前夜 砂かぶり姫、後宮へゆく②
あれは、二年前の春のこと。すでに酷暑の季節を迎えた砂漠の朝は、まだ涼やかな夜明け前から始まっていた。
「本当に、一人で大丈夫かい?」
「うん、平気! もう十五になったしね」
心配そうな顔をする家畜番のおかみさんに笑顔を返すと、ファリンは大きな
屋敷と同じ砂色の日干し
ここは砂漠の中ほどにある、とある大きなオアシス──ファリンが生まれたのは、このオアシスの街を拠点として辺り一帯を預かる有力部族ロシャナクの、
この砂漠の街々は古くは都市国家群とも呼ばれ、それぞれ独立した部族が治める小国がひしめき合い、長らく小競り合いを続けていた。それをたったの十年足らずで一つの大帝国にまとめ上げたのが、初代にして今の皇帝アルサラーンである。
自称先見の明があった祖父の英断──実際には自陣深くまで切り込んで来たアルサラーンの
ファリンが黙々と次の飼い葉を詰めていると、厩舎の奥から
「やあお嬢さん、今日も気持ちの良い朝で。後はオレがやっておきますよ」
「おはよう。でもこっちはもう少しで終わるから大丈夫よ」
「いいから、ファリンお嬢さんは少し働きすぎですよ」
そう言って、青年は
「おい、小娘! また使用人に
不意に飛んできた現族長の怒号に、ファリンは肩を震わせる。すると同じく首を
今のファリンの戸籍上の義父は、祖父の跡を継ぎ族長となった、この
ファリンの母アナーヒターには、もともと部族のために定められた
だが実情をいえば、ファリンの父が持つ地下資源の探査技術は、今の砂漠の民にとって大きな利益をもたらすものだった。つまりこの婚姻には技術者を街に引き留めるという思惑もあったわけだが、
「まったく、メス猫の娘はすぐ男を
義父はそう忌々しげに吐き捨てると、ファリンへの、そして使用人たちへの愚痴を次々と並べ立て始めた。昼までに終わらせるよう言い付けられた仕事は、まだ山のようにある。あまり長いお説教になると、また昼食をもらい損ねてしまいそうだ。
ファリンが内心で
「このグズが、ちゃんとオレの話を聞ぐ……っ!」
だが罵倒の途中で突然、義父は熊のような
「お嬢さん、早くこっちへ!」
厩舎から小さく呼ぶ声がして急いで中に駆け込むと、ファリンは厩番に頭を下げた。
「ありがとう。私のせいで仕事の邪魔をしてしまって……ごめんなさい」
「いやいや、オレが不用意に声をかけたせいですいません。でもアナーヒターさまとご夫君さまがここにおられさえすれば、お嬢さんもこんなご苦労なさるこたぁないでしょうに。早くお戻りになるといいですねぇ」
厩番に同情の
ファリンが七つの頃のこと。この砂漠と西方諸国との間に戦争が起き、父ロードリックは『不毛な争いを止める』などと大それたことを言って家を出た。ところが今生の別れのような言葉も残して行ったものだから、よく言えば情熱的、悪く言えば衝動的なところのある母は、思い詰めたような顔でファリンに告げた。
『あなたの父さまは、平和のために犠牲になろうとしているわ。だからあまり無茶しないように、そばで支えたいの。全てが終わったら、必ず二人で迎えに来る。だからこの家で、どうか良い子で待っていてね』
大人たちの事情なんてよく分からなかったファリンが、思わずコクリと
実のところ、父の出奔には予感があった。遠い異国で生まれ、学者でもあった父は、この大陸の万物を記した博物図鑑を作りたいと見果てぬ夢を語っていた。その姿に、いずれ訪れる別れも覚悟していたのだろう。だがまさか、ずっと一緒だと信じていた母にまで置いて行かれてしまうなんて。
たとえどんな事情があろうとも、母が選んだのは『娘』ではなく『夫』だった──その事実は、まだ幼いファリンの心に大きな影を落とした。
二人の出奔後、ファリンは族長である祖父の屋敷に引き取られた。その暮らしは裕福である一方で、どこか窮屈なものだった。母が娘時代に過ごした部屋と衣類を与えられ、いなくなった娘の身代わりを祖父に望まれたからだ。それから間もなく戦争は終結したが、両親は一向に戻らない。その不安と寂しさで、ファリンは夜になるたび声を殺して泣いた。しかし笑顔を望む祖父に気を遣い、涙を見せることはできなかった。
だがそんな暮らしも、四年足らずで終わりを告げる。それまで健康そのものと思われていた祖父が急に頭が痛いと言い出したかと思うと、帰らぬ人となったのだ。
それを悲しむ
取り上げられずに済んだのは、父が残した大量の蔵書と使い込まれた研究ノートだけ──それも祖母が『どうか捨てないであげて』と必死に懇願してくれていなければ、価値の分からぬ伯父に全て処分されていただろう。
こうして母屋を出たファリンは祖母と共に離れで暮らすことになったが、一族のご意見番たる老人に強く言い含められた伯父は、後見人のいなくなったファリンを渋々ながら
以来ファリンは『家族のために働くのは当然だ』と言う自称『家族』から無給でこき使われる、使用人にすら
とはいえファリンも、唯々諾々とこの境遇を受け入れてきたわけではない。『こんな侮られてばかりの暮らしはもう嫌だ!』と、一人で生きるすべを考えたこともある。だがこの砂漠の小さな交易都市で、身寄りのない女が一人で食べてゆく方法なんて、ただ一つ。まだ十二、三の少女に、路地に立つ勇気が持てるはずもなかった。
せめて自分が男だったなら、行商の下働きにでも紛れて両親を追って西を目指せたのだろうか。オアシスを出てゆく隊商を見送りながら、ただここで『良い子』にして待つしかないのだと、自分を押し込めざるをえなかったのだ。
『ちゃんと良い子にしてるのに、なんで、むかえに来てくれないの……?』
薄い肌掛けにくるまり砂漠の夜の寒さに震えつつ、何度、そう泣いただろう。
だが状況が変わることはなく──やがてファリンは、期待するのをやめたのだった。
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