イン・ザ(・ブロッサム)・ムード

有明 榮

And you will be the leader of a big old band.(Johnny B. Goode/Chuck Berry)

 桜の季節になると、私は彼を思い出す――私は、尋ねてきたテレビ局の記者にそう言った。

 もう半世紀近くも前の話になるだろうか。


    *


 昭和二十年、四月。飛行場の周りに植えられた桜の花は、多くがじれったそうに蕾のまま枝先に止まっていた。夜の見回りのために基地の外を歩いていた私は、桜の木の下に寝転んでいる人影を見た。飛行服を着ているその人物の顔には、見覚えがあった。


「入間少尉、明日は早朝に出撃だぞ。早く宿舎で休みたまえ」

「解ってますよ、三浦中尉。だからこうしてここにいるんじゃないですか」


 部隊編成にあたって顔を合わせた時と、少尉は少しも変わらぬ表情をしていた。それが明朝飛ぶという決意によるものなのか、はたまた運命に対する諦めか、何も飛行隊員としての自覚がないのか、私には解りかねた。少なくとも私は、このように間の抜けた顔でコックピットに乗り込むことはない。


「……神雷部隊の全滅を聞いて、岡村大佐は少数での出撃計画を立てたそうだ。今度こそ、敵軍に大損害を与えてやるという腹積もりだ。戦果を期待しているぞ」

「別に激励みたいなものは要りません。辞令を受けた時に覚悟は決まっていましたから」


「最後の夜だから貴官の言い分も多少は聞いてやるが、少尉、その態度は前線においては相応しくないな。そして、その小脇に抱えたモノもだ」


 少尉は、隊長の恩情で持ち込みを許されていたそれを、私に見せつけるように掲げて見せた。月あかりを受けて、大きく湾曲したその楽器は鈍く光っていた。


「サキソフォンがですか?」

「『先曲がり尺八』と呼べ。敵性語は軍では厳罰だぞ。大和魂に無駄な傷をつけるな」

「言葉で全てが決まるなら、漢語由来の言葉にまみれた軍の中で話をするのは、だいぶ至難の業になりそうですね」


 そうはぐらかした少尉の隣に、私は腰を下ろした。死ぬと決まった時こそ、軍人は最後まで毅然としているべきであると、一式陸攻で飛び立った上官は言っていた。それとは対照的な彼の態度が、私を苛立たせた。


「……なあ、入間。お前はなぜ、特攻を受け入れた」


「国のため……というと嘘になります。私は私のために死ぬ。私が桜花の操縦桿を握る理由はただ一つです。戦場でいつか死ぬのなら、はじめから死期を知っていた方が良いじゃないですか。明日は朝日とともに散るのみです」


「軍人にあるまじき利己主義者だな」


「私にとっては誉め言葉ですね。赤紙一枚で東京から鹿児島まで連れてこられた。それに、ジャズは敵性音楽だといって警察が目を光らせている。全て奪われたんだから、死に場所くらい自分で選びたいもんです」


「貴官はなぜ、その……ジャズとやらを始めたんだ」


「三年くらい前、ジャズが敵国音楽認定される前に、捕虜収容所で見たんですよ、やってるのを。自由に、おのおの即興で演奏を始めるんです。ドラムが演奏を始めると、それにサキソフォンや、トランペットや、トロンボーンが加わって掛け合いをやっている。曲自体はあるみたいですが、自分たちで色々変えて演奏してるんです。平安貴族の歌会みたいなものでしょうかね」


「敵国の音楽にかどわかされたか」と私が鼻で笑うと、少尉はそうかもしれませんね、と肩を竦めた。


「武器を取り合うよりは、楽器を取り合ったほうが、ずっと解決に近いはずなのにな、って思いますね。月並みかもしれませんが」


 理想論者だな、と私が笑うのを、少尉は止めなかった。彼は体を起こして、愛おしそうに『先曲がり尺八』を手の中で弄んだ。私に言わせれば、戦争は国家どうしの利害が話し合いでどうしても解決できないから生じることである。この大東亜戦争も、帝国を帝国として守るために始めたものだ。


「武器を取らざるを得ない情勢になったから、こうやって我々が武器を取っている。清国との戦いも、ロシヤとの戦いも、そうやって起こったし、そこで戦ったから、今の帝国がある。そうしなければ、亜細亜は欧米の食い物にされる。この戦争も、国の在り方として仕方ないことではないかね」


「国なんて、僕程度の人間が解るこっちゃないです。僕に解るのは、せいぜいこれをくれたアメリカ人が良い奴だったってことです」


「……一曲、何か演奏したまえ」


 少尉がやや驚いた顔をしていたのは、当たり前の事だろう。私も当時を振り返ると、なぜあのような命令を下したのか覚えていない。だが決して、雰囲気にアテられたとか、同情とか、憐憫とか、そういう軍人にあるべからざる女々しい感情から発せられたわけではないはずだ。私は最後まで、軍人として飛行機に乗っていた。


 私の命令を受けた少尉は軽く敬礼すると、では、と立ち上がって、演奏を始めた。軽快な曲で、戦争の真っただ中にいることすら忘れてしまいそうな呑気さだった。


 翌朝、私にサキソフォンを渡して、彼は一式陸攻に乗り込み、薄明の空に飛び立っていった。

 別の編隊から放たれた桜花は、米国の駆逐艦マナート・L・エベールを真っ二つに引き裂き沈めたそうだが、少尉の桜花は敵艦への特攻を果たせず海に沈んだ、と、帰還した陸攻の機長から聞いた。



「……そのサックスは、今もお持ちなんですか?」

「ええ、これです」


 私はすっかり塗装の剥げたケースを開けて、古びたサックスを取り出した。大きく湾曲したベルには、所々黒ずみによる斑点や、緑青による錆が付着していた。私は戦地から引き揚げて以降、何度かサックスを始めようか、と思ったこともあった。だが結局、一度も吹くことはなかった。


 その理由を記者たちは興味深そうに尋ねたが、私は大したことじゃない、ただ本当に彼は人を愛することに長けた人間だったので、私が汚れた手でこの楽器を触るべきじゃないと思っただけだ、と言った。


「戦後にジャズがこの国で流行るようになってから知ったんですよ、彼があの夜吹いていたのは、『イン・ザ・ムード』だったって」

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イン・ザ(・ブロッサム)・ムード 有明 榮 @hiroki980911

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