そして私は、月と奏でる

キノ

1.鳥に奏でる幻想曲



  月がのは二千年ほど前のことらしいと、男は語った。

ある日突然、世界中に雨が降り注いだのだとか。月の周りに水が生じ、それが各地に滴り落ちて雨となる。人々はその様子を、月が泣いたのだと表現した。

 「二千年も泣き続けている月、か。そんなに長いこと泣いても泣き疲れないなんて、意中の男に相当酷い振られ方でもしたんじゃあないか?」

とあるハープ弾きの男は、月から発せられる淡い黄色と蒼色の光を眺めながらそのようにこぼした。

 ハープ弾きは、今日も月がよく見える場所で音を奏でる。柔らかな音楽によって、絶え間なく流れる月の涙を拭うことを試みるかのように。


 ―― 一 ――


 「先生!起きてください!」

  少年の声変わり前の高い声が四畳半程の広さしかない小さな部屋に響く。太陽が顔を出し、そして少しずつ上へと移動を始めた頃。少年が愛用のフライパンの底を使い慣れた木べらでガンガンと叩いて音を鳴らせば、布団にくるまって気持ちよさげに寝息をたてていた男は眉根を寄せて呻き声をあげた。

 「……まだ早いだろうよ。お前というやつは、よくもまあ、こんなに朝早くからそんなに大きい声が出せるな」

 そのように鬱陶しそうな声をあげる男は、名をシーナ・ブルックスという。枕に散らばった長い茶色の髪は、主の寝相のせいか随分と酷く畝っているように見える。宝石のように透き通った淡い黄色の瞳が此方を捉え、面倒だと言わんばかりに細められた。少年の奏でる騒音から逃れようと掛け布団を捲し上げて頭まですっぽりと隠してしまったシーナは、どうやら未だ起きる気にはなれないようだ。

  フライパンを片手に態とらしく肩を竦めて溜息を吐いた少年―ウォル・アーヴァインは、もう一度寝直そうと体勢を整え始めたシーナを目にすると、またフライパンの底を叩くことを再開した。ウォル少年はシーナよりも幼い齢十五の少年だ。灰色掛かった薄い赤色の髪と空のように綺麗な水色の瞳が特徴である。

  「…あ〜……!分かった分かった!起きれば良いんだろう!?」

フライパンをガンガンと鳴らす音が絶え間なく響く小さな部屋で先に我慢の限界を迎えたのはシーナの方だった。鳴り止まないフライパンの音に眉根を寄せて身体を起こしたシーナは、恨めしそうにウォルを数秒見詰める。「まったく、もう太陽が昇りきっていますよ。早起きは三文の徳と言うでしょう。おひとりで起きる努力をしてください、シーナ先生」と口にしたウォルは、シーナの恨めしげな視線を特に気にすることもなくシーナの部屋の窓を順番に開け始める。ウォルに何か言い返そうとしたもののうまい言葉が見当たらなかったシーナは、溜息を吐くと漸くもそりと布団から這い出てくる。

「良い匂いがするな」

「既に朝食が出来ていますよ、先生。今朝は隣のパン屋のおじさんのお店のパンをシュガートーストにしてみました。冷めてしまいますから、はやく顔を洗ってきてください。」

「どおりで甘い香りがするわけだ」

  家中に漂うバターとシュガーの香りに気づいたシーナは、寝起きの眼をごしごしと擦りながらも香りの元となるものを探そうとキッチンを覗いた。キッチンに設置してある机の上には、焼きたてのシュガートーストが朝食として用意されているのが見える。

寝起きでぼさぼさの長い髪を数回指先で梳いた後、シーナはひとつウォルに伝えなければならないことを思い出した。そうして自分の後ろに続く少年を振り返り、声をかける。

「ウォル。今日の昼過ぎに爺さんに呼ばれてるんだ。なんと珍しい話だが、お前にも話があるそうでね。二人で来いとのことだから、今日は村に出ずに家にいてくれないか」

  爺さん、というのはこの村の村長のことを指す。齢百五十の村長は滅多なことがない限りは人を呼び付けたりはしない男である。ウォルは思考を巡らせ、何か悪さでも働いただろうかとここ最近の行動をひとつひとつ辿ってみた。勿論、思い当たるものは何も無い。シーナと二人して呼び出されるなんて、前例も思い当たりそうにはなかった。不思議に思いながらも、ウォルはシーナの言葉に了承の返事を返す。

「ええ、分かりました。丁度、この間酒屋のおばさんから頂いた木の実をジャムにしようと思っていたところですから、午前中は家でジャム作りに取り掛かろうと思います」

「それはいいな。お前が作るジャムはずば抜けて美味いから、食べるのが楽しみだ。……そうだ、どうせならあの爺さんにも少しわけてやったらどうだ?あの人は甘いものが好きだからな。シュガーを存分に使って似たジャムを渡せば、きっと喜ぶだろうよ」

「そうですね。お世話になっていますし、空き瓶にふたつくらい差し上げましょうか」

そのように会話をしながら、シーナはやっと顔を洗いに家を出ていく。とっくにその行為を済ませている少年は、自分よりも幾分か大きな背を見送った後にキッチンへと戻り、手に持っていたフライパンと木べらを片付け始める。

  今日も平和で平凡な一日が始まった。少年はそのように思いながらひとつ深呼吸をしてみた。しかし同時に、平和という言葉はあまり正しくは無いのかもしれないとも思う。何故ならば、世界はずっと昔から大荒れで、この村の外は危険にさらされているのだから。

「おい、ウォル。外に出てみろ。今日も私の女が綺麗だぞ」

ぼんやりとそんなことを考えていれば、家の外からウォルを呼ぶそのようなシーナの声がした。ウォルは溜息混じりに返事を返すと、キッチンを一度離れる。木製の扉を開いて家の玄関先に顔を覗かせれば、井戸の横に立つシーナが空を見上げているのが見えた。釣られて空を見上げてみれば、よく見慣れた光景が目に飛び込んでくる。真っ青な雲ひとつない空には、朝にも関わず大きな大きな蒼い月が煌々と輝いていた。

 世界中に共通して、いつからか月は沈まなくなった。空の一箇所に留まり続ける月は、一日中どこからでも眺めることができるのだ。月をと呼んだシーナに、ウォルはこのように言葉を掛けた。

「今日の月は一段と、青みに拍車が掛かっていますね」

「ああ。月の周りの雫も今日は随分多いようだ。森の方に行くと月の雫の雨が酷いかもしれないな」

  ウォルの言葉にシーナは首を縦に振る。

 ウォル・アーヴァインは、自身の隣に立つシーナ・ブルックスという名の男をとても変人であると認識している。愉快なことに、彼はこの煌々と輝き続ける月に恋をしているのだ。空で光り続ける月のことを「可愛い恋人」とか「私の女」と呼ぶ人間を、シーナの他に見たことがない。ひとつ断っておきたいのは、シーナと同居しているウォルはシーナのような感性を持ち合わせておらず、月に恋心を抱くシーナの気持ちはなんとも理解し難いと感じているのだ。しかし、自分よりも六つ年上の彼は月というひとつの星にとてつもなく惹かれ、陶酔しきっている。

 無理は無いことではあるが、村の住人達はシーナのことをおかしな人間だと言ってあまり仲良くしたがらなかった。しかし、シーナ本人は村人達が己と仲良くしたがらないことを全く気にすることなく、毎日毎日空を見上げては綺麗にに輝く月を口説くのだ。ウォル少年は、それがなんだか可笑しくて好きだった。どれだけ後ろ指を指されても自分を貫くシーナの姿が幼いながらにかっこよく見えたのかもしれない。

