Glass

増田朋美

Glass

日本でも変な気候の日々が続いているが、おかしな日々が続いて居るのは日本だけではない。他の国でも大規模な洪水があったり、大地震があったりして、おかしなことになっているらしい。そんな中、比較的、災害の少ないと言われる、フランスのパリ市内では。

「あーあ、また食べないかあ。」

モーム家のトラーは大きなため息をついた。

「これではいつまで経っても、良くならないわ。」

確かにおかゆの乗ったお皿は、何も手をつけられていなかった。一緒にいた杉ちゃんまで、

「これじゃあ、いくら薬飲ませても、良くならないに決まってら。」

と、ぶすっと言った。

「一体さ、どうしたら良いのかしら。あたしたちが、いくら水穂に食べと食べろと励ましても、全然食べないじゃない。水穂が食べようと言う気持ちになって紅と、どうにもならないわよ。」

「そうだよなあ、トラコちゃんがいくら言い聞かせても、だめなんだよな。それはわかるけどさあ。」

杉ちゃんもトラーも困ってしまった。こういう介護しているときって、食べない本人のせいにできないのが、また辛いところでもあった。

「どうしたら良いものかねえ。何かうまく食べさせる方法はないものかなあ。ダジャレを言っておだててもダメだし、叱りつけても食べないからさ。無理やり、強制的に食べろと命令するのは、ちょっと困りますねえ。昔だったら、食べろと怒鳴ることもできたんだろうが、今は違うでしょ。」

杉ちゃんの言う通り、昔と今では時代が違っていた。昔はしごいてやる程度で良かったものが、今は人権無視とか、パワーハラスメントなどで、問題視されてしまうこともよくある。日本では、まだそういうところには甘いので、あまり騒がれることは無いが、ここでは大変なことになりかねない。だから、うんと気をつけないと、隣近所の人に通報されてしまうということも、なくはない。

「それならと言って、放置しておくわけにも行かないし。それに、薬だってちゃんと飲ませてるわけでしょ。少なくとも、ここでは日本と違って、水穂さんが、病院たらい回しにされることも、無いわけだからな。こっちへ来たのは、水穂さんのことを良くするためでもあるわけだし。」

「そうなのよね。あたしたちは、それを引き受けて水穂の世話をしているわけだから、ちゃんとしなくちゃいけないわ。そういう事、日本語では何ていうんだっけ。とにかくね、食べるってことがどれだけ大事なのか、わかってもらわないといけないんでしょうね。」

杉ちゃんとトラーが、そう話していると、モーム家の玄関のドアがガチャンと音を立てて開いた。ちょうどそこへ、トラーの幼なじみの、せんぽくんことチボーくんが、モーム家にやってきたのである。

「こんにちは。」

チボーくんは一応日本語でそう言ってみたが、誰からも返答は返ってこなかった。

「こんにちは。」

もう一度言ってみたけど、返事はない。

「あの、一応、買ってきましたけど。人参と玉葱、買ってきましたよ。」

チボーくんはそう言ってみても誰からも返事は来ないのだ。だから仕方なく日本語で、

「上がりますよ。」

と言って、モーム家の家の中へ入った。するとトラーと杉ちゃんが、食べ物の大切さを深刻な口調で話しているのが聞こえてきたので、なんだか重大事件が起きたんだなということは理解できた。

「それではどうしたら良いもんかなあ。ご飯を食べないと、何もできなくなっちまうぞ。」

杉ちゃんはそう言いながら、大きなため息をついたのであるが、それと同時に、チボーくんがやってきたのに気がついて、

「ああ、せんぽくんいつの間に来たんだよ。帰ってきたのがわからなかったよ。それにしてはなんだか辛そうな顔してるな。欧米人は思っていることを何でも口にするようだが、意外にそうでもないのかな?」

と言ったのであるが、チボーくんは杉ちゃんに向かって、

「そんな事言ってる場合じゃないですよ。それは困ったことじゃないですか。水穂さんがご飯を食べないというのは、大変な問題でもあるじゃないですか。」

と本当の気持ちを隠していった。

「そういうことなら、誰かに相談するとか、医療関係者とか、そういう人に相談しなければなりませんよね。水穂さん、このまま何も食べない状態が続いていたら、本当に、むこ、」

「それを言うのはやめて!」

チボーくんがそう言いかけると、トラーが強い口調で言った。それを言うのは本当に可哀想すぎると思ったのだろうか。それでも、彼女には水穂さんがこのままだとどうなってしまうか、言わなければと思ったチボーくんであったが、杉ちゃんに、

