。


 魔法は使えるんだ。理屈も頭に入っている。ただ苦手なだけで。


「魔女が魔法を使えるんだから、そばにいる俺に魔法の出る幕はない。そうでしょう、師匠」


 そう口答えするたびに、師匠のゲンコツが飛んできた。

 痛くもない、甘えを許す師鞭だった。「怠け者」と叱られても、それが嬉しくて、つい同じ口応えしてきた。


 会いたい。今までどこに行ってたんだと叱ってほしい。

 あの人の声が聞きたい。あの人に、俺の名を呼んでほしい。

 呼んでくれれば、すぐにでもどこでも駆けつけるから。


「くそったれ……こんな獣じゃ、涙ひと粒も出やしねえのかよ」


「ジルコシアス。今はジルヴァンと呼べばいいかな?」


 逃げたはずのバトゥカーダが戻ってきた。逃がしてやった恩を返さなかった男。


「そんな、肝心な時に逃げたとさげすむ目で余を見ないでくれ。あのときの恩は今、返すから」

「あんた自身の命、二つ分をか?」


「うっ。なら、言い訳だ。聞いてくれるか? きみにとって、割と核心に迫る告白だ」

「核心? ……なんだ」


「我々は、お前をあの牢から出すために送られてきた、プロンプトなのだ」


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