第3話 二匹の狼
「――むんじゃねえよ!」
体当たりで牢屋の鉄格子をぶち破ったつもりで、突然目の前に現れた大木を一本へし折った。
ここ、どこだ。どこまで飛ばされた。
久方ぶりの
上を見あげれば、空が紺碧色をしている。空を見るのは、いつ振りだろう。
こんな冷めた色の何がいいんだか。
少し辺りを走ってみる。雑木の間を流れるように駆け抜ける。土の感触が気持ちい。
閑古鳥、鴉一羽さえ見当たらない。ともすれば、うさぎや鹿の類もいわずもがな。
「こりゃあ、この辺を魔物の群れでも通ったか?」
今は会いたくなかった。見知らぬ土地まで飛ばされて、食い物にありつく前に縄張りだの、序列だので突っかかってこられるのは面倒くさい。
エーックショイ!
唐突な声を聞いて、俺は目を見開いた。後ろをゆっくり振り返ると、遺憾にも目を細めた。草むらが少し揺れた。いまのが
それにしても忌々しい
「こんな森の中で裸で置き去りってのも、寝覚めが悪いか?」
考えるのをやめる。さっきの場所まで戻ると、小娘が生まれたままの姿で震えていた。雨の日に飛ばされていたら、まず体の熱を失って死んでいただろう。
「服は……貴族の、女物、女……ピンとこねぇな。適当でいいか」
俺は小娘の長い髪を一房そっとくわえると、歯で咬み切った。
黄色の魔法陣を描き、そこへ髪を振りかける。
その魔法陣を下降、娘の体を通す。亜麻色の半袖チュニックと麻のブレー(男性用長ズボン)の完成だ。丈も少し大きくなったが、まあいいだろう。
これを〝魔装陣〟という。
着る本人の体の一部を代償にして、魔法陣がその記憶を読み取って体型通りに形を整える。
「あと、剣もおまけしてやるか」
魔装陣からエスパダ・ロペラを。そっと寝顔の前においておく。細身剣で戦場向きではないが護身にはなる。女子供の細腕で振りまわせるギリギリの剣だ。これより短くするとダガーやスモールソードになる。取り回しがいいが、紳士以外の男たちからは舐められる。
旅の恥はかき捨てもいいが、女が地元民に舐められるのは危険だ。
「じゃあな、小娘。達者でな」
俺は一千年ぶりの自由へ駆け出した。
風を切る音を聞きながら、風になる。
気分がいい。そして、自由でも腹は減る。むしろ自由だからこそ腹が減るのだ。生きている証拠だ。
さっきから鳥獣のニオイが見当たらない。このまま海まで走り抜けるのも悪くないが。
ふと、何気なく踏んだ柔らかい感触に、立ち止まって振り返った。
人形だ。子供が持ち歩く、綿の入った袋人形だった。
何年も抱きしめてもらえず、目も鼻も洗われて黒ずんだ姿で横たわっていた。
あらためて周囲を見回して、草木に埋もれるように漆喰の石壁をみつける。
間違いない。ここには村があった。
「森に呑まれて、ずいぶん経ってるが」
俺は周辺を歩き回った。長い年月をかけて風雨が人の痕跡を洗い流していた。けれど人形が残っていたのなら、他にも何か残されていないか探す。例えば、
「やっぱりあった……道が」
何人も通ることで踏み固められた地面は、人が作り出す一番の痕跡だ。
その道を小走りでたどる。荷馬車、馬蹄、人の靴音。一切しない。
何なんだこの静寂の土地は。我知らず小走りが、疾走に変わっていた。
気持ちよかったはずの風音が焦燥を駆り立てる。
空腹も忘れて、どれくらい走った頃だろうか。
「見えた!」
遠くに赤い砂岩の城壁を見つけた。
安堵に気は急くが、脚は逆に速度が乗らなくなっていく。いつの間にかとぼとぼ歩き、怪訝の影を引きずり出したその脚も、やがて止まった。
「人の気配がしない。どうなってんだ」
行き交う通行人はおろか、城壁を守る衛兵の影すらない。
城門の
町が、ない。
城門から垣間見えた建物六棟だけを残し、他はすべて粉々に破壊されて瓦礫の原っぱになっていた。
俺は思わずその場にうずくまり、前脚で頭を抱えた。
「ぐぅううう。この風景……俺は見たことが、ある。どこだ。どこでこの悪夢を見た」
思い出せない。一千年前の、人だった頃の記憶を今さら叩き起こせと命じたところで、すぐには浮かんでこない。歳は無駄に取りたくないものだ。
「千年前、だと?」
俺は立ち上がり、周りを見回した。かつて城壁だったものに沿って歩き出す。城壁はこの町のほとんどを失っており、乗ったそばから瓦礫の山が崩れる。町が襲われて数日といったところ。
