第2話 ルシタニアの禁呪



 女の匂いがする。まだガキの匂いだ。

 糞尿の乾いた昏い石床を引きずられてくる。

 血のニオイが近づいてくる。


 ここへ。


 おまえらの面倒に俺を巻きこむな。

 おまえらの瑣末さまつで俺の眠りを妨げるな。


「おい、本当にここでいいのか」


「そのはずだ。牢下男から聞いた。王族を人知れず跡形もなく始末する虜囚が、この先の牢にいるってな」


「なんでオレ達が王族の……暗くて、よく見えねぇぞ」


 錆びた穴に鍵でまさぐる不快な音が耳を苛立たせる。


「おい、開かねえぞっ!」

「静かにしろ。慌てんな、鍵をこっちによこせ。王女を見てろ、逃がすなよ」

「どこへ逃げられるってんだよ。兵士六人がかりで両手足を折ったんだぞ」

「油断すんな。ガキでもボサノヴァ王の娘。古の魔女の……」


 終わりの始まりを報せる音とともに鉄扉が全開し、小さな影が投げ込まれた。

 兵士二人は急いで閉めた鉄格子から、死体同然のソレを観察する。


「い、いたか?」

「だから房の奥までよく見えないって。それに気配も感じ――」


 ドォン!

 鉄格子に体当りする。交差する鉄棒がたわんで二つの悲鳴がふっ飛んだ。


「ひぃ~ッ」

「いたいたいた、いたぁ! ここでバケモン閉じ込めてたのかよぉ!」


 そろって石床に背中から転がると、その後転の勢いで立ち上がり、背中を見せずに一目散に逃げ去った。

 器用な逃げ方をする兵士もいたもんだ。せっかく悪戯気分で脅かしたのに、なんか興ざめ。


「さて。コレをどうしたもんかね」


 ……ん。この匂い、どこかで


 鼻面を近づけてくんくんしていると、鉄格子の彼方から小さな青い灯りがやってくる。

 カンテラを提げた人の影、石床を木靴で確かめながらやってくる歩調はこちらを恐れない。


「ジャイヴ爺。何か知ってるか」


「ルシタニアがようやく簒奪されたのだ。バケモノ殿が前に助けた、あの男がやり遂げたらしい」


「助けたわけじゃない。だがそうすると、コレは亡国の残滓か……死にかけてらぁ」


「ワシは例によって何もせんよ。魔法使いでも治癒師でもないからな」

「けっ。毎度同じ御託ばかり並べるんじゃねえよ、ぼけ巫術師ドルイドめ」


「並べるとも。ここで死ねば、因果応報。生きれば、起死回生。それを選ぶのは、そこの娘ではなく、バケモノ殿、お主だということもな」


 俺は半死体の前で横臥する。兵士の鉄靴と鉄拳で折檻され、鼻も折れて眉もふさがり、顔中が腫れあがっていた。ここまでひどい有り様でも死んでないのは、加害者たちの殺意と憎悪が拳に乗らなかったからだろう。長い時間、十三、四歳の小娘をいたぶり続けたのだ。


