第一夜 女子の平和を守るもの③

 ──最初は細心の注意を払って取材していたのに、『慣れ』って本当に恐ろしい。推しに目がくらむあまり、あんな深い場所まで追いかけてしまったなんて。

 ファリンはこれまでの自らの行いを反省すると、深くため息をついた。どんな裁定が下されるのかとおびえては、うかつな行動を反省してばかりの状況は、やはりこの謹慎自体が処分の一環ということだろう。

 とはいえ、ヴィラはろうごくでもなんでもなく、今日も快適そのものだ。バームダード帝国は、国土の大半が乾いた砂の大地で覆われている。その日中の気温は、人の体温をはるかに超えるものだ。だが現皇帝の力によって急速に近代化が進んでいるこの宮殿には、素晴らしいものがある。西方から招いた技師が開発した『れいふうせん』という冷たい風を起こす機械が、数年前から全館に配備されているのだ。

 風通しを最優先で造られたヴィラの窓には、硝子ガラスなどの覆いはない。代わりに防犯用の鉄格子がはまっているのだが、その窓のうち一つの下に、冷風扇は置かれていた。四枚の扇が円形に並んだそれは『エレキ』という見えない力でくるくる回り、自動で風を起こしてくれる。さらに下部の水盆を満たしておけば多層の濾紙フイルタが水を吸い上げ、通過した風を気化熱で冷やすという仕組みだった。極度に乾燥したこの国で、ひんやりとして湿気を含む風の気持ちの良さは、この上ないものだ。

 ファリンは頭髪をかき上げるようにして両手の指を差し込むと、髪の間に冷風を通した。ずっとカツラをかぶっていた頃はできなかったことだが、これがまた、何ともいえず気持ち良い。これら機械類の動力として使われるエレキは、『燃水ナプトウ』と呼ばれる油を燃やして作られる。この燃水、西方では希少で高価な資源らしいが、この砂漠の地下からは豊富に産出するので使い放題なのだ。

 この素晴らしい環境での生活が続いたおかげで、あの痛いほど真っ赤だった日焼けは、すっかり落ち着いていた。元の肌はこんなに白かったのかと、自分でも驚くほどだ。

「皆優しいし、こんなに快適で良いところなのに……呪われた後宮だなんて噂が流れていたのはなんでだろ。もしかして、皇位をさんだつせんとする大宰相の陰謀とか!?」

 ファリンは妄想混じりの独り言をもらすと、フカフカと毛足の整ったじゆうたんの上を、ごろりとひとつ転がった。謹慎中なのに態度が悪いと思われるかもしれないが、ここ後宮で友人に会えないという状況は、とにかくヒマで仕方がないのだ。

 いつも侍女たちが綺麗に整えてくれているヴィラは、どの部屋も掃除し直す隙もないほどピカピカだ。それにいくらに許可が下りたとはいっても、さすがに今は『物語』を書く気もおきない。寝転がったままぼんやり部屋を眺めていると、ふと、棚に飾りっぱなしになっていた古びたオイルランプが目にとまった。

「そういえばこれの本当の使い方って、結局なんだったんだろう……」

 この油燈は後宮へ向かう前夜、祖母から託されたものだ。

 あの家では嫌なことも多かったけれど、それでも、幼い頃の楽しかった思い出も残っていた。別れの言葉と共に目を潤ませるファリンに、祖母は鈍く光る油燈を差し出した。

『守ってあげられなくてごめんなさい。だからせめて、これを貴女に託すわ。ロシャナク族がこの過酷な土地で繁栄を続けられたのは、このとうの力があってのことなのよ。これがきっと、かの恐ろしい後宮でも貴女を守ってくれるわ。これが今のわたしにできる、ただ一つの抵抗よ……』

 貧しい家の出の祖母は、そのはかなげなぼうを見初められて族長の妻となった。だがその後ろ盾のない生まれから、夫どころか息子にすら強く出られなかったのだ。

『この油燈の……力?』

 思いがけないせんべつに目を丸くしながら受け取ると、祖母は神妙な面持ちでうなずいた。

『ええ。実はこれは、普通の油燈ではないの。これの本当の使い方はね──』

『おばあさまっ! また義姉ねえさんなんかを呼んでコソコソと、何してたのよ!?』

 突然、部屋へ飛び込むように現れたシリンバヌーに話を中断されて、祖母は困ったように笑みを浮かべた。

『明日嫁いでゆくファリンにね、形見分けをしていたの』

『なによ、義姉さんばっかりズルい! あたしだってもうすぐ結婚するんだから、あたしにも形見、ちょうだい!』

『……わかったわ』

 祖母はどこか憂いを帯びた笑みで、近くにあった手箱の中から輝く黄金の腕輪を取り出した。腕輪の周りには、立派な赤い宝石が三つ並べてめ込まれている。

『シリンバヌー、貴女あなたにはこれをあげましょう。ずっと欲しがっていたでしょう?』

『やった! フフッ、あたしはこんなに大きな宝石のついた腕輪をもらったわよ? それにひきかえ義姉さんのったら、そんな小汚い油燈だなんて……とってもお似合いじゃない? ほら、話はもう終わったんだから、さっさとソレ持って行きましょ!』