攻め込まれたのだとすれば、住民は皆殺しか。それにしては数日で血の跡も、戦闘の気配も残ってないのはなぜだ。
やがて探していたものをようやく、瓦礫の下から見つけた。
「あった。探したぜ、この野郎」
地面に半分埋もれかかった鉄の板。泥を前脚で掻き蹴って払いのける。
この板は、町の
[Belmonte]
俺は意識を保ったまま、気を失いかけた。
ここが、北陽の国。あの城塞ベルモンテだと。北陽ソルティテートで堅牢な要塞都市が
「うそだ、うそだうそだうそ痛ったあ! 今度はなんだよっ」
茫然自失から呼び戻したのは、顔に刺す痛みだった。思わず頭をふるい、落とすと今度は前脚に刺さった。なんなんだ。
右の脚先をブルブルっと振り払うが今度は抜けない。刺さってるそれを見つめて目を疑った。
「髪の毛ぇ? ――魔素反応か!」
俺は急いで来た道を引き返していた。
「くひひっ。この辺の事情を知ってそうなヤツをようやく見つけたぜ。小娘。俺が行くまで食われんじゃねえぞ!」
§
目が覚めると、森の中だった。
濃い草いきれのニオイに眉をひそめた。薄暗いが清涼な風が頬を撫でる。
ようやく見つけた、その矢先に別の意識線に飛ばされた。
温かい服の感触そして、目の前にかざした見覚えのない男物の袖。
思わず自分の顔に触れた。痛みがない。折られた歯まで、全部ある。
そうか、わかった。あの時、きっと私は死んだのだ。
ボサノヴァ王陛下。王妃様とともに。王弟バトゥカーダ、叔父が生きていたことには驚いた。
そうか、わかった。
兵士たちから折檻を受けてあっさり死んで、ここで男に生まれ変わったのだろう。
そばに置かれた
生まれ変わった私はここで、一体何をしていたのだろう。
サササザザザ……ッ。ザザサササザ……ッ。
茂みの奥から赤い眼がいくつもこちらを、じっと見つめてくる。
生まれ変わった直後から、もう終わるかも。剣を強く握りしめる。
握ったこともない剣でどうしろと。馬には少しだけ乗った。その馬さえどこにもない。。
やってきたことは隣国の言葉の読み書きとダンスと、裁縫を少々。退屈な時は本をたくさん読んだ。陛下は、魔法の勉強はしなくていいとおっしゃった。王妃様も私が魔法を知ることは、狂魂の魔女ランダマイザをこの国に招くことだと諌められた。
両親がどうしてそこまで魔法を嫌ったのか。今はどうでもよかった。
剣も魔法もダメな私に、できることといえば……できること、何ができるんだろう。
戦う、戦わなきゃ、でもどうやったら戦える?
たくさんの視線が全方位から感じる。もう逃げ場すらどこにもない気がする。
戦えなんて無理。
さらに闇の奥から違う眼の色が現れた。
〝痩せっぽちの子供か〟
ゆっくりした足取りで迫ってきたのは、紫の眼をした熊みたいに大きな赤毛のオオカミだ。
あきらかに上位の、魔物だ。この群れのボスだろうか。
こんな細い剣一本で向かっていっても敵いっこない。
「でも死にたくない。もう死にたくないよっ!」
叫んで目をパチクリさせた。私の声だった。
私、死んでなかった?
私、どうなってるの。
安堵よりも戸惑いで、剣を抱きしめたまま後ずさった時だった。
背後で狼が短い悲鳴をあげた。
振り返ると狼が二頭、跳ね飛ばされて宙を待っていた。
目許に銀毛まじりの黒い狼が、私の方へ突っこんでくる。
「よお、小娘。どうやらまだ食われてなかったようだな」
この狼もずいぶん大きい。とっさに細身剣を抜こうとして、間に合わずに体を咥えられた。
食べられた。死んで生まれ変わったと思ってたのに、もう死にそうになってて、でも実は生きてたとわかったり、生きようとした矢先に食べられたり、忙しい私の晩年さようなら。
〝ジジイ。オレの前から堂々と獲物をかすめ取ろうなんざ、いい度胸してるじゃねえか〟
「あぁ? かすめ取っちゃいねえよ。これはもともと俺の物だったんだ」
〝耄碌して自分が何言ってんのかすらわかってねぇのか。耳も遠いらしいな。その娘はオレ達の獲物だって言ったんだ〟
「おい。さっきから聞いてりゃあ、人を年寄り扱いしてるが、お前いくつだ」
〝オレはここら辺りの魔素を二百年吸い続けた、
「なんだ、ガキじゃねえか。じゃあな。また縁があったらお話しような、ぼうや」
赤毛狼が跳んだ。私たちのいた地面から土柱が噴き上がる。
それより速く、私たちは風になっていた。
ヴオォウォオオンッ!
