前夜 砂かぶり姫、後宮へゆく③

 義父の説教で時間を取られてしまったが、午前の仕事をなんとか間に合わせ、ファリンはちゆうぼうに駆け込んだ。残り物の麺麭パンをひと切れもらってから、別棟にある自室へと向かう。じりじりと照りつける太陽から真っ赤に焼きらした顔をかばうようにショールをかぶり直すと、ファリンは屋根の下へ足を急がせた。この地に住まう皆より肌が日差しに弱いのは、西方人である父に似たせいだろう。

 ようやく自室に着いて一息つくと、靴を脱いで擦り切れたじゆうたんに足を下ろした。傷んだ床のくぼみにつまずかないよう狭い部屋を進み、奥に片づけていたかごふたを持ち上げる。そして大きな赤い絹地と、手箱に入った色とりどりのしゆういとを取り出した。

 ファリンは布を抱えて薄い絨毯に座り込むと、こつこつと細かな刺繡の続きを刺し始めた。この高価な色糸をふんだんに使った刺繡布は、この国伝統の婚礼衣装に使われる。本来ならば、花嫁が自ら一針ずつ想いを込めて準備するものだ。だがこれはファリンのものではない。刺繡を面倒がった義妹のシリンバヌーが、押しつけて行ったのだ。

「ねぇ、ちょっと、まだできてないの!? ほんっとグズなんだから!」

 そうののしりながら部屋に入ってきたのは、件の義妹こと、シリンだった。ファリンより半年ほど遅く義父の一人娘として生まれた彼女は、この国の成人である十五になったその年、近隣の部族から婿を迎えることになった。それも元々は祖父がファリンのためにまとめて来た縁談だったが、祖父の死後、気づけば義妹のものになっていた。

 だからといって一度も言葉を交わしたことのない相手になど、ファリンには何の未練もなかったが──よりにもよって義妹とその元許婚いいなずけの婚礼のための花嫁衣装まで代わりに刺繡する破目になるとは、こつけいにも程があるだろう。

 思い返してげんなりしつつ、それでもファリンは顔を上げ、無難な策を提案した。

「急いでいるの? なら縁取りのもんようをもっと簡素なものに変更すれば……」

「ダメよ! 簡単な文様になんてしたら、このあたしが出来の悪い娘だと思われちゃうじゃない! 砂漠の勇者カムラン様の花嫁としてふさわしい装いをしなきゃ、向こうのおんなしゆうにナメられちゃうわ!」

 ──その簡単な文様すら、貴女あなたは一人で仕上げられないんでしょ?

 なんて言ってやりたいところだが、下手に反論しようものなら、また父親にあることないこと言いつけて、面倒事を増やしてくれるだけだろう。義父は母だけでなく祖父のことも『娘を甘やかしすぎだ』と言って嫌っていた。だが実は似た者親子なのだということに、気づいていないのだろうか。内心でため息をついていると、いつものようにジロジロと部屋の中をぶつしよくしていた義妹がファリンの傍らで目をとめた。

「あら、そのキレイな箱! まだそんな良い物を隠してたのね!」

 ──しまった、見つかった!

 彼女はずかずかと部屋の奥まで入り込んでくると、刺繡糸が入った手箱を持ち上げた。

「これ、あたしにちょうだい? こんなに豪華なでんざいなんかにはもったいないわ!」

『砂かぶり』とは、義妹がファリンにつけたあだ名だ。みな黒髪ばかりの部族の中で、西方人を父に持つファリンの髪は一人だけ乾いた砂によく似た色をしていたからだ。

 ──もっとも父さまの髪は、とてもれい金色ブロンドだったのだけれど……。

「待って! 糸を整理する箱がないと、効率が悪くなるわ。完成が遅れてもいいの?」

 この東方渡りの美しい細工箱は、母がとても気に入っていたものだ。だから隠しておいたのに──なんとか奪われまいと反論したが、義妹は鼻で笑ってみせる。

「なによ、分かってるわよ。オバさんのお古ばかりでカワイソウな義姉ねえさんには、後で新しいものをめぐんであげる。ありがたく思いなさいよね!」

 義妹は中身をバサッと床にぶちまけると、箱だけ抱えてさっと身を翻すように部屋を出て行った。

 ──どうしよう。母さまが帰ってきて知ったら、きっと悲しませてしまう……!