  「…月の雫の雨が酷いとなると、森の方へと出ていった騎士のおふたりが心配ですね。雨に降られて濡れていなければ良いのですが……」

シーナの言葉から、不意にウォルは一昨日からこの村を離れている若い青年二人の顔を思い浮かべた。赤毛で猫のようなくるくるとした癖のある毛を後ろでひとつのお団子に纏めており、加えて太陽を思わせる橙の瞳を持つ明るく気さくな騎士であるララはついこの間二十一になったばかりだし、シュガーのような淡い乳白色の短髪と海のように透き通った青い瞳を持つ物静かで優しい騎士であるレルディはあと三日で二十二になる。二人が騎士と呼ばれ始めたのはつい数年前のことである。言ってしまえば、まだまだ新米なのだ。森へと向かう仕事という何とも誰もが嫌がりそうな任務を任されたのではないかとまで考え、ウォルは眉根を寄せる。

 二人が今回赴くことになったのは、村の北西に広がる大きな森だ。様々なモンスターが存在しているという噂があり、加えて月の涙が風向きの影響からかよく届き、年中を通してずっと雨が降っているような場所である。

 険しい表情を浮かべたウォルの顔を見て可笑しそうに笑ったシーナは、少年の眉間をそっと突くとこのよう言った。

  「そんなに険しい顔をするな、皺が増えるぞ。心配なんてしなくていいさ。二人ともいい男なんだから、少しくらい水に濡れてくれないとな。水も滴るいい男と言うだろう」

  「全く、素直に心配して差し上げればいいのに」

  ウォルの言葉に肩を竦めたシーナは、名残惜しそうな視線を月に向けた。そうして直ぐにウォルを振り返り、口を開く。

「さて、お前の作ったシュガートーストが冷めてしまう。中に入ろうか」

シーナのそのような言葉に、ウォルは首を縦に振った。


 ―― 二 ――


  程よく熱が冷めたシュガートーストを器用に切り分けて口に入れれば、たちまち口の中はシュガーの甘さでいっぱいになった。隣のパン屋のパンはモチモチとした食感で、皿の上にこぼれおちたシュガーをよく絡めて食べると頬が落ちてしまうんじゃないかと心配になるほど美味しい。ウォルは思わず頬を抑え、そして幸せそうな表情を浮かべる。シュガートーストが口に合ったのはシーナも同じようだ。シュガートーストを見つめながら目をきらきらと輝かせているシーナは、数度頷くと口を開く。

「美味いな!流石ウォルだ。店を出せるほど美味い」

「シュガートーストにして正解でした」

  小さな机を挟み、二人で向き合うようにして食事をするシーナとウォルは、顔を見合せて可笑しそうに笑う。

「これだけ食感があるパンなら、確かに木の実のジャムがよく合うだろうな。ジャムが尚更楽しみになった」

「周りをカラッと揚げてみてもいいかもしれませんね。そうしたら、きっとジャムがよく絡んで美味しいと思います。油屋のお兄さんに声をかけておきますね」

「是非そうしてくれ」

シュガートーストを食べ進めながらそのように話していたシーナは、不意に少しだけ真剣な顔をして話題を転換させた。

  「そう言えば、騎士の二人は何の用事で村を出ているんだったか教えてくれないか?一昨日から村を出ていることは知っているんだがね、その理由を聞くのを忘れていた」

「二人は村の外に出没した化け物の討伐に出たらしいですよ」

ウォル少年やシーナが住むこの村は、人口三百人程度の小さな村だ。名をルグの村と言う。村の東側に海が広がり、北西側には森が広がっている珍しい地形だ。お陰でルグの村では魚や塩がよく取れ、食料には困ったことは無い。

 ウォルの言葉になにか引っかかったのか、シーナは少し唸ると苦笑をうかべた。

「化け物ねえ。一言で言われても想像するには難しいな」

「村の少女が見たと言っていたらしいのですが…、なんとも嘘っぽいと言うか、信憑性もあまり無いように感じるんですよね。化け物の容姿については、クマのように丸い耳と鷲のように鋭い爪と肉食魚のように鋭い牙を持った二足歩行の化け物だそうで」

「聞いたことがないな。新種の生き物か何かか?」

どこか呆れたような表情を浮かべたシーナに対し、ウォルは態とらしく肩を竦めた。目撃者の村の少女は薬草屋の娘で、森の方に薬草を取りに行っていたらしい。

 元々、村の外に出る人はあまりいない。それこそ薬草屋は村と森の間にある野原のような場所に薬草を取りに行くことはあるものの、モンスターの出現などの噂があまりに絶えない為、ルグの村の人々がそちらまで出向くことは殆ど無いのだ。

「あの騎士の二人が二日も帰ってきていないこともあって、化け物が本当に居たんじゃないかとかなんとか、村の人たちは大騒ぎですよ。…けれど、ぼくはあまり信じられません。そんな化け物のことを本で読んだことはありませんからね」

「本に載っていることが全てでは無いから、一様に間違いだとは言えないが、そうだな。その生物が新種か、或いは本にすら載らないような珍しい生き物でない限りは見間違いの可能性も否定できないな…」

肩を竦めたシーナはシュガートーストを一口食べ、そのまま続ける。

「……何より、あの若い騎士二人がどこかで道草を食っているとは想像し難いだろう。とても真面目で誠実な青年達だからな。だから、まあ、村の人達が大騒ぎするのも無理はないさ」

兎に角二人に怪我が無ければいいがね、と続けたシーナの言葉はもっともだった。ウォルは首を縦に振って同意の意を示す。騎士の二人の無事をそっと願いながら、ウォルは最後の一切れのトーストを口に放り込んだ。


―― 三 ――

 

 真っ赤な太陽がまもなく真上に上がる頃に、漸くウォルは酒屋のおばさんから貰った赤い木の実を煮終えた。シュガーを沢山使って煮た木の実はほってりと煮立って、木製のスプーンで一口掬って食べてみれば、後味がすっきりとしていて丁度良い甘さのジャムが完成していた。

 貰った木の実の量が多かったのもあって、机の上にはジャムが入ったガラス瓶が沢山並んでいる。キッチンに漂う甘い香りに誘われるように、窓の外には近所の野良犬たちが数匹集まっていた。皆がウォルに食べ物を分けてもらうことを目的としており、ウォルは時々、集まった野良犬たちにソーセージや肉の切れ端なんかを食べさせている。

「向こうの肉屋のおじさんに会いに行った方が、よっぽどいいものを貰えるだろうに……」

 キッチンの奥にあるもうひとつの扉から外に出てみれば、犬たちが尻尾をぶんぶんと揺らしてウォルに近づいてきた。キッチンから持ってきたお手製のソーセージを小さくちぎって犬の口元に向かって投げてやれば、犬たちは口を大きく開けてソーセージを取り合う。ウォルのソーセージはシーナにも大好評のもので、どうやら犬達の口にもよく合うらしい。

「順番だよ。みんなにあげるんだから」

 ソーセージを取り合って喧嘩を始めそうな雰囲気の犬たちを諭すように、ウォルは優しい口振りでそのように言った。ウォルの言葉を理解したのかしていないのか、犬たちはくうんと鳴いてみせるとそのまま大人しくなる。

「うん、いい子達」

 ソーセージを順番に口に放り込んでいけば、犬たちは満足そうに鳴いたりウォルの足に擦り寄ったりしてみせた。それが擽ったくて、ウォルは思わず笑いながら足元の野良犬たちを順番に撫で回した。

 そんなふうにして過ごしていれば、家の中から少し草臥れたような声色でシーナが声を掛けてくる。なんとも気の抜けた情けない声だ。

「ウォル、そろそろ時間だ。爺さんのところに行こう」

 ウォルは返事をすると、野良犬たちを撫でる手を止めた。物足りなさそうな顔をする野良犬たちに「また後でね」と声を掛けたウォルは、そのまま家の中に戻ると既にまとめておいた荷物を手に取った。