「トラコさんに、あんまり重いことは言わないほうが良い。」

と言われて、それ以上言うことはできなかった。

「日本人は肝心な事を言わないといいますが、意外にそうでも無いんですね。」

チボーくんは思わず言ってしまう。

「うるさいな、日本人であれ、どこの国の人間であれ、大事なことは言わなくちゃ行けないさ。だから何でも口に出してしまうというのは、どこの国でもやるさ。」

杉ちゃんは直ぐにチボーくんに言った。

「でも日本人は何も言わないで黙っているのが通例と言われてきましたよ、僕たち、学校では。」

チボーくんはまた言った。

「そんな偏見持たれちゃ困るなあ。どこのやつでも言うことは言うし、黙ってるときだってあるの。そんなもん、気にするほうが悪い。」

「はあよくわかりませんな。杉ちゃんと話すと、僕らが持っている日本人のイメージが全然違いますよ。」

杉ちゃんとチボーくんがそう言い合っていると、

「ふたりとも、変なことで喧嘩するのはやめて!」

とトラーに言われて、とりあえず二人は言い争いはここまでにした。それと同時に水穂さんが咳き込んでいるのが聞こえてきた。杉ちゃんとチボーくんが客用寝室に行ってみると、水穂さんがベッドに寝たままえらく咳き込んでいて、トラーが背中を擦ってやっていた。このときチボーくんは、思わず彼女のそばへ行くのをためらってしまった。なぜなら彼女が泣きそうな顔をして、水穂さんの背中を擦っていたからである。

「せんぽくん。」

杉ちゃんに言われて、チボーくんはハッとした。

「お湯を用意してくれないかな?水穂さんに薬飲ませたいから。」

「あ、ああ、ごめんなさい。」

チボーくんは直ぐにマグカップにお湯を入れた。冬の水道は直ぐ冷たくなってしまう。お湯を出すのはちょっと時間がかかった。本当は水を出してやりたいと一瞬だけ思ったのであるが、チボーくんはそれはできなかった。

「ほんじゃあよろしく頼む。」

杉ちゃんは水穂さんにマグカップを渡した。水穂さんはそれとトラーから渡された錠剤の薬を受け取って、ゆっくりと薬を飲んだ。

「薬は飲むんだよな。」

と、杉ちゃんが言う。

「でもその代わりに、ご飯を食べないんだよな。」

「そうねえ。本来であれば、薬よりご飯のほうが大事なんだけどね。」

トラーは杉ちゃんに続けていった。

「おう、トラコちゃん、良いこと言うじゃないか。そうそう。薬はあくまでも補助手段で、メインは食べ物じゃなくちゃいけないぞ。いくら薬のんだって、うまいもんをうまいうまいと言って食べないと、治る病気も治らないよ。」

杉ちゃんは大きなため息をついた。

「ねえ、水穂。」

トラーは、ベッドの上で寝たままの水穂さんに声をかけた。この有り様を見て、チボーくんは完全に彼女の心が自分のところではなくて、水穂さんの方へ行ってしまったのだと確信し、悲しい気持ちになった。

「本当に何も食べたくないの?」

水穂さんは、咳き込んだせいなのか、それとも薬のせいなのかよくわからないけれど、ぼんやりと天井を眺めていた。トラーがもう一度、

「本当に何も食べようと言う気にはならないの?」

と、もう一度尋ねる。

「もう水穂さんに聞くのはやめたほうが、」

チボーくんはそう言いかけたが、それと同時に、水穂さんがとても小さな声で、申し訳無さそうに、

「納豆。」

と言った。

「納豆が食べたい。」

「なっとうだって。」

トラーは水穂さんの話を繰り返した。

「そうですか。一度、日本へバイオリンの演奏旅行に行ったとき食べたことあるんですが、どうも腐らせた豆を食べるという感覚が、受け入れられないで食べれませんでしたよ。」