 と、そこまで考えて、ファリンはちようした。もうとっくにあきらめたと思っていたのに、いつか両親が迎えに来てくれると、まだ心の奥で信じていたなんて──。


 だがそんなある日、事態は突然大きく動き出した。ファリンがいつものように厨房で野菜くずを集めていると、母屋の方が騒然とし始めた。

「ねぇ、何かあったのかい?」

 そわそわと落ち着かない様子で母屋から戻ってきた女中を、厨房係たちが取り囲む。女中はもったいぶるようにくちもとに手を添えると、声をひそめて言った。

「それがねぇ、成人したなら皇帝陛下の後宮へ上がれって、シリンお嬢さんに宮殿から使いが来たんだってさ」

「ええっ、でももう再来月には、カムランさまが婿入りなさるんだろう?」

「それがさ、後宮入りってのはていのいい言い訳で、実情は人質なんだってさ。皇帝さまは有力部族のおさの娘を、年頃になったら片っ端から差し出させてるらしいのよ」

「まああ! でもさ、人質とは言っても皇帝陛下のおきさきさまにゃあ変わりないんだろ? いくらお相手があの砂漠の勇者カムランさまでもさ、こんな小さな部族の次期族長の妻なんかより、ずうっと名誉なことじゃないのかい?」

 この近隣の部族の男子には、成人の儀を行う決まりがある。単独で砂漠へ狩りに出て、大物を仕留めてようやく一人前と認められるのだ。とはいえ近年その風習はけいがい化していて、今では形ばかりの小動物を捕まえて終える者も少なくない。そんな中でカムランは砂漠のとも呼ばれる肉食獣を仕留めることに成功し、勇者と呼ばれていた。

 つまり族長の娘の婿がねとしては、この上ない物件なのだ。だがあくまでも、族長たちの間の話である。その頂点を極めた皇帝の妃ともなれば、たとえ正妃でなくとも権勢の違いなどいちもくりようぜんのはずだ。

「でもねぇ、その後宮……実は呪われてるって噂なんだよ!」

「呪いだって!?」

 いつの間にか厨房中の皆が作業の手を止めて、話し手である女中の方へと顔を向けている。女中は鬼気迫る表情で辺りを見回して、重々しく口を開いた。

「……ああ、呪いさ。さきの統一戦争で、皇帝に反発した部族の者たちゃたくさん首を斬られちまっただろう? その呪いでねぇ、あの後宮は妃やお子に不幸がたえないんだってさ。しかもそれは表向きの話で、本当は血に飢えた暴君みずから夜な夜な気に入らない妃の首をねてるって噂もあってさぁ……シリンお嬢さんはたいそう怖がっちまって、さっきから泣き叫んで大変なんだよぅ」

 この砂漠の大帝国が誕生するまでには、数多あまたの血が流れていた。ゆえに、各地に根深いこんが残っているのだ。

 その時、母屋の方から慌ただしく走る音がして、怒鳴るような義父の声が響いた。

「おいっ、ファリン! アーファリーンはどこだ!」

 ファリンは仕方なく立ち上がると、慌てて持ち場に戻ろうとする女中達の流れをき分け、厨房の出口をくぐる。

「はい、ここにおります」

 こたえたファリンの顔を見るなり、義父はわらいながら言った。

「わざわざここまでメス猫の娘を育ててやったかいがあったというものだ。恩に着ろよ、アーファリーン。特別にお前を、名誉ある皇帝陛下の妃にしてやろう!」

「それって……私に、シリンの代わりに後宮へゆけということですか?」

「なんだ、もう知っておったのか。この家を出られて、お前もうれしいだろう?」

「でも身代わりなんて、けんしたらどんな罰が下されるか」

 思わず声を上げたファリンの頭によぎっていたのは、実は罰への恐怖ではなく『この家で、どうか良い子で待っていてね』という母の言葉だった。だが後宮に送られてしまったら、もうその言いつけを守ることができない。