 シーナはキッチンの椅子に座り、とても疲れたような表情を浮かべている。シーナはウォルが木の実を煮ている間に村の中央まで用事に出ていたのだが、何がそんなに彼をここまで疲れさせたのだろう、と、ウォルはシーナをじっと見詰めた。その気持ちを汲み取ったのかシーナは呆れた表情を浮かべながら口を開く。

「ハープ弾きっていうのは、どうも子供達には物珍しいようだ。家から出ればハープ弾きのお兄さんと呼び止められ、直ぐに囲まれて、一曲弾いてくれだのハープを触らせろだの言われてな。全く、私を水で動く小猿の人形と同じだとでも思っているんじゃあないか?いくらハープが珍しいとは言え、人を暇潰しに使わないで欲しいね」

 シーナの職はハープ弾きだ。この村は人が少ないため、名前ではなく役職で人を呼ぶことが多い。ウォルもまた、例えば『酒屋のおばさん』とか『油屋のお兄さん』とか、そんなふうに人を呼ぶ。シーナも例外ではなく、村の子供たちからは『ハープ弾きのお兄さん』と呼ばれている。村の大人は彼を変人だと言ってあまり仲良くしたがらないが、純粋無垢な子供達はかえってその変人さに惹かれているのだろうか。彼が外に出れば直ぐに子供達に囲まれてしまう。今日もいつも通り、子供たちに囲まれていたようだ。シーナの話を聞いたウォルは苦笑を浮かべると、宥めるようにこのように口にした。

 「良い事じゃあないですか。人に好かれるのはとても難しいことでしょう?子供は嘘をつきませんし、きっとあなたの人柄に惹かれているんですよ。そのきっかけがハープだったというだけです」

 ウォルがそのように言えば、シーナは心底迷惑そうな声色で言った。

「それなら尚更だ。子供達は全く見る目がない。私に惹かれている暇があるなら村に咲く野草のひとつに目をくれてやれば良いんだ。そちらの方がよっぽど意味があって面白いだろうに」

 「あなたの奏でる音楽に子供たちが意味を見出しているのでしょう。野草を見るよりもよっぽど価値があると彼らが思ったのならば、その価値観を受け入れて差し上げるべきですよ。何かに意味を見出すのはその人個人の感性故であり、自由なんですから。……そんなにひねくれていると、本当に水で動く小猿の人形のようになってしまいますよ、

 ウォルの言葉にシーナが眉根を寄せた。言い返されたのが面白くないのか、それっきりシーナはその話には触れなくなった。代わりに彼が選びとった話題は、今から向かう齢百五十の村長の話だ。

「……それより、私だけなら兎も角、あの爺さんがお前にまで用があると言うのは珍しいな」

「ええ、ぼくもそう思います」

「悪い事をした記憶は無いんだがね」と続けたシーナと肩を並べて歩く。

 (先生にも呼ばれるような用事が思い当たらないのであれば、尚更何故呼ばれたのか不思議だな)

「まあ、あの爺さんにはよく世話になっているからな。どんな用事であれど、多少の頼み事は聞いてやろうとは思っているんだが……。そのときは、お前も手伝ってくれよ」

「勿論です」

 シーナが態とらしく素っ気ない口振りで言い切ったのに対して、ウォルはそのように返事をする。

 しかし、心のうちでは、どうか村長に呼ばれた理由が、この平和な日々を脅かすような面倒事でないことを願う他なかった。


 ―― 四 ――


 村長が住む家は村の西側にある。石の塀に囲まれたその家は、随分年季が入った木材で作られた小さなもので、家の壁には「ルグの村 村長」と書かれた大きな看板が設置されている。家の前には色とりどりの花が綺麗に並べて植えられており、その花の前では猫が丸くなって眠っていた。

 「おい、爺さん。居るか?」

 扉に設置されたベルを右手で雑に数回鳴らしたシーナは、木製の黄色の扉を開けるとどかどかと家に入っていく。ウォルは、腕に抱えたジャム入りのガラス瓶のせいでベルを鳴らせぬまま目の前の男の背を追って家の中へと飛び込んだ。

 歳上の人への礼儀やマナーなど、そういった堅苦しいものをシーナは好まなかった。相手の位がどれだけ上であってもお構い無し。シーナは相手が歳上であれど歳下であれど、変わらず馴れ馴れしい態度で人と接する。そこがまた、きっと子供達からすると接しやすくて親しみやすいのだとウォルは思う。逆に村の大人達はそんな様子を無礼だと言って、シーナと話すこと自体を嫌がるようになった。

「先生、ベルを鳴らす時は左手で鳴らすのがマナーですよ。右手で鳴らすなんて不敬にあたります」

 ウォルは眉根を寄せ、シーナの背を見詰める。シーナとは反対に、ウォル少年は礼儀やマナーというものにとても律儀に従う。歳上を敬い、自分の尊敬する人を「先生」と呼ぶ。特にシーナにはよく懐いており、シーナのことを先生と呼び始めたのは出会ってすぐの事だった。また、知識を付けることを好む節があり、本をよく読む。そんなウォルは、本に載っている事は何でも正しいと思い込んでいる。

 シーナは、ウォルのそういう所が危ういところであり短所であると感じているのだが、まだ十五のウォルに注意をすることはあまりなかった。多感な今の時期だからこそ、今しか得られないものを得て欲しいという親心のようなものをウォル少年に向けているからかもしれない。

 ウォルのそういった礼儀正しいところは、村の大人たちによく好まれている。逆にウォルと同い年くらいの子供からはあまり好まれない性格のようで、ウォルには友達と呼べる存在も居ないようだ。しかし、ウォルは現状に満足しており、ウォル自身が友人の少なさを気にするような様子は見受けられなかった。子供たちと一緒に村に出て走り回るよりも、家事をしたり本を読むことの方が、ウォルにとっては幾千倍も価値あるものに思えて仕方がないのだ。

 ウォルに注意されたシーナは、咳払いを態とらしく数回すると意地の悪い笑みを浮かべた。

 「ベルを右手で鳴らしても、左手で鳴らした時と何も変わらない。それに、相手からはベルを何方の手で鳴らしたかなんて分からないじゃあないか」

 咳払いの後に、シーナはウォル少年にそのように言ってのけた。シーナの言葉に、ウォルは更に険しい顔をした。シーナは時々、こうやってウォルを揶揄うことがある。生真面目な少年がどのような言葉を返してくるのか、不真面目な男は何処か期待に胸を踊らせているように見える。

 「そういうことでは無いんです。マナーを守るか守らないか、という話をしているのですから。……先生、あなたみたいな人をなんて言うか知っていますか?」

 「知らないな」

 「唐変木って言うんです」

 ふん、と腰に手を当てて言い切ったウォルを横目で見たシーナは、くつくつと可笑しそうに笑うとこのように返す。

 「ウォル。お前みたいな奴をなんて言うか知っているか?」

 「知りませんね」

 「杓子定規って言うんだよ」

 シーナもウォルも負けず嫌いなところは変に似ている。同じようなテンポで言い返したシーナは、やってやったと言わんばかりの表情でウォルを眺めた。対するウォルは、「いい加減な人よりも真面目な人の方が、よっぽど良いものだと思いますけどね」なんて言って頬を膨らませている。今回は不真面目な男の方が勝利を収めたようだった。