チボーくんは納豆についてそう説明したのであるが、

「そんなのどうでも良いわ!」

とトラーは言った。

「あなたにはまずいものであっても、水穂には何よりのごちそうなのよ。だから、なんとかして納豆を手に入れなくちゃ。どこへ行けば手に入るものかしら。」

「まあ、日本では、お店で普通に買えるものなんだけどさあ。でもこっちでは、めったに買えるものじゃないよ。それにあの匂いとネバネバがどうも苦手何だよ。」

「そんなことはどうでもいいのよ!水穂が食べたいっていうんだから、買ってくるべきでしょう!」

トラーがそう言うので、チボーくんは更に悲しくなった。納豆は、自分としてみれば、ひどくまずい食べ物で、とても他人にすすめられるようなものではなかった。

「だからあたし、すぐ買ってくるわ。水穂に食べさせてやりたいから。」

すぐ出かけようとするトラーに、

「ここでは納豆なんて売ってないんだよ。日本ではすぐ買えるけど、ここではそうじゃないってことを理解しなくちゃ。」

と、チボーくんは言ったのであるが、

「だったら、通販で取り寄せるとか、やり方は色々あるじゃないの。例えば百貨店とか、そういうところで買えるかどうか聞いてみる。やり方は色々あると思う。あたし、調べてみるわ。」

トラーは、スマートフォンを出して、納豆が売っているところを調べ始めた。トラーがそうやって、他人のために動いてくれるようになったというのは、ある意味では大変な進歩ということでもあるが、それが同じ民族ではなくて、遠くからやってきた日本人であるということに、チボーくんは悔しいというか、残念だというか、なんだか複雑な気持ちを抱いてしまうのだった。それは善なのか悪なのかよくわからないけど。

杉ちゃんは杉ちゃんで、もっと入手がし易いものをたのめとか、水穂さんに言っているが、水穂さんは、薬の成分に眠気を催すものが入っていたらしく、直ぐに静かに眠り始めてしまった。

「やれれ、これはだめだ。すみませんね。手に入らないものは欲しがるなと言い聞かせたつもりなんだけど。」

杉ちゃんはため息をついた。

「大丈夫。眠っている間に、納豆をどうやって入手したらいいか考えるから。それは気にしなくていいのよ。それより食べてもらうほうが大事だって言ったのはそっちでしょ。」

トラーは、更に調べ続けているようだ。このときチボーくんは、納豆というものは大変な入手困難なもので、パリで食べるには諦めたほうが良いと言うことを伝えることはしなかった。どうせ、彼女には、伝わらないということもよく知っていたし、これまでの付き合いで、彼女が、簡単に他人の話を聞く人ではないことも知っていた。それに彼女は、水を指すような発言をすると、直ぐに激怒する体質でもあった。それを病院の先生は、彼女が抱えている精神疾患の症状だと言っていたが、幼なじみのチボーくんは、これを一生続くものだと思っている。多分、彼女の性質として。

「あった!」

不意にトラーが甲高い声で言ったため、チボーくんはびっくりした。

「ここで納豆を作っているんですって。ここに頼めば、かわせてもらえるかもしれないわ!」

彼女はそう言って、スマートフォンの画面を見せた。たしかに納豆を製造して店頭で販売していると、そのウェブサイトには書いてある。その店はドラギニャンというところにあるらしい。なんでも日本で日本語を学んでいた人が、納豆にすっかり魅せられてしまい、フランスに持ち帰って、製造を始めたのだそうだ。ただチボーくんが良く読んでみると、品質保持のためドラギニャンにある店舗以外では販売していないということであった。

「あたし、今から行ってくるわ。電車で行けば直ぐ行けるでしょ。リヨン駅から行けば、すぐ行けるわ。」

もう行く支度を始めてしまっている彼女に、杉ちゃんまでもが僕も行くなんていい出すので、チボーくんはすっかり困ってしまった。

「そうだけど、バカも休み休みいいなよ。リヨン駅からドラギニャン駅までは本当に遠いんだよ。それに田舎だから、一日10本くらいしか、電車は走ってないし。今からリヨン駅まで行くのも大変だよ。」

そう言って止めようと試みるが、トラーは一度火がついたら、鎮火するのは非常に難しいこともチボーくんは知っていた。

「それでも良いわ!」

トラーは、甲高く言った。

「そうだけど、ドラギニャン駅までは、電車で5時間近くかかる。それに本数も一日10本くらいしか無い。」

チボーくんは改めてそう言うが、

「いやあ、それなら、身延線で富士から甲府まで行くのと同じくらいじゃないか。身延線だって、甲府まで行く電車は、一日13本しか無いよ。それと同じだから、僕らはなれてる。行ってこよう。」

杉ちゃんに邪魔されてしまった。

「そうよ。5時間もかかるんだったら、それでも良いわ。飛行機のほうが速いかもしれないけど、お金がかかるし、それなら、電車で行けばいいじゃない。だって何も無いわけでは無いでしょ。電車があるでしょうに。」