「なんだ、お前ごときに可愛いシリンの身代わりが務まるわけないだろう! ちゃんと使者どのにかけあって、妹の娘を送ることで了承いただいとるわ」

 だがはんばくもむなしく、すでに外堀は埋められていた。なんの後ろ盾もない小娘なんかの主張では、族長の決定はひっくり返せないだろう。諦めたファリンが黙り込むと、義父は腕組みしつつ義娘むすめの全身をジロジロと値踏みするように眺めた。ファリンのぱさぱさとみすぼらしい淡茶の髪に目をとめると、忌々しげにまゆをひそめる。極度に乾いたこの地では、豊かでみずみずしい黒髪を持つことが美人の条件とされているのだ。

「砂漠一のの娘を差し出すと言ったものの、このザマではなぁ。ひとまずカツラでも作らせてみるか。その小汚い髪さえ隠せば、少しはマシになるかもしれん」


 以降、後宮入りの準備が大急ぎで進められ──ファリンは義父の言うなりに、義妹のためにしゆうしていた婚礼衣装を自らまとった。柔らかな赤い絹地はせいな刺繡と金の縁飾りに彩られ、何よりも美しく仕上がっている。だが鏡をのぞいても、何の感慨も生まれない。義父が用意した母によく似た黒髪のカツラをかぶせられ、赤ら顔を隠せと真っ白になるまで白粉おしろいを塗りたくられた姿は、まるで他人のようだった。

 宮殿から届いた支度金の半分にも満たない、最低限の嫁入り道具。それ以外の持ち物はといえば、父が残した多くの蔵書と、祖母から託された古びた油燈ランプひとつだけ──。

 こうして嫁いだファリンが初めて顔を合わせた皇帝は、玉座からこちらをいちべつするなり、大して興味もなさそうに言い放った。

「なんだ、砂漠一の美姫の娘を差し出すというから期待していたが、ただのせぎすの子どもではないか。……まあ良い。部屋と、あと適当に菓子でも与えてやれ」


    ◇ ◇ ◇


「──こうして私は、義妹いもうとの代わりに後宮へ参ることになりました。しかし野蛮な西方人をほう彿ふつとさせるこの髪色は見苦しいから隠しておくようにと言われ、あの黒髪のカツラを被せられたのでございます」

 ファリンは惨めすぎる部分の描写を適度に省略カツトしつつ、さらっと一通りの説明を終えて平伏した。もっとも宮殿では多様な地域から人材が登用されていて、砂色なんて特に珍しくもない髪色だったのだが……陛下をだましたと思われるのが怖くて、言い出す時機タイミングを逃していたのだ。

「なるほど、カツラの理由については、まあ納得できなくもないものだ。だがそれだけでは妃が後宮を抜け出して、ここで我らの話を盗み聞きしていた理由にはならん」

「お、おっしゃるとおりです……」

 サイードに至近距離からにらまれて、ファリンは首をすくめた。だがここにいた本当の理由なんて、口が裂けても言えるわけがない。『このまま二人を見守る壁になりたい……』なんて、なぜ軽く考えてしまっていたのだろうか。

 せっかく、ようやく、安住の地を見つけたと思えたところだったのに。

 ──私の人生、終わった……。

 目の前が真っ暗になって、ファリンは思わずその場にうずくまった。だが右の手首は、いまだしっかりとサイードにつかまれたままだ。彼は黙り込んでしまったファリンの耳元に顔を近づけると、低く言い含めるような声音で言った。

「どうしても口を割らぬというのなら、マハスティ妃にも話を聞かねばならないな」

「そんな、マハスティ様のお名前は、とっさにまかせで口にしただけで……!」

 はじかれたように見上げると、彼はいっそうけんのしわを深めてみせる。

「やはり、その反応。わざわざかばおうとするなどと、マハスティ妃もこの件に一枚んでいる可能性が高いな。やましいことがないのなら、何でも弁明出来るはずだろう? では戻ろうか、後宮へ」

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