 そんなふうに玄関で言い合っていれば、長い廊下の先から笑い声が聞こえてくる。しゃがれたその声は例え笑い声であっても威厳に溢れており、ウォルは背筋がぴんと伸びるのを感じる。この笑い声の主こそ、この村の村長であるイグニス・ルグハインである。齢百五十のイグニス村長は、年齢よりもずっと若々しく見える。白髪の短い髪に、丁度先程彼に渡した赤い木の実のジャムのような艶やかな瞳。趣味が散歩のためか、肉付きも悪くない。ウォルが初めて彼に年齢を聞いた時は、見た目と年齢があまりにもちぐはぐにみえて腰を抜かすほど驚いた記憶がある。

 「相変わらず仲が良さげで安心するな。アーヴァインの少年をシーナに預ける話が出た時はどうなる事かと思ったが、心配をするだけ無駄だったと君たち二人を見る度に思うよ 」

 シーナは廊下を歩いてきたイグニス村長を見てへらりと笑ってみせる。

 「おう、爺さん。元気そうで何よりだ。そろそろくたばっちまうかと思って心配していたんだがね」

 「先生、今晩の分のお酒を没収しますよ」  

 ウォルの言葉を聞いたシーナは「おいおい、それとこれとは話が違うだろう」と横槍を入れてくるが、それを軽く流してウォル少年は腕に抱えていたガラス瓶をイグニス村長に差し出す。

 「村長、こちら木の実をシュガーと共に煮たジャムです。沢山のシュガーを使っています。パンは食感のあるものを選べば良いと思います。紅茶に入れる時は、少し古い茶葉のものを選ぶといいです」

 「ありがとうね、ウォル君。美味しく頂くよ。先日ジャムが切れてしまって、買いに行かねばならないと思っていたんだ。これでまた暫くは美味しい食事を楽しめそうだ」

 ウォルの手からジャムを受け取った村長は頬を緩めて感謝を述べる。その様子を見ていたシーナが、「ところで爺さん、話ってのは何なんだ?」と声をかけたことで話はひとつ変わることになる。

 「大事な話だ。玄関でそんな話をするのもあれだろう。少し古めの茶葉がちょうど三人分程度残っていてね。ジャムも頂いたことだ。少し腰を掛けていかないか?」

 引き締めた表情を見せた村長のそのような提案により、二人は奥の部屋へと案内されることとなる。


 ―― 五 ――


 通された部屋は客間で、三人が入るといっぱいになるような小さな部屋だった。火はついていないが、部屋には暖炉が設置されている。マントルピースに目線をやると、大きく欠けた月を中心に、様々な木々や花々の装飾が施されている。窓際の花瓶には珍しいと言われている雨の日にしか咲かない花が挿されており、これにはシーナも「良い趣味じゃあないか」と反応を見せた。ウォルは花にはあまり詳しくは無いが、どこか色素の薄い紫色の花びらが大きく反っているところや青々と茂った葉の状態から察するに、この花を生けたのは今朝のことだろうと推測できた。恐らく、最初から村長はシーナとウォルを客間に通すつもりでいたのだろう。

  客間に通されると、ウォルとシーナはソファに座るように促された。

 「さて、紅茶を淹れてこようかね。少し待っていてくれないか」

 「爺さん。紅茶ならウォルに淹れさせたほうがよっぽど美味いものが飲める。アンタは此処で座っているといいさ」

 村長がそのように言って席を離れようとするが、それを止めるようにシーナが声を掛けた。少し棘のあるシーナの言葉を聞いて、ウォルはシーナの足を強く踏みつける。「いっ……!」と声を上げるシーナの言葉に重ねて、ウォルは申し訳無さそうな表情を浮かべてイグニス村長に謝罪を述べた。

 「すみません、村長。先生には強く言っておきます」

 そんなウォルの言葉に村長は可笑しそうに笑う。

 「気にしていないよ。シーナは昔からこうだからね。いちいち気にしていちゃあいられない。それに、君の方が良く淹れられるのは事実だ。お願いしてもいいかい?」

 村長の言葉に、ウォルはそんなことは無いと首を横に振る。しかし、村長の方はシーナの言葉もあってか、とっくに紅茶を淹れる気を無くしており、「彼処にあるものは好きに使っていい」と客間の向かい側にあるキッチンを指して言うと、シーナと共にそろそろ飲み頃の葡萄酒の話をし始めた。

 酒の話なんて、未成年のウォルにはまだ分からない。蚊帳の外に追いやられたウォルは、仕方なく人の家のキッチンに立つことになる。

 村長の家のキッチンは、ウォルやシーナの家のものよりも小さい。齢百五十の村長は子供や孫が居ないこともあり、この大きな家にひとりで暮らしている。一人で使うには十分な大きさのキッチンだ。改めて、村長の家は一人で住むには少し大きすぎるようにも感じる。この家は一人で住むには部屋の数が多い。キッチンこそ小さいものの、このような大きい部屋で生活をするとなれば、孤独というものを毎日少なからず感じるに違いない。ウォルにはそれが少し怖く感じる。家に帰った時におかえりと返ってこない家に帰る孤独感に、ウォルは耐えられる自信がなかった。

 とは言っても、村長が本当に孤独を感じているのかと考えれば話は少し変わる。カリスマ性や威厳が理由で村のみんなから好かれている村長は、よく村人達を招いてお茶会を催しているし、特別もの寂しい思いをしている様子は無さそうにも見える。百五十年も生きていれば、物事への考え方自体違うのかもしれない。持っている知識や経験の量があまりにも豊富で、なのだ。村人たちの中に、村長を苦手だと言う人間を見た事がない。それもこれも、彼の努力の賜物なのだと思うと、ウォルは改めて村長に対して尊敬の念を抱いた。

 背後から聞こえる二人の話し声はとても楽しそうに思える。シーナは、村長ともうかれこれ八年程の付き合いらしい。シーナの年齢が二十一歳なのを考えると、シーナの人生には長くイグニス・ルグハインという男が居座っていたことになる。

 村長に対するシーナの言葉はとても冷たいものが多いが、それが照れ隠しであることは自明の理である。実際、言葉の裏を探れば村長を心配していることが大半なのだ。シーナには両親が居ない。その為、ルグの村でシーナが大人になるまで親の代わりをしていたのはイグニス村長本人だった。つまり、村長の家はシーナが昔住んでいた家であり、村長はシーナの父親に近い存在になる。

 きっとそのように言えばシーナは恥ずかしがるだろうから、ウォルはそのような考えをそっと胸に抱いたまま口元をやんわりと緩めた。

 (先生の声、すごく楽しそうに聞こえる。村長も普段より砕けた笑い方をしていらっしゃる。御二人は本当に仲がいいな)

 先程まで火にあてられていたポットを手に取る。二人が話に花を咲かせている間にさっさと紅茶を淹れてしまおうとまで考え、ウォルはティーカップを温め始めた。村長が言っていたとおり、キッチンに置かれていたのは少し古い茶葉だった。茶葉の香りは少し薄まっているものの、まだまだ鼻腔をくすぐるには十分すぎるほどのものだ。この程度のものだと、丁度甘すぎるジャムによく合うに違いない。

 ふんふんと鼻歌を歌いながら、ウォルは使い慣れないキッチンで紅茶を淹れる。湧いたばかりのお湯の中に茶葉を入れ、蓋をして蒸らす。ウォルは、徐々に透明なお湯に色がつくこの時間がとても好きだ。

 (大きい茶葉だから、蒸らす時間が少し長くても良いかもしれない。先生は濃い味のお茶がお好きだけれど、村長はどうなのだろう)

