第一夜 女子の平和を守るもの④
「願い事は……今のところ、特にないですね」
「なんと! お主には何か欲しい物はないのか!?」
「別に、ここにいたら衣食住は満足なので。大好きな
こぢんまりとした建物には居室が二つと物置部屋、そして小さな
「ならば権力はどうだ!? お主をこの国一番の妃にしてやろうぞ!」
「別に、一番になりたいとかは思っていません。今のままがいいです」
権力を握ったところで、
「ではせめて、邪魔な者、嫌いな者ぐらいはおるだろう? お主が望むなら、そやつらを今すぐこの世から消してやろうぞ」
そう言って精霊は悪そうな顔で笑ったが、ファリンは困ったように笑みを返した。
「そりゃあ嫌いな人ぐらいはいますけど……別に、消したいほどではないというか」
いくら嫌いだからといって、死んでしまえとまでは思えなかった。もしそんな選択をしてしまったら、良心の
「なんだと!? 困るではないか! 一度呼び出された以上、もうお主とは契約が結ばれてしまったのだ。お主ら百人の子孫の願いを叶えねば、吾輩は自由になれぬのだぞ!?」
「そうなんですか? 大変ですね。……って、そもそも精霊様って、強大な力を持っているんですよね。それがなぜ、油燈の中なんかに……」
ファリンが目を丸くしつつ問うと、子トラは何やら気まずそうな顔をする。
「そこはまぁ、若気の至りで少々やりすぎてなぁ……我が君にお𠮟りを受け、
「若気の至り……ですか?」
ファリンが首をかしげると、子トラはその丸っこい頭を重々しく縦に振った。
「うむ。愚かなる人間どもが水不足で困ると嘆いておったから、三日三晩たぁっぷりと雨を降らせて、全部流してやったのだ」
「ぜ、全部!?」
この国の建物は、炎で焼成せず太陽光のみで干し固めた、日干し煉瓦
「そんな、
「いや、酷いのは人間どもの方だぞ。我が
そこで言葉を切ると、精霊様はフフンと鼻で
「贄というのはなんとも酷い話ですけれど……でもその村には、彼女の大切な人もいたのではないでしょうか。やっぱり……」
やりすぎですよ、と言いかけて、ファリンは続く言葉を
「まあちょっと、自分でも頭に血が上ってやりすぎたなぁと、反省はしておる。だからこうして、あの娘の弟……お前の祖なる者の手で、油燈に封印されてやったのだ」
確かに各地に残る精霊の伝承といえば、大半が
「そんな
「どういうことだ!?」
「さっき、百人の子孫とおっしゃったでしょう? つまり願いを叶えて私との契約が切れたら、他の子孫の願いを叶えに行こうとするのではありませんか?」
「
「では無理です。義父たちの手に渡らないように、ずっとここに居てもらわなければ」
そう静かに言い切りファリンが意地の悪い笑みを浮かべると、バァブルと名乗った精霊は先ほどまでの偉そうな態度から一変し、情けない声で嘆いた。
「なんと冷酷なるおなごであろう、あの心優しき姉弟の子孫とはとても思えん! 自分の願いを捨てるほど、お主は家族のことが嫌いなのか!?」
「まぁ、おっしゃる通りです」
確かに殺したいほどではないけれど、やはり嫌いには違いない。ファリンが片頰を上げつつ肩を
「なんと、無情な……」
その姿に少しだけ同情しかけたが、あの義父や義妹の願い事なんてきっとロクなものではないだろう。神話によると、精霊は『
祖母はそれを見越して、油燈を託してくれたのだろうか──などと考えていると。
「アーファリーン妃様、どなたかいらっしゃるのですか?」
不意に部屋付の侍女の声が聞こえて、ファリンは慌てて入口の方を振り向いた。この部屋の入口に扉はないが、代わりに目隠し用に厚めの垂幕が下がっている。声はその向こうからで、幸い中は見られていないようだ。
「ごめん、猫に向かってひとりごと言ってたの!」
「猫、でございますか?」
「そう、迷い込んじゃったみたいで!」
「左様でございましたか……あの、第三妃デルカシュ様がいらっしゃったのですが、いかがいたしましょう?」
侍女は少し迷ったようだが、上級妃を待たせる方が良くないと考えたのだろう。特に謹慎中に訪ねて来たということは、皇帝から特別な許可を得ているはずだ。
「分かった。応接室に入っていただいて、高脚の方の
「かしこまりました」
困惑しつつも職務に忠実な侍女の気配は去って行く。ファリンはそれを確認すると、慌てて子トラの方を振り向いた。
「すみません、私ちょっと行ってきますね!」
「なにっ、ならば
義父の願いを
「えっと……では
「仕方ないにゃあ」
自称精霊様はそう言うと、ファリンに向かって飛びついた。
「わっ!」
フワフワの塊を慌てて受け止めると、それはスルリと器用に腕の中で丸まった。そのまま猫(仮)は入口の方へ、無言のままクイッとアゴをしゃくってみせる。これは黙っていてやるから早く行け、ということだろうか。ファリンは苦笑しながら大きな毛玉をしっかり抱え直すと、垂幕をめくって寝室を出た。二つの居室をつなぐ短い廊下を数歩ゆき、応接室の方の垂幕をくぐる。
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