後ろで狼の遠吠えが森の静寂を破る。それを合図に次々と森から追ってくる影の群れは、狼というよりアリみたいな飢餓の大群だった。
「あの、ものすごく追ってきます!」
「わかってるよ」
「どこへ行くんですか」
「この先だ」
「あなた、狼じゃないんですか? どうして、私と話ができてるんですか」
「こまけぇことはいいんだよ。あんまり話が長くなると、お前を落としちまうかもな」
「わかりました。黙っておきます」
「ああ、物わかりの良いガキは嫌いじゃない」
赤い砂岩の城壁が夕日を浴びて、燃えている。
銀糸黒毛の狼は、不意に足を止めると、私を地面におろした。
「あの城門をくぐったら、
「たぶん、見たことはあります」
「そのレバーを前に倒すと、止め
「はい」
「俺がヨシと言ったタイミングで、そのレバーを倒せ」
「私にできるでしょうか」
「できるかできないかじゃなく、やらなきゃ奴らのエサだ」
「わかりました」
「いけ。俺は少し、奴らと遊んでから行く」
私は城門に向かって走り出した。
不意に明るくなって、思わず振り返っていた。
赤い魔法陣がずらりと横へ並ぶ。
狼たちが本能的に立ち止まったが、後ろからやってきた仲間に押され、体ごと魔法陣に飛び込んだ。
爆発。土煙に混じって、オオカミたちの血煙が爆ぜていく。
……あれが、魔法。
赤い魔法の陣列はその後も
飢えたオオカミたちも恐怖が先に発って、追撃が鈍った。
「娘。何ぼさっとしてる。早くいけ」
やんわり叱られて、私は鞭打たれたみたいに城門へ走り出した。
息を切らせて城門をくぐると、
城門なんて細かく見たことがない。どういう構造なのかも知らない。
それでも地面から鎖が伸びている先を見て、その存在に少し感心する。
「えっと。あれが格子だから、巻き上げが、あれかしら。なんか大きくない?」
大きな丸太に鉄の鎖が巻き付いてびくともしそうにない。
「丸太に巻き付いてるってことは、これがレバー、にしては横向いてるよねえ」
止め
じゃあ、レバーは……あれ、ついてなくない?
「あのーっ。レバーがついておりませんけどぉ!」
て、いってもこの距離じゃ聞こえないよね。
「こっちは忙しい、自分でなんとかしろ!」
うわ、聞こえてた。でも横暴の極み。
どうしようと巻き上げ機の前で右往左往して、はたと気がついた。ここまで手放さずに持ってきた物がある。
「この剣、ここに入らないかしら」
細身剣だ。試しに
「一応、準備できましたあ」
「一応ってなんだ! できたのか、できてないのか」
くそじじい。細かいことはいいんじゃなかったの。
「できました。たぶん」
返事がない。細身剣の柄を握ったまま、体を傾けて城門の外をのぞく。
赤毛の狼が魔法陣列を飛び越えて、銀糸黒毛の狼に襲いかかっていた。
頭をぶつけあい、牙を向いて互いの喉笛を狙っている。どっちが優勢なのかもわからなかった。
やがて、黒い狼が距離をおいた。こっちにやってくる。速い。こわい。
「よし!」
いわれるまま、私は細身剣レバーを引いた。
ガラガラガラガラ!
鉄の鎖が滑車をすべる音とともに、格子が勢いよく下がった。格子の先端は地面についていない。
目の前に狼の大きな頭が転がった。私は思わず尻餅をついていた。
〝お、のれ。なぜクソジジイなんかに、オレが?〟
「おめぇが、坊やだからだよ」
私を助けてくれた黒い狼はもっと奥にいて、首だけ振り返って敗者を嗤っていた。
「お前に聞きたいことがある」
「あの、もう死んでいますけど?」
「ここの連中はどうなった? なぜ誰もいない?」
「いや、だから死んでますって」
〝この辺じゃ見ない、魔物がでた〟
うわ、首がしゃべった。
〝つぎつぎに町を食べた。他の妖魔も集まってきて、みんな気が立ってる〟
「そいつはどっちへ行った」
沈黙。やっと死んだのかなと思っていたら、目があった。
〝風にでも聞いてみろよ、クソジジイ〟
呟くと狼の巨頭は黒い灰となって、うずたかく崩れ去った。
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