 お湯やミルクを足すことで後から濃さは調整出来るが、折角ならば好みの濃さのものを出したいものだ。

 ウォルは少し悩みつつも、普段と同じような濃さの紅茶を淹れた。肉桂色のお茶は、きっといつも以上に上手く淹れられたのではないだろうか。ウォルは嬉しげに頬を緩める。

 キッチンに置いてあった木製のスプーンでジャムを掬う。ジャムを別の器に適量盛ると、木の実の赤色が光を反射して輝いて見えた。

 キッチンの壁に掛けられた薄い色の木製のお盆の上に、三人分のマグカップとスプーン、それからジャムが入った皿を置く。漸くお茶を出す準備を終えたウォルは、お盆を両手で持ち上げ、楽しそうに話をしている二人の元へと歩み寄った。

 「おまたせしました。紅茶を淹れ終えましたよ」

 ウォルの言葉に、二人はそれぞれ、「良い香りだね。君が淹れるお茶は本当に美味しいから、とても嬉しいよ」と言って微笑んだり、「今日の紅茶は蒸らす時間が長かったんじゃあないか?私好みの色をしているな。飲むのが楽しみだ」と言って期待の視線を紅茶に向けたりしている。

 彼らの前にカップを置き、そこでやっと椅子に座ることを許されたウォルはほっと息を吐く。早速ジャムをスプーンで掬って紅茶に入れてはくるくると回して溶かしている村長は、並んだシーナとウォルを見ると咳払いをしてみせた。

「さて、美味しい紅茶を片手に、今日君たちを呼んだ理由を説明しよう。本題に入るのだけれど、良いね?」

 途端、先程までの柔らかかった空気にピリッと緊張の走ったのを、ウォルは身をもって体験した。シーナとウォルの顔を交互に見たイグニス村長は、ふうっと息を吐いた後に口を開いたのだった。


 ―― 六 ――


 「今日君たちを此処に態々呼びつけたのは、とある依頼をしたいからだ」

 そのような言葉から話題を切り出した村長に対し、シーナは「依頼?」と聞き返す。騎士でもないウォルやシーナにとって、依頼という言葉は耳馴染みがないものだ。思わずシーナが聞き返してしまったのも無理はない。村の平和を守るために組織された騎士団の騎士たちは、よく依頼という形でちょっとした厄介ごとの処理などを頼まれている。しかし、ハープ弾きのシーナやそもそも職を持たないウォルが出来ることは随分と限られすぎており、こうして依頼という形で話を持ち出されることは初めてだった。

 紅茶の湯気がふわりと部屋を舞う中で、村長は首を縦に振ってシーナが繰り返した言葉を肯定すると、真剣な声色で言葉を紡いだ。

 「ああ。村の人々の中から君たちを選んだのは、君たちしかこの依頼を受け入れてくれないだろうと思ったからだ。それを頭の隅に置いて話を聞いてくれ」

 ひとつ間を置いて、イグニス村長は話を続ける。

 「依頼内容はこうだ。――月を泣き止ませて欲しい」

 村長が何を言っているのか、ウォルは理解が追いつかなかった。村長はひとつ咳払いをすると、このように補足した。

「月と言うのは、あの空に輝く、満ち欠けをする月のことだ」

 ウォルが記憶する限りでは、月というものの周りに生じた水――人々はそれを月の涙とか月が泣いているのだと表現する――が消えたことは一度もない。月が突然泣き出したのは二千年も前のことだ。その理由は未だ改名されていない。加えて月にはまだまだ不思議なことが沢山ある。例えば、月は昔は太陽と同じように沈んで昇る存在だったようだが、今ではずっと空に居座るようになってしまった。その理由もまた、誰も分からないままだ。

 月の涙の量やそれが降り注ぐ場所は日によってばらばらだ。例えば、村の北西に広がる森は年中を通して雨がよく降る。ルグの村は年間を通して雨の日は少ない。月の涙の量の変化には周期は無いのだ。しかし、泣き止むことは絶対にない。今日もどこかの地が月の涙で濡れている。それもまた、不思議な話である。

 シーナ曰く「きっと月は女だ。でなければ、あんなにも扱いにくいわけが無い。気分屋、気まぐれ、でなければマイペースな性格をしているんだ」とのことらしい。何はともあれ、月には不思議が多いのだ。

 「……あの月を泣き止ませろだなんて破茶滅茶なことをアンタが言うとは思っていなかった。これには私も吃驚だな」

 シーナは状況把握が上手く出来たのか出来ていないのか、そのような言葉を村長に返した。村長はシーナの反応に対しては何も言わず、そっとティーカップに口をつけてお茶を啜ったあとに話を続けた。

 「月の涙の影響はとても大きい。最近は涙の量が増え、一晩中雨にあてられた草木が枯れたり育たなかったりしているんだ。草木だけじゃあない。森の方のモンスターがやけに元気で、噂によると新種のものも出現し始めたと言う。今はまだ大丈夫でも、五年先…いや、もっと早く見込むと二年先には飢饉や流行り病、モンスターによって村が無くなってもおかしくはないというデータが出た」

 イグニスは重々しい口振りでそのように言った。イグニスの言葉に、ウォルは思わず「そんな!」と零してしまう。

 平和で平穏な日常が未来永劫続くものだと、ウォルは信じて疑いもしてこなかった。この村の平和がいつか崩れることになるなどとは、考えたこともなかったのだ。喧嘩は時々あれど、戦は無い。人によって人の命が奪われることも無く、本に載っているような「魔女裁判」などという文化もない。美味しい魚と塩があって、野良猫や野良犬たちが沢山居る、そんな平和なルグの村が、いつかモンスターの住処になる想像をして、ウォルは思わず身震いをした。

「……なるほどな。月に恋をしている私に愛しい女を泣き止ませろと依頼をするのは、些か卑怯だと思うんだがね。それで、泣き止ませる方法っていうのは明らかになっているのか?」

 シーナは冷静だった。村長に対して卑怯だと言った彼は笑みを浮かべており、ウォルとは反対に楽しそうに村長の話を聞いているようだ。

 「明らかにはなっていない。……少なくとも、この村のうちではな。しかし、村の外はどうか分からない」

 村長はため息混じりに首を横に振った。シーナはそんな彼の言葉に対し、「村を出れば方法が見つかる可能性があるんだな?」と返した。 

 ウォルは頭の中で一度世界の歴史について思い返してみた。二千年ほど前に、世界中を巻き込む大きな戦争が起きたと聞いたことがある。人というものの間では戦が耐えず、血が数多流れ、世が混乱した。やがて、国だけでなく、街や村も他の集落との連絡を絶って自分の土地に籠るようになった。

 一枚の地図だったものはそのときに十六枚に破られ、ルグの村にはその一切れ分の地図のみが存在している。二千年の間、ルグの村は他の村や街と連絡をとっていない。それは恐らく、二千年前に他の集落と連絡を絶った別の村や街も一緒のことだ。皆が自分たちの住む場所の外を知らずに、目を向けずに生きてきた。

 ウォル自身も、ルグの村の北西に広がる森の奥に陸地が続いていることは知っていれど、そこに一体何があるのかは知らない。それを知っている人など、この村の何処を探しても見当たりはしたいのだ。百五十年生きた村の村長ですらも、知らないのだから。

 この村の外にあるであろう、誰も知らない村や街。もっと大きい、それこそ国だってあるかもしれない。そこに住む人たちにも、月の涙は甚大な被害をもたらしているだろう。月は空の高いところから人々を見下ろし、平等に雫を降らすのだから。村長の主張は確かにその通りであり、村の外に出て様々な人間と交流をすれば、方法が見つかる可能性は大きいように思える。

 「他の村や街に辿り着くことが出来れば、そこに住む人々に話を聞くことができる。月を泣き止ませたいのは、きっと私たちだけでは無い。雨の影響が少ないルグの村ですら、こんなにも問題を抱えているんだ。他の村や街はもっと深刻だろう。……頼む。月を泣き止ませる方法を探し、月の涙を止めてくれはしないか。世界中の人の為とは言わない。ただ、明日も平和に生きていくためだ」

