前夜 砂かぶり姫、後宮へゆく②

 あれは、二年前の春のこと。すでに酷暑の季節を迎えた砂漠の朝は、まだ涼やかな夜明け前から始まっていた。

「本当に、一人で大丈夫かい?」

「うん、平気! もう十五になったしね」

 心配そうな顔をする家畜番のおかみさんに笑顔を返すと、ファリンは大きなみずがめを抱えて立ち上がった。ずっしり重たい瓶を満たすのは、たった今おかみさんと手分けしてしぼったばかりの、山羊やぎの乳だ。ふらつく足を一歩、また一歩と踏みしめて、なんとか無事に大瓶をちゆうぼうへ運び込むと、ファリンは休む間もなく野菜くずがいっぱい入ったかごを受け取り、屋敷の横手にあるきゆうしやへと向かった。

 屋敷と同じ砂色の日干しれんの厩舎にいたのは、何頭かの、そしてラクたちだ。飼料おけから古いくずき出すと、新しい飼い葉と野菜くずを桶いっぱいに詰めてゆく。すると待ちきれないと言わんばかりに、長い鼻面がファリンを押しのけた。

 ここは砂漠の中ほどにある、とある大きなオアシス──ファリンが生まれたのは、このオアシスの街を拠点として辺り一帯を預かる有力部族ロシャナクの、族長シークの家だ。

 この砂漠の街々は古くは都市国家群とも呼ばれ、それぞれ独立した部族が治める小国がひしめき合い、長らく小競り合いを続けていた。それをたったの十年足らずで一つの大帝国にまとめ上げたのが、初代にして今の皇帝アルサラーンである。

 自称先見の明があった祖父の英断──実際には自陣深くまで切り込んで来たアルサラーンのように、おじづいただけのようだが──によって早々に降伏し皇帝のに入ったロシャナク族は、この覇道による被害は最小限で済んでいた。さらに東西交易の要衝にあるこの街は、砂漠を行き交う隊商キヤラバンたちでいつも大いににぎわっている。そんな豊かな街の族長の孫として生まれたファリンは、幼い頃は何不自由なく育った。だが両親が七つで姿を消し、そして代わりに後見してくれた祖父をも十一の年にうしなってからは、毎日大人の使用人と同じ時間に寝起きして、働きづめの生活を送っているのだ。

 ファリンが黙々と次の飼い葉を詰めていると、厩舎の奥からうまやばんの青年が顔を出した。

「やあお嬢さん、今日も気持ちの良い朝で。後はオレがやっておきますよ」

「おはよう。でもこっちはもう少しで終わるから大丈夫よ」

「いいから、ファリンお嬢さんは少し働きすぎですよ」

 そう言って、青年はぼくとつとした笑みを浮かべた。使用人たちの中にはファリンの境遇を憐れんで、こうして手を差し伸べてくれる人もいる。けれど──。

「おい、小娘! また使用人にいろを使って手抜きしようとしているな!? まったく、血は争えんというものだ!」

 不意に飛んできた現族長の怒号に、ファリンは肩を震わせる。すると同じく首をすくめた青年は、そそくさと厩舎の奥へ引っ込んだ。その姿は薄情にも見えるが、下手にかばえばファリンの立場がより悪くなるということを、知った上での行動だろう。

 今のファリンの戸籍上の義父は、祖父の跡を継ぎ族長となった、この伯父おじベフナームということになっている。だが『砂漠一の』などと呼ばれ、親からできあいされて育ったファリンの母を昔から嫌っていた義父は、その娘も疎ましく思っているらしい。

 ファリンの母アナーヒターには、もともと部族のために定められた許婚いいなずけがいた。だがオアシスに滞在していた西方人との間に、未婚でファリンをごもってしまったのだ。祖父も初めは激怒したが、『結婚を許してもらえないなら出て行く!』という訴えに、簡単に折れてしまったらしい。だが正反対に跡継ぎとして厳しく育てられていた義父は、妹との扱いの差を不公平だと、ずっと苦々しく思っていたようだ。

 だが実情をいえば、ファリンの父が持つ地下資源の探査技術は、今の砂漠の民にとって大きな利益をもたらすものだった。つまりこの婚姻には技術者を街に引き留めるという思惑もあったわけだが、しつで曇った義父のまなこには、ただわがままが許されただけに見えたのだろう。とはいえ母の無邪気な大恋愛が周囲に迷惑をかけたのは、確かなのだ。

「まったく、メス猫の娘はすぐ男をたぶらかそうとするから、油断できんわ!」

 義父はそう忌々しげに吐き捨てると、ファリンへの、そして使用人たちへの愚痴を次々と並べ立て始めた。昼までに終わらせるよう言い付けられた仕事は、まだ山のようにある。あまり長いお説教になると、また昼食をもらい損ねてしまいそうだ。

 ファリンが内心でためいきをついていると、あたりに細かな砂を含む風が吹き始めた。空はたちまち黄色くけぶり息をするのもつらいほどで、ファリンは頭に掛けていたけの被衣シヨールの端を手に取ると、くちもとを覆うように搔き寄せた。粗末な布など貫くように、熱い砂が打ち付ける。だが対するファリンの心は、すっかり凍てついていた。どんなとうも、砂嵐も、じっと耐えていればいつかは終わるのだ。