 シリンは満足そうに笑ったが、ファリンがこの後、祖母から追加で何か与えられることだけは阻んでおきたかったのだろう。祖母に礼を言おうとするファリンの腕に強引に自分の腕を絡めて、有無を言わさず部屋から引っ張り出した。だから『本当の使い方』が何なのか、ファリンには結局分からずじまいだったのだ。

 あれからじっくり観察もしてみたが、結局何が特別なのかは分からなかった。色は金だが黄金製ならこんなにくすむことはないから、しんちゆう製だろうか。やはり普通の油燈にしか見えないけれど、せっかく祖母がくれたのだから、お手入れぐらいしておこう。

 侍女を呼んで磨き布を借り、棚から油燈を持ち上げる。そして外面を強めにこすった──その時。油燈から細長く伸びたしんけつを通り、モクモクと白い煙が立ちのぼった。

「えっ、なんで!?」

 慌てるファリンをよそに煙はぎゅっと凝縮して小さな塊になると、白毛にしまがらの猫の姿を形作る。だがまるで子猫のようなフワフワの見た目とは裏腹に、その大きさは一抱えほどもありそうだ。

 ポカンと眺めていると、実体化した白縞猫は手近な背当てクツシヨンの上にぴょんと着地する。そして腰を下ろしてふんぞり返ると、偉そうにヒゲをピクピクさせつつ口を開いた。

「善なりし者アルミーンの子孫、アーファリーン!」

「は、はいっ!」

 アルミーンという名に聞き覚えはなかった。だがまだ名乗っていない自分の本名を呼ばれ、ファリンはとっさに返事をしてしまった後で、ハッと身構える。

「おぬしの願いを、一つだけかなえてやろう。さあ、言ってみたまえ。わがはいの力で出来ることならば、何でも叶えてしんぜようぞ」

「ていうか猫が、しゃべってる!」

 思わず驚きを口に出すと、猫(?)は不機嫌そうに顔をゆがめた。

「吾輩は猫ではない。虎である! そしてその正体は、水の女神のけんぞくしんにして偉大なる精霊ジン、バァブル様なるぞ!」

 ──虎って、確か猫っぽい猛獣のことかな。いちおう本で見たことはあるけど、実物は知らないからなぁ……。

 ファリンは理解が追いつかず、困り果てて首をかしげた。今はいないが、大昔はこの砂漠にも虎というどうもうな肉食獣が住んでいたらしい。でもこのフカフカの毛玉は、とてもじゃないがそうは見えなかった。だが言われてみれば猫にしては耳も顔もまん丸で、四本の足はずんぐり太い。そもそも猫でも虎でも動物がしやべるなんて聞いたことがないけれど、神話の精霊だというなら頷ける。だがまさか、精霊が実在していたとは。

 この地域で語り継がれる神話によると、かつてここは水の女神が治める豊かな緑の大地だったらしい。だが弟である砂漠の神の横暴に嫌気がさした女神は、地中深くの楽園に隠れてしまった。以来この地は一面の砂漠に覆われたが、地上を心配した女神が時折顔をのぞかせるたび、そこにオアシスができたという。

 今では緑の大地の面影などないに等しいが、博物学者だったファリンの父によると、史跡にその裏づけがあるらしい。この地の砂岩に刻まれた古代人の壁画には、豊かな緑とそこに住まう多様な動物が描かれているというのだ。

『神話の成立過程には、その地の気候風土が密接に関係しているんだよ』

 そう言った父は神様なんて信じていそうになかったが、精霊が実在していると知ったら、一体どんな顔をするだろう。ファリンは父すら未知の存在に思わずワクワクしたが、急に現れて願いを言えだなどと言われても、正直困惑してしまう。

「ええと、ちょっと話が見えないんですけど……」

「なんでもよい、早く願いを言いたまえ!」

 偉そうな態度のわりになぜかソワソワと落ち着きのない自称精霊様を前に、ファリンはしばし頭をひねって考えたが。

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