 命じた者の憎しみと怨み、加虐嗜好の闇深さに身震いを覚えるほどだ。


「また、そのように半死人のナケナシの天運を、天秤で量るような真似を」


「俺はもう人の事情に興味はねぇ。俺を動かせるのは、コレがもてる天運がここで潰えると告げるか、ここで潰えぬと告げるかだろ。それを待つ」


 闇の中で、ただ待つだけの静寂が支配する。

 やがて、そのきっかけが始まった。


 壁と床の隙間穴から大きなムカデが這い出してきた。

 禍々まがまがしい異形を蛇行させながら、まっすぐ娘の肌まで迫る。


 そこへ天井から音もなく降りてきた大蜘蛛がムカデにとりついた。


 二匹は床の上で大乱闘し、ついに動かなくなったのはムカデだった。大蜘蛛は糸を巻き付けて、意気揚々とムカデが出てきた壁の穴に連れこみ、消えた。


「バケモノ殿」

「まだだ」


 それからまたしばらくして、次のきっかけが来た。

 ピチャン。俺は耳をピンとそばだてた。ジャイヴといっしょに上を見あげる。


「なんと。この地下岩窟に水の気配だと?」


 天井に水が集まり、今にも水滴が落ちてきそうだった。

 これが瀕死の口に入れば、末期の水となり、コレは死ぬ。


 しずくが一滴、熱く腫れた頬を打ち、飛び散った。それが二度、三度と続くが目を覚ます気配はない。頬の上で新たな雫を結んで、ついに唇へ注がれていった。 


 その一滴が、腫れ上がった厚い唇の上を滑って、床の砂塵に吸われた。


「バケモノ殿っ」


「爺。灯りをこっちによこせ。手足の向きを揃えろ。入口の方から足音がする。複数だ」

「なんと、あの兵士ども舞い戻ってきたか」


「俺がちゃんとコレを食ったかまでが奴らの仕事なんだろう。ちょっと脅かしたら逃げたんで、数を増やして改めて確かめに来る気だ。仕事に律儀なヤツは出世しねぇのによ」


 ジャイヴは牢扉を抜けると娘を優しく仰向けにし、折れ曲がった手足を揃えていく。まっすぐに寝かされた娘は、ちょうど死体保全処理エンバーミングされた遺体のように整然とした姿になった。


 俺は詠唱となえた。


〝かの者 暴虐の破壊 凶暴の蛮行により精道乱れり

 裂けたる肉 砕けたる骨

 あるべき形に戻らんと願うは

 これすなわち定命の精道なり

 陰陽闇光の精霊アルブムネグロアに命ず

 かの者に復癒の力を与えんことを〟

 

「まったく。教えたワシがいうのもなんだが、惚れぼれする精霊掌握だ。バケモノにしておくのは勿体ない律儀さよ」


 ジャイヴはぼやきながら、カンテラの中の蒼い明かりを吹き消した。


 ビリッ、ビリッ、ビビビッ。……クッチャ、クッチャ


「ん? バケモノ殿、ついに人の肉を食っておるのか」


「つまらん冗談に乗ってやる暇はねぇ。知らなくていい。兵士がコレに気づかなきゃ、こいつの天運はまだ残ってる。爺はさっさと消えてろ」



 二人で逃げた兵士が三本の松明になって戻ってきた。

「げぇ、でっか!?」

「王女がいない……なくなってる。たった四半時(三十分)で!?」 

「信じられねぇ、丸呑み、かよ」


「封印されたルシタニアの禁呪、魔狼ジルコシアス。伝説に違わぬ、恐ろしいバケモノだ」


 俺は努めて無視した。人の一生はたかだか五十年。ガキどもに千年狼である俺の何がわかる。


「おい、ルシア王女の着衣だけ吐き出してるぞ。あれを新王妃様にお見せするんだ」

「うえぇ。ここから剣の鞘でも届かねえぞ」


「お前、行ってこいよ」

「はぁ? お前が行けよ」

「お前ら、いい加減にしろ!」

「じゃあ、お前だ」二人が指差す。


 ……もう帰れよ


 寝たふりを決めこんでやると、ようやく一人の兵士が他の二人に押し出されるようにして鉄扉の錠を開け、入ってくる。俺の唾液が着いた布切れをつまみ上げ、そっと出ていく。一瞬、今度も脅かしてやろうかと思ったが、また珍妙な逃げ方をされても悔しいので見逃してやった。