「このグズが、ちゃんとオレの話を聞ぐ……っ!」

 だが罵倒の途中で突然、義父は熊のようなひげづらをしかめて黙り込む。砂をんでしまったのか、自慢の髭に絡んだ砂を忌々しげに払いながらおもの方へ去って行った。

「お嬢さん、早くこっちへ!」

 厩舎から小さく呼ぶ声がして急いで中に駆け込むと、ファリンは厩番に頭を下げた。

「ありがとう。私のせいで仕事の邪魔をしてしまって……ごめんなさい」

「いやいや、オレが不用意に声をかけたせいですいません。でもアナーヒターさまとご夫君さまがここにおられさえすれば、お嬢さんもこんなご苦労なさるこたぁないでしょうに。早くお戻りになるといいですねぇ」

 厩番に同情のまなしを向けられて、ファリンはどこか困ったような笑みを返した。

 ファリンが七つの頃のこと。この砂漠と西方諸国との間に戦争が起き、父ロードリックは『不毛な争いを止める』などと大それたことを言って家を出た。ところが今生の別れのような言葉も残して行ったものだから、よく言えば情熱的、悪く言えば衝動的なところのある母は、思い詰めたような顔でファリンに告げた。

『あなたの父さまは、平和のために犠牲になろうとしているわ。だからあまり無茶しないように、そばで支えたいの。全てが終わったら、必ず二人で迎えに来る。だからこの家で、どうか良い子で待っていてね』

 大人たちの事情なんてよく分からなかったファリンが、思わずコクリとうなずくと──そのまま母は、砂漠にかかるあさもやの向こうに姿を消した。

 実のところ、父の出奔には予感があった。遠い異国で生まれ、学者でもあった父は、この大陸の万物を記した博物図鑑を作りたいと見果てぬ夢を語っていた。その姿に、いずれ訪れる別れも覚悟していたのだろう。だがまさか、ずっと一緒だと信じていた母にまで置いて行かれてしまうなんて。

 たとえどんな事情があろうとも、母が選んだのは『娘』ではなく『夫』だった──その事実は、まだ幼いファリンの心に大きな影を落とした。

 二人の出奔後、ファリンは族長である祖父の屋敷に引き取られた。その暮らしは裕福である一方で、どこか窮屈なものだった。母が娘時代に過ごした部屋と衣類を与えられ、いなくなった娘の身代わりを祖父に望まれたからだ。それから間もなく戦争は終結したが、両親は一向に戻らない。その不安と寂しさで、ファリンは夜になるたび声を殺して泣いた。しかし笑顔を望む祖父に気を遣い、涙を見せることはできなかった。

 だがそんな暮らしも、四年足らずで終わりを告げる。それまで健康そのものと思われていた祖父が急に頭が痛いと言い出したかと思うと、帰らぬ人となったのだ。

 それを悲しむいとまもないうちに、新族長を継いだ伯父一家が母屋へと押しかけた。伯父はファリンから母の思い出が詰まった部屋を取り上げると、そのまま自分の娘シリンバヌーに与えた。調度品はもちろん、衣類や装飾品の数々も『族長の財産を貸してやっていただけだ』と、全て彼女のものになった。

 取り上げられずに済んだのは、父が残した大量の蔵書と使い込まれた研究ノートだけ──それも祖母が『どうか捨てないであげて』と必死に懇願してくれていなければ、価値の分からぬ伯父に全て処分されていただろう。

 こうして母屋を出たファリンは祖母と共に離れで暮らすことになったが、一族のご意見番たる老人に強く言い含められた伯父は、後見人のいなくなったファリンを渋々ながら義娘むすめとした。だが間もなくくだんのご老人が亡くなったとたん、放置していたファリンの前に現れて、使用人たちが住まう別棟へ移るように命じたのだ。

 以来ファリンは『家族のために働くのは当然だ』と言う自称『家族』から無給でこき使われる、使用人にすらあわれまれる存在となった。

 とはいえファリンも、唯々諾々とこの境遇を受け入れてきたわけではない。『こんな侮られてばかりの暮らしはもう嫌だ!』と、一人で生きるすべを考えたこともある。だがこの砂漠の小さな交易都市で、身寄りのない女が一人で食べてゆく方法なんて、ただ一つ。まだ十二、三の少女に、路地に立つ勇気が持てるはずもなかった。

 せめて自分が男だったなら、行商の下働きにでも紛れて両親を追って西を目指せたのだろうか。オアシスを出てゆく隊商を見送りながら、ただここで『良い子』にして待つしかないのだと、自分を押し込めざるをえなかったのだ。

『ちゃんと良い子にしてるのに、なんで、むかえに来てくれないの……?』

 薄い肌掛けにくるまり砂漠の夜の寒さに震えつつ、何度、そう泣いただろう。

 だが状況が変わることはなく──やがてファリンは、期待するのをやめたのだった。

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