驚いてしまった。これまでここには何もないと嘆いていた彼女が、電車があると考えてしまうようになったのだから。その変わりぶりに、チボーくんは声も出ない。

「でもですね。こちらでは、電車というものはあまり重要視されないんですよ。それより利用するのは、飛行機ですからね。そっちのほうが、早く行けるんじゃないかな。そういうことなら、飛行機を予約取って行ったほうが。」

チボーくんはそう言うが、

「僕は歩けないけど、電車大好きだよ。」

杉ちゃんは言った。

「あたしも、田舎電車は嫌いではないわ。意外に高速電車より、のんびりしてて、良いかもしれないわよ。」

と、トラーも言うのである。

「しかし一日10本しか無いよ。」

チボーくんはそう言うが、

「それでもいいさ、せんぽくん。身延線だって、一日に付き13本しか走ってないし、それと大して変わらないでしょ。富士駅から甲府駅まで行くにはそれくらいかかるよ。それとおんなじであると考えれば、何も怖いことはない。行ってみよう。」

杉ちゃんに言われて、チボーくんは反論できなかった。日本にも一日10本くらいしか無いローカル線があったということは知らなかったのだ。日本人はのんびりしているように見えて実は気忙しい民族であり、電車の本数も一時間に29本くらいないといられないような民族であると思っていたから。

トラーは、カバンを持って、杉ちゃんと一緒にでかけてしまった。チボーくんはその場に残った。部屋の中には静かに眠っている水穂さんが居るだけだった。水穂さんは、たしかに静かに眠っている。確かに、水穂さんは、毎日激しく咳き込んで中身を吐き出すことを繰り返し、本当に辛いし、苦しいだろう。だけど、今どき、日本でも、治療することはできないものかと思う。杉ちゃんは、病院をたらい回しにされて、どこでも診察してもらえなかったというが、本当にそうなんだろうか。今はいろんないい薬だってあるはずだし、ショパンが生きていたときとはぜんぜん違うはずである。それに、日本は、最貧国とか、そういうところでも無いし、それなりに良い暮らしができるように保証されていると思うのだが、、、。違うのかなとチボーくんは思った。このショパンの生き写しのような美しい人は、日本で何を抱えて、人種差別をされてきたんだろうか?

不意に誰かが咳き込んでいる声がしてチボーくんは、後を振り向いた。

やっぱり咳き込んでいるのは、水穂さんであった。チボーくんは、水穂さんだいじょうぶですかと、声をかけたのであるが、水穂さんは、自分で枕元にあるマグカップを取ろうとして、床に落としてしまった。マグカップはとてもうるさい音を立てて割れた。チボーくんは急いで、別のグラスにお湯を注いで、水穂さんに渡そうとしたが、水道から出した水は冷たかった。なので、お湯が出てくるまで待ってと言おうとする前に、

「水で全く構いませんから、グラスいっぱいの水をください。」

と細い声で言われて、驚いてしまった。でも、流石にそうさせるわけには行かないと思ったので、

「冷たい水飲むと、余計に咳き込みますよ。」

とだけ言った。

「そんな資格、ありません。」

と水穂さんはそういうのであるが、

「水穂さんは、どうしてこっちに来て、療養しようと思ったんですか?」

とチボーくんは思わず言ってしまう。水穂さんはなにか言おうとしたが、咳き込んでしまうのに邪魔されて、言うことができなかった。チボーくんは、直ぐ飲んだほうが良いと思って、直ぐにお湯を入れたグラスを渡した。水穂さんは、それを受け取って、静かに薬と一緒にお湯を飲んだ。チボーくんは、それ以上水穂さんの素質やなにかを聞くことはやめておいたほうが良いと思った。それよりも先に言わなければならないと思って、

「水穂さん、本当に少しで良いですから、ご飯を食べてください。そうしないと、本当にね、大変なことになってしまうと思いますから。そうなったら、トラーも、杉ちゃんも困るでしょ。」

とだけ言っておいた。

「トラーさんのことは、もう大事な人が居るじゃありませんか。」

水穂さんは、静かに言った。チボーくんは、トラーを自分からむしり取ってしまおうという意志は、彼には無いのかなと、意外そうな顔で水穂さんを見た。

「これからも、幼なじみとして、トラーさんを頼みますね。きっと、彼女の支えになって上げることが大事なんだと思います。」

水穂さんはそうほほえみながら言った。でもまた咳き込んでしまいそれ以上言うことはできなかった。チボーくんは

「黙っていてくれていいですから、横になって眠ってください。日本人は黙っているのが、良いとされているわけですから、それは守ったほうが良いでしょう。」

と、涙をこらえていった。



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Glass 増田朋美 @masubuchi4996

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