 イグニス村長はそう言い切ると、シーナとウォルの二人に頭を下げた。村長が頭を下げるのを、ウォルは今まで見たことがなかった。

 沈黙が部屋を包む。ウォルには、どのような返事が適切なのか思い当たらなかった。頭に浮かぶどの言葉も口にするには不格好で、この時ばかりは気が利く性格も役には立たないように思えた。

 「……頭を上げてくれ、爺さん」

 そんな沈黙を破ったのは、シーナの凛とした声だった。村長はその言葉にゆっくりと頭をあげる。

 「アンタの頼みだ。どんな話の内容であれ、頼まれ事を断る気は更々なかったさ。それに、私は好きな女を泣き止ませることを夢にまで見てきたんだ。その依頼を受け入れさせてもらおう」

 シーナのはっきりとした口調に、村長は若干驚いたような表情を見せた。まさか受け入れてくれるとは思わなかった、というような顔をしている。

 決断があまりにも早かった為、ウォルもまた、とても驚いた。そんなことは露知らず、村長が何かを言おうと口を開く前に、シーナはそっと言葉を紡いだ。

 「しかし、ひとつ聞きたい。その依頼は私一人にでも頼めたはずだが、どうして此処にウォルも呼んだんだ?私と同棲しているからか?この子は私よりも生活への知識や技術がある。空いた私の家に一人暮らしをさせるという手段も、アンタと暫く共に過ごす方法もあったように思うんだ。今更子守りは柄じゃないとは言わないだろう?」

 突如話題の転換によって話の中心にあがった己の名に、ウォルは驚いたような、困惑したような表情を見せる。しかし、シーナの言うことは最もだった。村の外にはさまざまな危険がある。森には数多のモンスターが居るとされているし、その先は未知の世界。職にもついておらず、ましてやまだ十五歳の少年を此処に呼び付けた訳は、シーナにもウォルにも到底推測のいかないものだった。

 シーナの問いに、村長はすぐに口を開いた。ウォルを優しく見詰め、それからこのように言う。

 「ウォル君を呼んだのは、シーナがこの依頼を受け入れた時には彼も同行させるべきだと判断したからだ」

 「どういうことだ?」

 村長の視線に、ウォルは緊張のあまり背筋をぴんと伸ばしてその視線に耐えた。そんな様子を見て村長は少しだけ微笑み、言葉を続けた。

 「…ウォル君の両親が、他の村や街で生きているかもしれないんだ。世界を旅することになれば、少なからず目撃情報などを得ることが出来るだろうからね」

 「父様と母様が…」

 ウォル少年はその目を少しだけ見開いた。

 ウォルの両親は二人とも騎士だった。村でも一位二位を競うような強さを持つ騎士であった父と、馬の扱いに長けていて剣の腕も素晴らしかった女騎士の母。二人は、ウォルがまだ幼い頃に北西に広がる森に出現したモンスターの討伐に向かい、そのまま帰ってこなかったのだ。二人が失踪した後、何度も様々な騎士が森へと捜索に出たが、六年ほどたった今も見つかっていない。モンスターに殺された可能性もあるとシーナに聞かされたこともある。少年は、幼いながらにその事実を受け止めて今まで生きてきた。

 ウォルがシーナに預けられたのは父親と母親が失踪してすぐの事だ。イグニスの元を離れて村の丘の上にひとつ家を貰ったばかりのシーナは、ウォルを優しく歓迎してくれた。それ以来、二人は小さな家で共に生活してきた。料理や家事ができない分、シーナは知識が豊富でハープが上手い。ウォルはそれを補うように家事を覚え、シーナの助けとなっていった。

 「なるほど、納得がいった」

 そう言って頷いたシーナは、横に座るウォルに視線をやる。月の色をしたシーナの瞳と、空色のウォルの瞳が交わる。いつになく真剣な表情で、シーナはウォルにこのように持ちかけた。

 「ウォル。お前はまだ十五だ。この話を断って村で勉学に励むのも、きっと悪くない。私の部屋の本をまだ全て読み終えてないだろう。あそこには、地図が一枚だった頃の話の本やモンスター図鑑なんてものもある。私を待つ間に暇はしないだろう。……しかし、私についてくるのなら、その時にはその時でお前は特別なものを得るだろう。危険なめには沢山合うだろうが、同じだけ様々な人と出会い、様々な意見に触れることが出来る。……好きな方を選ぶといい」

 シーナはついて来いともついて来るなとも言わなかった。ウォル少年に選択肢を与えてくれるこの男は、きっとどちらを選んでもウォルの選択を正しいと言ってのけるだろう、とウォルは思う。この先百何十年、ぼんやり生きていくと思っていた。しかし、人生とはいきなり何が起こるのか分からないものだ。ウォルは今ここで、大きな選択をしなければならない。身に余るほど大きな選択を。

 今、ルグの村で生きている人間で、この村の外がどうなっているのか、なにがあるのかを知っているひとは誰も居ない。誰も知らない未知の世界へ身を危険に晒して歩み出すことは恐ろしいが、それと同時にあまりにも魅力的に思えた。

 「……ついて行かせてください、シーナ先生。ぼくは、ぼくの両親を探したいです。それに、まだ知らないことをもっと沢山知って豊かな人になりたいんです」

 ウォルのその言葉に、シーナは柔らかく微笑んだ。

 「ああ。良い選択だ。私と共に旅に出よう。お前が居るなら、きっと移動が暇にならないだろうからな」

 ウォルの予想通りだった。彼はそのような言葉で、ウォル・アーヴァインという名の少年の大きな選択を肯定した。自分よりも少し大きな手が少年の頭をわしゃわしゃと撫で回すのが、少年にとっては少し照れくさい。

 「ってことで、爺さん。私たちに頼んで正解だったな。その依頼を受けよう。旅にはすぐにでも出たいところだが、準備があるからな。明日の朝にこの村を出ることにしよう」

 シーナの言葉に、村長は首を縦に振る。その表情は安堵のものに近かった。

 「ありがとう、シーナ。ウォル君。君たちの旅立ちを、村の人々に伝えようか。みんなで盛大に送り出そう」

 「やめてくれよ、柄じゃあない。私もウォルも、そういうのは好まないんだ。それに、好きな女の涙を拭いに行く男を応援する村とは、少し頓珍漢過ぎると思わないか?」

 肩を竦めたシーナに、ウォルはくすくすと笑ってみせる。村長もまた、釣られて笑みを浮かべる。

 この日が全ての始まりだった。ハープ弾きの男の物語は、漸く幕を開ける。


 ―― 七 ――


 その後、村を出る際の注意等を村長から聞き(これは、森へ向かう際には誰が村を出たのかを書き残しておくために必要な手続きだ。知らぬ間に失踪なんてことにならないように、また、村を出た人間が帰ってこなかった時に捜索しやすいように村長が生み出したひとつの契約みたいなもので、注意点をしっかりと聞いた後に契約書にサインをしなければならない)、シーナとウォルの二人は一度彼らの住まう家へと戻ることになる。

 明日の朝にこの村を出る。その事実がウォルの胸を高鳴らせた。

 「ウォル、長い旅になるだろうから、荷物は慎重に選ぶんだぞ。重すぎる荷物は邪魔だが、何も持っていかなければ後で困るかもしれない」

 「ええ、わかりました」

 二人はそんな会話を交えつつ、旅のための支度を始める。ウォル少年は愛用のフライパンと木べらを厚い皮の布で出来た鞄に押し込むと、キッチンに立って長期にわたって保存出来る食べ物をまとめ始めた。干した肉、乾かした果物、木の実をそれぞれ袋にまとめてフライパンや木べらと同じように鞄に入れると、次は明日までに食べなければならないものを小分けにして近所に住む人達に配って回った。今日作ったジャムも、どうやら自分たちの口には入らなさそうだと思い、ウォルは可笑しそうに笑った。

