第一夜 女子の平和を守るもの①

 が下りるまでとファリンに言い渡された謹慎は、あれからもう九日目を数えていた。いつも即断即決の皇帝がこれほど結論を引っ張るなど珍しいことだが、自分のヴィラから一歩も出られない状態そのものが、罰ということだろうか。

 広大な宮殿の敷地内で、後宮ハレムにある建物は一つではない。メインとなる大きな棟を取り囲むように『ヴィラ』と呼ばれるごく小さな別棟が、妃一名につき一棟ずつ用意されている。とはいえ通路を挟んでほぼ隣接するように建てられているから、お互いの行き来は簡単だ。初めは『ずっと一人ぼっちだったらどうしよう』と心配していたファリンだが、実際の後宮は優しい人も多くて、むのはすぐだった。

 あれはファリンの入宮から半年ほどが経った頃のこと──ことの始まりは、何気ない雑談だった。目隠し用の薄いヴエールが張り巡らされた部屋の中心に敷かれている、柔らかな絹製の絨毯フアルシユ。その上に、このヴィラの主である第十七妃レイリが座り込んでいた。

 ヴィラが隣という理由からなんとなく仲良くなったレイリは北部にある山脈に近い地域出身で、小柄な身体に小動物のように愛らしい顔立ちを持っている。だが彼女は容姿に似合わぬ深刻そうな表情を浮かべると、重々しく口を開いた。

『ねぇねぇ、あのお二方って……あやしいと思わない?』

 暇な午後のひとときをダラダラと過ごしていたファリンは、干した棗椰子デーツまみ上げる手を止めて、首をかしげた。

『お二方って?』

『そんなの決まってるじゃない。皇帝陛下と、内小姓頭のサイード様よ!』

『あやしいって、何が……』

 まだ理解が追いついていないファリンに、レイリはひざうえで綿入りの背当てクツシヨンを抱きしめながら興奮気味に畳みかけた。

『恋よ、恋!』

『こ、恋!? 陛下とサイード様が!?』

 大きな背当てにもたれるように座っていたファリンは、あまりの驚きにポロリと棗椰子を取り落とす。するとレイリは耳元で二つにくくったふわふわの黒髪を力強く縦に振ってから、いつもは丸いひとみをきゅっと細めて口を開いた。

『そうよ。だって他にも内小姓はたくさんいるのに、陛下ったらいつもお忙しいはずのサイード様ばかり連れていらっしゃるし……それに、たまにサイード様のことをすーっごく優しい目をして見つめていらっしゃるんだもの! あんなまなし、わたしたち妃に向けられたことなんて、ただの一度もないんじゃない!?』

『それは単に、貴女あなたに興味がないってだけじゃないの?』

 そうほんのり冷たい声音で言ったのは、第十八妃のアーラだ。絨毯にひじをついて寝そべったまま、レイリに涼しい目を向ける。東方との国境に接する交易都市出身であるアーラには、東方の血が混じっているのだろう。切れ長の目とうらやましいほどにサラサラの黒髪を持つ彼女は、レイリの向こう隣のヴィラの主だ。歳も近いこの二人とは、よく一緒に暇をつぶす仲間だった。

『なっ、なによ! アーラこそ、そんな風に陛下に見つめられたことあるの!?』

『な、ないけど……』

『ほら! やっぱり、お二方はデキているのよ!!』

『さすがにそれは、論理が飛躍しすぎじゃないかなぁ……』

 ファリンはあきれ顔でツッコんだが、それでもレイリはキラキラとした瞳で力説した。

『でもでも、本当にそうだったら素敵じゃない?』

『え、素敵なの!?』

『そうよ! 妃のうちの誰かが特別なちようあいを受けたというならしつしちゃいそうだけど……本命がサイード様なら、許せちゃう。むしろ、推せる』

『お、推せる!?』

『確かに……それは推せるわね。あのいつも女に淡泊な陛下が、情熱的に愛をささやくところ……見てみたーい!!』

 キャーッと黄色い声を上げ、乙女たちは胸元で両の指を組んだ。つい先ほどまで冷めたことを言っていたアーラも、この一瞬でレイリに感化されてしまったらしい。

 すでに二十名を超えた妃たちのうちでも特に年若い者たちには、この三人と同じように、まだ一度もとぎの声がかかったことのない者も多かった。そしてレイリが言うように、皇帝は後宮にたくさんの女を集めているにもかかわらず、誰か特定の妃を寵愛する素振りを見せなかったのだ。

