金沙後宮の千夜一夜 砂漠の姫は謎と踊る

干野ワニ/角川文庫 キャラクター文芸

前夜 砂かぶり姫、後宮へゆく①

──これは、ヤクトクすぎる!

 ファリンは薄絹ヴエールの陰から二人の姿をのぞき見ると、神に感謝の祈りをささげた。

 ここは謁見のの奥に用意された、最も高貴な人物のための休息所である。目隠しのように張り巡らされた薄絹の向こうにおわすのは、この国の皇帝アルサラーン。そのかたわらにはべるのは、皇帝の片腕とも称されるうちしようがしらのサイードだ。

 大陸の中央に広がる砂漠地帯。その全域を擁するバームダード帝国を治める皇帝は、身の丈六尺五寸(二メートル近く)の偉丈夫である。ひとたび戦となれば自ら敵将の首を狩り、常に返り血にまみれた若き覇王を、人々は征服王フアーテイフと呼んだ。そんなの権化たる皇帝は、だが今は──なめらかな絹の絨毯フアルシユひじをつき、ゆったりくつろいでいるようだった。彼の長い黒髪も、背後へさらりと流すように広げられている。

 一方でかたひざをつき何かを報告しているサイードは、今日も長身そうに白いお仕着せ(制服)をきっちり着こなしている。だが内小姓頭は戦場においても常に主君のそばり、その身をもって盾となる存在だ。その禁欲的なたてえりの下は、きっと鋼のように鍛え抜かれているのだろう。

 内小姓とは、謁見の間や皇帝の私室などがある『ないてい』、そしてきさきたちの住まう『後宮ハレム』で貴人の側に仕える少年たちの総称で、採用基準は『頭脳めいせき、身体頑健、かつ容姿端麗なる者』とされている。彼らはいずれ、政務をつかさどる『がいてい』で働く官吏や、皇帝直属軍の士官となる道が約束されている、いわば選ばれし者たちの集団だ。

 そんな内小姓たちを導く長たる内小姓頭は、こくをも預かる、つまり代理決裁権を持つほど皇帝から信任を得た存在だった。そのような要職に、彼が弱冠二十歳でばつてきされたのには理由わけがある。それは皇帝によく似たせいかんぼうと、癖の少ない黒髪──こちらは短めだが──が血縁であることを物語るように、サイードは皇帝の姉の息子、つまりおいであるからだ。だがファリンには、それだけがちようようの理由だとは思えなかった。

 ──いつも威厳に満ちた皇帝陛下が、こんな風にくつろぐこともあるなんて!

 その理由は、深く考えるまでもない。きっと今ここが、唯一心許せる相手と二人きりの場所だから……。かつて何度もした情景シーンが、現実として目の前に広がっている。こんな状況、こっそり垣間かいまたいと思うなという方が、無理な話ではないか。

 ファリンは優美にひだを描く薄絹の陰にうずくまったまま、二人の姿を少しでも鮮明に脳裏へ焼きつけようと重なった布地の隙間から凝視した。やがて斜めに伸ばした首の痛みが、限界に達した頃。ファリンはようやく満ち足りて、きしむ身体をゆっくりと起こした。乾いたまなこをそっと閉じれば、二人の姿がしっかりと刻み込まれている。

 ──今回のは、もう充分かな。何より、とっても良いものが見られたし!

 ニマニマとゆるむ頰に手を当てて、ほうっ、とため息をついた瞬間──深すぎた吐息が、薄いとばりをかすかに揺らす。ファリンは慌てて息を止めたが、仕事のできる秘書兼護衛はわずかな気配も見逃さず──薄布を切り裂くように、鋭い声が飛んだ。

「誰だ!?」

 ファリンは逃げることも忘れて、ぼうぜんと声の方を見た。断じて悪気はない。とはいえ、皇帝とその腹心の会話を盗み聞きしていた事実がバレたら、弁明の余地がない。

 ──ついで拝める事態に舞い上がって、なんてことしてしまったんだろう!

 今さら強い後悔が押し寄せて、ざぁっと血の気が引いてゆく。瞬時に駆け寄ってきたサイードが目の前の帳をけたかと思うと、ファリンの右手首をひねり上げた。

「いっ!」

 思わず苦痛の声を上げたが、サイードは構わず問いかける。

「そのお仕着せは内小姓だな!? 所属と名を言え!」

 見上げた先にはり上がってなお形の良いまゆと、疑心に燃える黒曜石のひとみがある。だがその美しさにれる余裕なんて、あろうはずもなく──彼とよく似た白い上下を着ていたファリンは、とっさに外で名を問われたとき用の言い訳を口にした。

「ぼぼ、僕は、第二妃マハスティ様付で、名はアフシンと申します!」

「第二妃の? 見覚えの無い顔だが……たばかるならば、ただではすまさんぞ!」

 怒りに満ちた声が響き、捻り上げる手に一層の力が込められる。この様子では、どうあがいても言い逃れはできそうにない。ならばあまり粘っては、いつも取材に協力してくれるマハスティにも迷惑をかけてしまうだろう。ファリンは観念すると、本当の名と身分を明かすことにした。

「私はロシャナク族のアーファリーン。偉大なる皇帝陛下、第十六の妃にございます。本当に、申し訳ございませんでしたーっ!!」

 アーファリーンことファリンは手首をつかみ上げられたまま、精一杯頭を下げる。すると手首は変わらずガッシリ拘束されたままだが、捻る方の力がわずかに緩んだ。

「お前……いや、貴女あなたが妃、だと!? 陛下、如何いかがでございましょうか?」

「アーファリーンという名には、余も聞き覚えがある。だが、かの第十六妃は顔を覆わんばかりの豊かな黒髪だった気がするが」

 奥でくつろいだ姿のままいぶかしげに答えた皇帝の視線は、ファリンの持つ砂色の髪へとそそがれている。砂漠の民には珍しいあわい茶髪は肩にも届かぬ長さで揃えられ、この国の女性としてはありえないぐらいの短髪だ。化粧もしていないし、顔を合わせたことすらほとんどない皇帝が分からなくても無理はないだろう。

 だがあるじの証言に色めき立ったサイードは、再び声を荒らげた。

「お前っ、やはり偽物かッ!」

「お、お待ちください! 私は本当にアーファリーンで、黒髪の方がカツラなんです!」

「仮に本当に妃本人だとしても、わざわざ外見を偽るなどと……初めから、ちようほうを目的に入宮したということではないか!?」

「ちっ、違います! あのカツラには、事情があるんです……」

 こうして弁明を始めたファリンは、後宮ハレムに来るまでの日々に、思いをせた──。

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