 家の食料保存庫は3時間ほどで空っぽになり、空っぽになった食料庫を前にしてウォルはふうと息を吐く。

 (……先生は何を持っていかれるのだろう。あの人のことだから、きっと重い荷物は持ちたがらないだろうし、ぼくが持てるものも限られてくる。薬草は森に入れば山ほど手に入るだろうから、治療薬は必要ないだろう)

 人生で初めての経験だ。ウォルは今まで様々な本を読んできたが、どの物語の主人公も自分とは全く重ならなかった。命をかけた大冒険。騎士が姫様に恋をする話。ドラゴンを手懐ける話。そのどれもが、ウォルには想像しがたい未知の世界だった。主人公になりたいと思ったことは無かったが、主人公に憧れて、こんな大冒険をしてみたいと思ったことがあるのは事実である。

 この旅は、命をかけて何かを守りたいと思うことが出来る冒険になるかもしれない、とウォルは思う。ドラゴンだって、遠い国には居ると本に書いてあった。もしも本当に存在したら、ドラゴンと友人になれるだろうか。シーナなら嫌がりそうだ。きっと、「一体お前はドラゴンの何がいいんだ。猫の方がずっと可愛げがあるじゃあないか」とか、そんなことをを言うのだろう。そこまで考えて、ウォルは頬を緩める。

 (きっと、この旅はなにかの物語の一部になる。主人公はぼくではなくて、シーナ先生に違いないけれど、ぼくは先生の物語を傍でずっと楽しむことができるんだ)

 思い立ったが吉日。ウォルは自室へと急いで向かうと、自室の机の上に置いてあった使っていない古ぼけた日記帳と羽根ペン、インクをまとめて鞄に詰めた。入れる予定のなかったものを入れたせいで鞄はパンパンに膨らんでしまっていたが、後悔はない。きっと旅が始まっても後悔なんてしないだろう。

 (先生の物語を、ぼくが傍で綴ろう。)

 少年は、空色の瞳を優しく細めて鞄の皮の生地を撫でた。この先日記帳に紡がれる物語に、思いを馳せながら。

 一方、シーナは愛用のハープを革でできたケースにしまい込むと、長いベルト部分を肩からかけ、背中にハープが来るようにベルトの長さを調整をし、そうして部屋を見渡した。

 食料は森に入ればいくらでも狩ることが出来るだろうし、薬草の類も森に入ってから手に入れればいい。となると、シーナが持っていく荷物というものはせいぜいこの村の地図とハープ、それから薬草をとる時に使う小型のナイフくらいだ。見渡した部屋は殺風景で、これといって必ず持っていかなければならないものも見当たらない。シーナは思わず苦笑を零す。

 そうしていれば、部屋の扉がノックされた。それから直ぐにウォルの声が聞こえる。

 「先生、ぼくは粗方荷物をまとめ終えました。先生はいかがですか?」

 「ああ、私もまとめ終えたよ。……とは言っても、大した荷物が無いことに今気がついた。大体のものは森に入れば手に入るだろうからな」

 扉を開ければ、ウォルはぱんぱんに荷物が入れられた鞄を片手にシーナの部屋に入ってきた。シーナのまとめた荷物がハープと地図、それからナイフだけなのを見たウォルは、首を数度縦に振ってみせた。

 「あまり荷物が多すぎると、あとで大変になりますから少なくても良いと思います。…ぼくは食料は少しだけ持っていくことにしますが、精々持っても二日三日だと思いますから、後は現地調達という形になりますね」

 ウォルがそのように言えば、シーナは「そうだな。美味い肉でも食えたらいいがね」と返すとウォルの頭をぽんぽんと二回優しく撫でてみせる。それから、少し迷ったように視線を彷徨わせた。

 「……なあ、ウォル」

 「はい、なんでしょうか?」

 少年の名を呼んだシーナは、空のように綺麗な色をしたウォルの目を見つめる。そうしてこのように続けた。

 「本当に良いのか?この旅についてくると決断して。この旅は、きっと村の人達に知られたら相当馬鹿にされると思うぞ。月の涙を止めるために宛もなく村の外を彷徨うなんて、狂気の沙汰だってな」

 シーナの言葉はもっともだった。村の人達がウォルやシーナに向けてくる言葉はきっと冷たい。命を溝に投げ捨てるのと、そう大差ないことを今から二人はやるのだから。

 ウォル少年は、シーナの言葉にくすくすと笑った。そのような反応を予想していなかったシーナは、ウォルを見て少し驚いたように目を丸くするが、その様子がおかしくてウォルは更に笑みを零した。

 「馬鹿にされたって、良いじゃあないですか。ぼくには、何も知らずにこの村の中で死んでいくことの方が馬鹿馬鹿しく見えます。父様や母様が生きているとか生きていないとか関係なく、あなたと一緒に色んなことを知りたいんです。それに、もうここまで準備をしてしまいました。今更それを聞くのは、少し意地悪な気がしますよ、先生」

 ウォル少年の真っ直ぐな瞳を見つめ、シーナは喉を鳴らして笑った。「ああ、お前はそういう奴だな。……悪い、確かに意地悪が過ぎた」と返したシーナは、ウォル少年の髪を、次こそはぐちゃぐちゃになるまで雑に撫でた。ウォル少年の透明なガラス細工のような瞳に、シーナは敵わないなと心でつぶやくと、ぐしゃぐしゃになった髪を手櫛で直し始めたウォルを見詰めて旅の行く末を想像して、それから優しく微笑んだ。


 ―― 八 ――


 時刻は明朝。いざ、出発のとき。

 昨晩は早く寝ようと星が見え始める前に布団に入ったのはいいが、ウォル少年は実際あまり眠れなかった。胸を支配するどきどきとわくわくが、ウォルを睡魔から遠ざけたのだ。対するシーナは、今日もウォル愛用のフライパンと木べらのぶつかる音で起こされるという普段通りの様子だった。眠ったのも早かったようで、シーナの目の下には隈ひとつ見当たらない。呆れた様子でシーナを起こすウォルは、普段より落ち着きがなく、そわそわと無駄な動きの多いウォルを、シーナは微笑ましそうに見詰めた。ウォルがこんなに年相応の少年らしい姿を見せるのは随分と珍しい。

 顔を洗うなどの身支度を手短に済ませ、ウォルが作った簡単な朝食―蒸しパンに蜂蜜をたんとかけた美味しいおやつみたいなものだ―をとり、太陽が登る前にこの村を出る。村はまだしんとしていて、灯りが灯る家も見当たらない。唯一ウォルとシーナを見送ってくれるのは裏庭の野良犬達だけだ。

 「どきどきしますね、先生。ぼく、昨日はあまり眠れませんでした…」

 「おいおい、ピクニックじゃあないんだぞ。……なんて言っても仕方ないな。そうは見えないかもしれないがね、私もどきどきしているんだ。お前とおそろいだな」

 シーナはけらりと笑ってウォルを見やった。ウォルは活気溢れる表情をしている。荷物が入った大きめのカバンを肩からかけているその姿は、さながら旅人のようだ。

 「ルグの村とは、少しの間お別れだ」

 シーナの言葉に、ウォルはこくりと頷いた。野良犬たちが小さく吠えたのを聞いて、「別れの挨拶ができるなんて、賢い犬だな」とシーナは微笑んだ。

 「……誰にも褒められない旅が始まるな」

 シーナはそのように言った。その口ぶりは何処か皮肉めいているようにも聞こえた。村の入口の噴水の前に並び、二人は空に浮かぶ月を見上げる。月は相変わらず泣いていた。止まらない雫が森の方へと降り注いでいる。