 松明の赤い灯りが闇の彼方に消えると、入れ替わるように別の方から青いカンテラの明かりがやってくる。そういえば、この爺さん。いつからこの牢にいるんだっけ。


「バケモノ殿。どうやらその者の天運はまだ残っておったようだ」


 俺が毛躯をずらすと、下から裸の少女が寝息を立てていた。顔も腫れがひき、折れた鼻もまっすぐ元通りになっていた。裸であることに大した感慨はない。自分、狼なので。


「助けるつもりはなかった。……躯が勝手に動いただけだ。早く逃がしてやれよ」

「それもまた、その者が持つ天運であろうよ。ほっほっほっ」


 ジャイヴ爺が鉄格子を抜けようとすると、弾かれた。


「おっと。魔法磁場が……バケモノ殿、次はなんのお試しかな?」

「いや、俺は何もしてないが?」


 次の瞬間、牢内の床に白銀の魔法陣が浮かび上がり、その光の中に黒い巨狼の影が映った。


韶環しょうかん魔法っ。一体どこから!?」

「バケモノ殿。その娘ですっ」


 声の指すまま少女の裸身を見ると、背中に同じ魔法陣が浮かんでいた。


「爺、離れろ。この娘、非常脱出バックドア付きだっ。先にそれを言えよ、俺まで巻きこ――」


 牢屋を破る勢いで外に出ようとした時には、慣れ親しんだ闇は光に満たされていた。



「やれやれ。とんだ受難であったわ」


 ジャイヴ爺は、空になった房を眺めてひとつ嘆息すると、石床を叩く木靴の音が闇の奥へと進んでいく。


「〝天、我が材を生ずる、必ず用あり〟か。其許そこもとの天運もまた、残っておったらしいぞ、バケモノ殿」


   §


 ルシタニア王国アルカサス宮殿。

 王妃の執務室に獣臭が立ちこめ、側仕えのメイドが耐えきれずに部屋を出た。


「もうよい。下げよ」


 政務官の一人に前王ボサノヴァの娘の夜着だった物を任せ、退室させた。


「なかったわね」

「はっ?」


「血よ。丸呑みにしたにしては夜着が綺麗すぎるわ。飲み物じゃないんだから、喉の奥に嚥下するにも骨を噛み砕くなり、顎を動かさずに吸いこんだとは思えないじゃない」


「それは、たしかに」

「お前、いま認めたわね?」


「お、お言葉ながら、夜着を広げてみたところ、歯型と思われる穴が多数ございました」


「だから。血が出てなきゃおかしいじゃない。納得できないじゃない。夜着を脱がせて服だけを咀嚼そしゃくしたなら、中身の小娘はいまも無傷ってことじゃない?」


 恐れながらと、別の兵士が抗弁を試みた。


「王妃陛下、あのバケモノ以外に、牢には誰もおりませんでしたっ」


「なら、その魔狼が下に小娘を組み敷いて隠していたとしたら?」

「あの魔狼がっ……獣にそこまでの知恵があるとは」


「なら他に、四半刻で小娘が魔狼を懐柔できた方法か、消失した理由を考えなさいな。でなければお前たち、斬首クビよ」


「なんとご無体な!」

「控えよ。わたしは、新王妃エリゼッチであるぞ!」


 そこに伝令の騎士がドアの前で敬礼して入ってきた。


「失礼いたします。エリゼッチ王妃陛下にご注進申し上げます」


「よくってよ。その場で報告なさい」


「はっ。 ルシタニアの禁呪となっている地下岩窟牢内を調査したところ、魔狼ジルコシアスの房と思われる最奥の地下牢が、もぬけの殻になっているとの由」


「馬鹿なっ、魔狼があの地下牢から逃げただと!?」


 兵士は目をむいて叫んだが、伝令は王妃から目を離さず報告を続ける。


「なお、鉄格子のドアの鍵は施錠されたままで、如何いかように脱獄したかは現在調査中とのことです。以上です」


「わかったわ。退がりなさい」


 伝令がいなくなると、王妃エリゼッチはネズミをいたぶる猫の目で、兵士三人に微笑んだ。


「お前たちはわが命に背き、ルシア王女の死を見届けなかった。なら次にすることは、魔狼ジルコシアスを見つけ、ヤツの腹を引き裂いて腸臓はらわたから小娘の死体を引きずり出し、私の前に持ってくる。そうじゃない?」


「もういい加減にしないか。逃げた魔物と元王女を追いかけて、なんになる」


 椅子に腰掛けていた新国王バトゥカーダが妃をたしなめた。


「陛下。陛下は数年前、あのジルコシアスと天運を賭けた知恵比べに勝ったとか」


 王妃エリゼッチの指摘に、牢獄で魔狼に出くわした兵士たちはぎょっと目を見開いた。

 バトゥカーダは王妃の目を見ないように逸らし、うなずく。


「前国王から謀反のとがをかけられ、秘密裡にあの地下岩窟牢へ送られた。あの時はダメだと思ったが、魔狼に試され、結果として助けられた。運が良かっただけだ。余があの魔狼を庇っているわけではない。余はただ」


「ただ、あの時の恩に報いて、野に解き放たれた悪魔を見逃してやれ、そうおっしゃるの?」


「う、ううむ。余は新政権に向けて貴族たちとの会議がある。ルシア王女のことは王妃に任せてよいか」


「お任せください。陛下」


 新国王がドアへ向かうと、王妃エリゼッチもついていく。兵士三人に命じた。


「死体でかまわぬ。ルシア王女をもう一度、わたしの前につれてきなさい」



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