第8話 鼓動 セッショクシャ(接触者)

 チトセはチアキに背を向け膝を曲げ手を置く。彼の背中に彼女が、もたれ掛かる。バランスが安定しない彼女は、彼の首にしがみつく。


 背中に彼女を感じ、彼の心臓の鼓動が速くなる。一方、彼の体は硬直している。


 チアキもまた鼓動が速くなる。これを彼女は2人のじゃれ合いを見たからなのか、今の状態なのか判断がつかない。彼女は前者だと言い聞かせることにする。


「チアキ! 大丈夫?」


「うんっ、ちょっと眩暈が」


 ミレがそう言うと彼の背中からチアキの感触が徐々に消えていく。彼は首を動かし彼女をつい見ようとしてしまう。


 彼の予想に反しミレと視線が合う。彼女の瞳は怒りに満ち溢れている。彼女の口が音を発せず動く。


 音のない彼女の言葉ではあるが、彼には先程嫌ほど聞かされた言葉が音となり入ってきた気がした。幻聴なのだろうかと自身の耳を疑う。


 その刹那、尻に衝撃を受ける。もともと前のめりであった彼は、抗えず廊下に両手と両膝をつく。どうやら当たっていたようだと彼は首を下げる。


 女生徒たちがクスクス笑う。彼は恥じらいから立ち上がりたくとも出来ないでいる。更に首を下げ、うなだれている。


「ちょっと! アナタ!! 何してくれてるのよ!?」


 コガレがミレに詰め寄る。両者が目を合わせ牽制する。ちなみにコガレは合気道の有段者だ。お互いに相手のことをよく思ってないのは周知の事実だ。なので周囲の生徒たちは、遂に直接対決かと固唾を呑む。


「蹴っただけだが」


「どうして蹴んのよっ!」


「不審な動きをしたからだ」


「……たっ、たしかに不審ではあったわね」


「ちゃんと監督することをお勧めするぞ」


「何よ! 監督って? 私は部活の顧問じゃないっての?!」


「監督者じゃないのか?」


「まるで私がチトセの保護者みたいな呼び方やめなさいよ!!」


「だって彼女だろ?」


「んっ、どういうことかしら~? 彼女について詳しくお聞きしたいわ~」


「端的に言えば恋人だ。もしかして違うのか?」


「あらっ、あらあらあら~。分かってくれていらっしゃたのね~、ミレさん。そうなのよ~っ」


「やっぱり当たってたじゃないか? さん付けで君に始めて呼ばれたな。これからは私もそう呼ぶことにしよう。コガレさん」


「さすがミレさん。武道をやってるだけあって礼儀正しいのね。私もやってんのよぉ?」


「知ってるぞ」


「私たち、友達になりましょうよ」


「えっ…………考えておこう」


「じゃあ私、委員会活動があるから行くね。ミレさんっ」


「ああっ、コガレさん」


 コガレは軽くチトセの尻を叩く。そして、スキップしながら意気揚々と去って行く。周囲の者は、呆気にとられる。


 チトセは、ますます立場がない。すると、キズナが駆け寄り立たせる。この時ばかりはキズナに感謝する。


「貴殿、一度ならず二度も。これは看過できませんぞ!」


「あっ! キズナ君…………お話を聞いてませんでしたか?」


「もちろん。兄上は姉上、いやチアキ殿を助けようとしたんですぞ」


「それは…………」


「どうして蹴ったりしたんです!」


「それはっ、それは尻があったからですぅ!」


「それは理由になりませんぞ」


「…………この人が、あのう、そのう、チアキに尻を押し当てようとしてると思ったんですうぅ」


「あ~、そう見えないこともないですね」


「そっ、そうですよね?」


「それで反射的に兄上の尻を蹴り上げたということですか?」


「はっ、はいぃ」


「それなら腑に落ちますね。兄上は尻を常日頃から鍛えております。他の者なら尻が悲鳴を上げてますぞ。今度からは、一度グッと堪え判断することをお勧めしますぞ」


 この彼の発言に妄想を膨らませた女生徒が膝から崩れ落ちた。友人が両脇を抱え立たせる。


「あっ、はい。そうします、キズナ君」


「兄上、そういうことらしいです」


 チトセが瞬きせず冷たい視線を送る。その鋭さにキズナは後頭部に痛みを覚える。彼は頭を振り痛みを飛ばそうとする。しかし、なかなか取れそうにない。というより、彼はチトセに凄まじい恐怖を感じている。


「兄上、わたくしは急な頭痛に見舞われまして、保健室へ行って参ります。それでは後ほど」


 彼は逃げ去るように、この場から離れる。チトセは深く深呼吸をする。


「すまなかったな。いい尻してるじゃないか。私、足が痺れてるぞ」


「ああっ、誤解が解けならよかったです」


 ミレが近づき彼の肩に左手を置き背伸びする。そして、口元に右手をあてる。


「触れたかったんだろ、絶妙ストーカー」


「……違いますって」


「今回は許してやる。しかし、次は尻じゃ済まさないぞっ」


「どこって言うんですか」


「その時までお楽しみにしてるといいぞ」


「そうはなりませんよ」


「刃向かうってことかな?」


「起こらないってことですよ」


「どうかな~。じゃあ」


 彼女は彼の肩をポンと叩き立ち去る。彼も彼女に背を向け立ち去ろうとする。


「あのう」


 その言葉に彼は振り向く。チアキが尻込みしながら立っている。2人は見つめ合う。


「あっ、ありがとう」


「あっ…………」


 彼は軽く頷く。すると、彼女は深くお辞儀する。そして、ミレの後を小走りで追いかける。彼はその後ろ姿をしばらく眺めていた。

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