 もちろん夜伽役としてのお気に入りは上級妃を中心として何名かはいるのだが、その妃たちからも、全然心を開いてもらえないと嘆く声ばかりが上がっていた。そもそも上級妃だの下級妃だのという非公式な呼び方を決めているのは『入宮の早さ』その一点のみという、まさかの完全年功序列制なのだ。妃たちの実家は、全てどこかの族長シークの家柄……つまり有力者揃いなので、特定の家に権勢を与えすぎないための策なのだろうか。

 そんな皇帝は妃たちから、淡泊だの冷徹だの、だがそこが良いだのと、「女子会」のネタとしていつも陰で好き放題言われているのだ。

 しかしいつもの雑談も、その日は少しばかりおもむきが違っていた。皇帝とその側近との恋物語は、後宮に閉じこもりきりで退屈している下級妃たちの、格好のじきとなった。そんなレイリとアーラの情熱に最初は少々引き気味だったファリンだが、友人たちとの恋愛話は思った以上に楽しくて、気づけば前のめりで参加するようになっていたのだ。

 そこでファリンは連日の女子会で挙がった三人の妄想を、せっかくなので記録してみることにした。手始めに短い話を書き付けた紙を何枚か集めて、糸でじ合わせて小冊子にしてみたところ──いつの間にか、後宮全体にその冊子が出回ってしまったのだ。

『ちょっと、これは私たちだけの秘密だって言ったじゃない! 誰よ、お姉さま方に回しちゃったの!』

 いつものレイリの部屋に集まるなり、ファリンがじろりと共犯者たちを見まわすと、レイリとアーラは少しだけ居心地の悪そうな顔をして、口を開いた。

『わっ、わたしは、確かにデルカシュ様にちょっとだけ見せたけど、ここだけの話だってちゃんと言っておいたんだから!』

『私も、確かにバハーミーン様にだけちょっと貸したけど、ちゃんと秘密だってお願いはしていたし……』

 ──少し考えたら、分かることだった。誰もが暇を持て余し、刺激に飢えた者ばかりの後宮で、『ここだけの秘密』なんて何の意味も成さなかったんだ!

 ファリンは後悔したが、ご機嫌を損ねたら即首が飛ぶなどという事前情報とは全く違い、本物の皇帝は意外と普通、いや、とても寛大なかただった。どちらかというと冷徹でかなり合理的な性格のようだが、やたらと決断が早い部分がれつに見えるのだろうか。とはいえ、こんなものが広がって、もし陛下ご本人の目に触れてしまったらさすがにマズい──そう結論づけたファリンたちは、もう二度と妄想の証拠は残さないでおこうと決意して、冊子を封印したのだった。

 しかし、そのわずか数日後。ファリンとアーラがいつものようにレイリのヴィラをたまり場にして、ダラダラしていたときのこと。侍女から上級妃たちが訪ねて来たと告げられて、ファリンたちはぎょっとして顔を見合わせた。相手は上級妃なのだから、通常であれば呼び出しの使いがやってきて、こちらからヴィラまで伺うべきところだ。それがわざわざ向こうから訪ねてくるなんて、一体どんな用件なのだろう。

 三人揃ってビクビクしながら出迎えると、そこにいたのは第二妃マハスティと、同じ派閥の第七妃ロクサーナだった。

 実はこの後宮に住まう第二妃以下の妃たちは皆、皇帝と正式な婚姻を結んでいない側室だ。つまり正妃は不在という状況で、その役割を実質代行しているのが後宮の最も古株である第二妃マハスティだった。

 彼女は存在感のある長身だが女性らしさを損なわぬたおやかな肢体に、つやめく黒髪をいつもすっきりと結い上げている。さらに後宮一と名高いぼうの持ち主ともなれば、謁見の間で皇帝の隣にはべる存在として、彼女以上に相応ふさわしい者はいないだろう。そんな第二妃は後宮全ての妃たちを束ねる存在でもあったが、だからこそ、下級妃のヴィラを自ら訪れるなど普通であればありえない。だがマハスティはニッコリと美しい笑みを浮かべると、自らの頰にゆるく手を当てて口を開いた。

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