前夜 砂かぶり姫、後宮へゆく③
義父の説教で時間を取られてしまったが、午前の仕事をなんとか間に合わせ、ファリンは
ようやく自室に着いて一息つくと、靴を脱いで擦り切れた
ファリンは布を抱えて薄い絨毯に座り込むと、こつこつと細かな刺繡の続きを刺し始めた。この高価な色糸をふんだんに使った刺繡布は、この国伝統の婚礼衣装に使われる。本来ならば、花嫁が自ら一針ずつ想いを込めて準備するものだ。だがこれはファリンのものではない。刺繡を面倒がった義妹のシリンバヌーが、押しつけて行ったのだ。
「ねぇ、ちょっと、まだできてないの!? ほんっとグズなんだから!」
そう
だからといって一度も言葉を交わしたことのない相手になど、ファリンには何の未練もなかったが──よりにもよって義妹とその元
思い返してげんなりしつつ、それでもファリンは顔を上げ、無難な策を提案した。
「急いでいるの? なら縁取りの
「ダメよ! 簡単な文様になんてしたら、このあたしが出来の悪い娘だと思われちゃうじゃない! 砂漠の勇者カムラン様の花嫁としてふさわしい装いをしなきゃ、向こうの
──その簡単な文様すら、
なんて言ってやりたいところだが、下手に反論しようものなら、また父親にあることないこと言いつけて、面倒事を増やしてくれるだけだろう。義父は母だけでなく祖父のことも『娘を甘やかしすぎだ』と言って嫌っていた。だが実は似た者親子なのだということに、気づいていないのだろうか。内心でため息をついていると、いつものようにジロジロと部屋の中を
「あら、そのキレイな箱! まだそんな良い物を隠してたのね!」
──しまった、見つかった!
彼女はずかずかと部屋の奥まで入り込んでくると、刺繡糸が入った手箱を持ち上げた。
「これ、あたしにちょうだい? こんなに豪華な
『砂かぶり』とは、義妹がファリンにつけたあだ名だ。みな黒髪ばかりの部族の中で、西方人を父に持つファリンの髪は一人だけ乾いた砂によく似た色をしていたからだ。
──もっとも父さまの髪は、とても
「待って! 糸を整理する箱がないと、効率が悪くなるわ。完成が遅れてもいいの?」
この東方渡りの美しい細工箱は、母がとても気に入っていたものだ。だから隠しておいたのに──なんとか奪われまいと反論したが、義妹は鼻で笑ってみせる。
「なによ、分かってるわよ。オバさんのお古ばかりでカワイソウな
義妹は中身をバサッと床にぶちまけると、箱だけ抱えてさっと身を翻すように部屋を出て行った。
──どうしよう。母さまが帰ってきて知ったら、きっと悲しませてしまう……!
と、そこまで考えて、ファリンは
だがそんなある日、事態は突然大きく動き出した。ファリンがいつものように厨房で野菜くずを集めていると、母屋の方が騒然とし始めた。
「ねぇ、何かあったのかい?」
そわそわと落ち着かない様子で母屋から戻ってきた女中を、厨房係たちが取り囲む。女中はもったいぶるように
「それがねぇ、成人したなら皇帝陛下の後宮へ上がれって、シリンお嬢さんに宮殿から使いが来たんだってさ」
「ええっ、でももう再来月には、カムランさまが婿入りなさるんだろう?」
「それがさ、後宮入りってのは
「まああ! でもさ、人質とは言っても皇帝陛下のお
この近隣の部族の男子には、成人の儀を行う決まりがある。単独で砂漠へ狩りに出て、大物を仕留めてようやく一人前と認められるのだ。とはいえ近年その風習は
つまり族長の娘の婿がねとしては、この上ない物件なのだ。だがあくまでも、族長たちの間の話である。その頂点を極めた皇帝の妃ともなれば、たとえ正妃でなくとも権勢の違いなど
「でもねぇ、その後宮……実は呪われてるって噂なんだよ!」
「呪いだって!?」
いつの間にか厨房中の皆が作業の手を止めて、話し手である女中の方へと顔を向けている。女中は鬼気迫る表情で辺りを見回して、重々しく口を開いた。
「……ああ、呪いさ。さきの統一戦争で、皇帝に反発した部族の者たちゃたくさん首を斬られちまっただろう? その呪いでねぇ、あの後宮は妃やお子に不幸がたえないんだってさ。しかもそれは表向きの話で、本当は血に飢えた暴君みずから夜な夜な気に入らない妃の首を
この砂漠の大帝国が誕生するまでには、
その時、母屋の方から慌ただしく走る音がして、怒鳴るような義父の声が響いた。
「おいっ、ファリン! アーファリーンはどこだ!」
ファリンは仕方なく立ち上がると、慌てて持ち場に戻ろうとする女中達の流れを
「はい、ここにおります」
「わざわざここまでメス猫の娘を育ててやったかいがあったというものだ。恩に着ろよ、アーファリーン。特別にお前を、名誉ある皇帝陛下の妃にしてやろう!」
「それって……私に、シリンの代わりに後宮へゆけということですか?」
「なんだ、もう知っておったのか。この家を出られて、お前も
「でも身代わりなんて、
思わず声を上げたファリンの頭によぎっていたのは、実は罰への恐怖ではなく『この家で、どうか良い子で待っていてね』という母の言葉だった。だが後宮に送られてしまったら、もうその言いつけを守ることができない。
「なんだ、お前ごときに可愛いシリンの身代わりが務まるわけないだろう! ちゃんと使者どのにかけあって、妹の娘を送ることで了承いただいとるわ」
だが
「砂漠一の
以降、後宮入りの準備が大急ぎで進められ──ファリンは義父の言うなりに、義妹のために
宮殿から届いた支度金の半分にも満たない、最低限の嫁入り道具。それ以外の持ち物はといえば、父が残した多くの蔵書と、祖母から託された古びた
こうして嫁いだファリンが初めて顔を合わせた皇帝は、玉座からこちらを
「なんだ、砂漠一の美姫の娘を差し出すというから期待していたが、ただの
◇ ◇ ◇
「──こうして私は、
ファリンは惨めすぎる部分の描写を適度に
「なるほど、カツラの理由については、まあ納得できなくもないものだ。だがそれだけでは妃が後宮を抜け出して、ここで我らの話を盗み聞きしていた理由にはならん」
「お、おっしゃるとおりです……」
サイードに至近距離から
せっかく、ようやく、安住の地を見つけたと思えたところだったのに。
──私の人生、終わった……。
目の前が真っ暗になって、ファリンは思わずその場にうずくまった。だが右の手首は、
「どうしても口を割らぬというのなら、マハスティ妃にも話を聞かねばならないな」
「そんな、マハスティ様のお名前は、とっさに
「やはり、その反応。わざわざ
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