 「さて、別れの時だ。こういう時こそ一曲弾こうか。この時間にハープを弾くなんて怒られてしまいそうだが、今日くらい許されてもいいだろう」

 シーナはそのように言うと、背に掛けた革の入れ物から木製の小型のハープを取り出した。シーナの愛用のハープだ。アクアグレイの色をした木は遠くの国でしか取れないものだと本に載っていた。木の幹がアクアグレイの色をしていて、葉はまるで血液のような赤黒い色をしている。そんな変わった植物があるとは知らず、初めて本で読んだ時にウォルはとても驚いたのだが。

 シーナが手袋をゆっくりと外す。黒色の手袋の下から覗く白い肌は、いつ見ても不健康極まりない色をしている。シーナは日焼けを好まず、家を出る際には大抵大きな上着を羽織っている。そのせいもあってか、少し心配になるくらいに肌の色が白い。ウォル少年もシーナのことを兎や角言えるほど健康的な肌色をしている訳では無いのだけれども。ほんのり色付いた爪が、ハープのぴんとひかれた弦を引いて弾いた。ぽん、と気持ちの良い綺麗な音が鼓膜を揺らす。ぽん、ぽんと立て続けに鳴るその音は静かなこの時間にとても似合う、優しくて穏やかな音色だった。

 音楽は、いつだって人の心を支配する。シーナが昔そのように教えてくれたとき、ウォルはその言葉の意味を解せなかった。それが、彼のハープを聞いた時になんとなく解ったかのような錯覚に陥ることがある。シーナがその指で優しく弦を弾けば、柔らかい音楽とともに心が穏やかに、優しい感情が胸を支配する。対して、その指で力強く弦を弾けば、力強く何かを訴えるような音と共に、胸の奥には活力とやる気、そして強い希望と行動力が湧いてくる。シーナの奏でる音楽は素敵だった。一音一音丁寧に響くこの感覚を、魅力を、どのように伝えれば余さず伝えられるだろうかと悩んでしまうほどに。村の人達はいつだってシーナの才能を「役に立たない」と罵ったが、ウォル少年はそうは思わない。シーナにしか見せることの出来ない素敵な音の世界は、聞く人をなにか特別なものに変身させてしまうような、そんな気がした。

 ぽんぽんと暫くは弦を弾くのを楽しんでいたシーナは、不意にその手を止めて苦笑した。鳴り響く透明な音楽に耳を澄ませていたウォルは顔を上げ、シーナの表情を伺う。シーナはウォルの髪を一度ぐちゃぐちゃに撫で回し、それから困ったように眉を下げた。

 「……また帰ってくるとは言え、別れというのは如何なる時でも悲しくて寂しいものだな 」

 シーナはそのように言うと、革のケースにハープをしまい始める。ウォルは彼の言葉にどのような返答をすべきか少しの間悩むことになる。どのように言っても、きっとシーナは笑ってくれるだろう。しかし、このように名残惜しそうな顔をして村を見つめる彼を前にすると、気の利いた言葉をひとつやふたつ掛けてあげたくなるものだ。少年は心の内で様々な言葉を描き出し、そしてその中から一番適切だと思われる言葉を選んだ。

 「別れはもの寂しいものですが、別れの後に別れはありませんよ、先生。別れの後には必ず出会いが待っていますよ」

 少年の言葉に、シーナは予想通り可笑しそうに笑った。「お前は本当に燈會ランタンのような暖かい言葉を掛けるのが上手だな」と言ってのけた彼は、ハープをしまい終えた後に改めて噴水越しに静かなルグの村を眺めた。

 「さて、行こうか、ウォル。私たちの喧しい旅の始まりだ」

 ウォルはシーナに倣って同じように村を眺めた。村は夜明け頃の綺麗に澄んだ曙色の空に包まれており、二人の旅立ちを祝しているように感じる。

 「はい、先生」

 そのように返事をしたウォル少年は、振り返って森の方へと歩きだしたシーナの背を追う。もう一度村を振り返ろうと思ったが、敢えてやめておいた。唯一の見送り人である数匹の野良犬たちが、数回吠えてみせる。新たな土地へと足を運ぶ二人には、十分すぎる見送りのように感じた。


 ―― 九 ――


 空が赤く、それから白く染まり始めた頃。村を出てそろそろ三十分が経とうとしている。ウォル少年は村を出ること自体が初めてだ。シーナの隣に並んで村から出ると、直ぐに景色は植物だらけの砂利道に変わった。石ころを蹴り飛ばしてみれば、靴にあたってカンッと良い音が鳴る。村よりもずっと大きく拓けた道、ずっと近くに見える空。村から出て少ししか経っていないにも関わらず、そこに広がるのはウォルにとって知らない世界だった。

 今までは村の建物に隠されていて視線すらやらなかったが、ルグの村付近の空には赤く輝く綺麗な星が見えるらしい。漸く上に登り始めた太陽と泣き続ける月と、それから赤く眩い光をこちらに送る星。夜明け間近の空には沢山の住民が居るようだ、と、ウォルは歩きながら上を見上げた。

 そんなウォルの視界の端に、甘い蜜のような黄金色をしたものが入り込んでくる。ウォルはそれを、本で見かけたことがあった。

 「先生!これは蝶々ですね。ぼく、本物は初めて見ました。本に載っているのは見たことがあるのですが……」

 「あの蝶は羽が薄くて、飴細工のように透き通っている種類のものだな。村よりも此処の方が蜜を持つ花が多く咲いているから、村の方には寄り付かないんだろう」

 黄金色の羽をぱたぱたを動かしてみせる蝶を見て、ウォルは感動したような声をあげて指をさした。ウォル少年の楽しそうな声に、シーナも釣られて楽しげに話す。蝶々はゆらりと舞うと近くにあった花に降り立ち、蜜を吸い始める。黄金色の羽が顔を出した太陽の光を受けて輝く様子はとても綺麗で素敵だった。そんな蝶を横目に、ウォルはシーナに声を掛ける。

 「先生。村の外に出て、まだ三十分も経っていません。それなのに、風景はまるで違いますね。こんなに綺麗な蝶を今まで見たことがなかったなんて、ずっと損をして生きてきた気分です」

 旅が始まって数刻。ウォル少年の瞳には、様々な物事への好奇心が見てとれた。彼は知らないことを知ることが好きな少年だ。今まで彼が知識を得られるのは、シーナの部屋にある本からのみだった。本だけではさぞかし物足りなかっただろう。足元に落ちている斑模様が特徴の小石、砂利道の傍に咲いている野草、空を飛ぶ蝶や鳥。その全てを観察するために忙しなく動く少年は、とても興奮しているようだった。シーナはその様子を見て柔らかく微笑み、彼をこの旅に同行させるのは良い選択だったかもしれないと始まって間もないこの旅に対しての期待を抱く。ウォル少年の好奇心が大いに満たされ、そして彼が沢山の人と出会い、別れ、沢山の物事を知っていく未来が、シーナにはどこか眩しくて堪らなく見えた。むず痒いような胸のざわめきは、この旅への期待と比例しているようだった。

 「ウォル。もう少しすると月の涙が雨となって私たちに降りそそぐだろう。傘をわざと持ってこなかったんだが、大丈夫か?」

 シーナは遠くに見える薄暗い色の雲を見て目を細めた。隣を歩く少年に問いつつ、敢えて傘を持ってこなかった選択を少しばかり後悔する。

 「はい。向こうに大きな植物の葉が見えますし、それを使いましょう。傘なんて、荷物になるだけですからね」

 しかし、ウォル少年は特に気にすることも無くシーナの言葉にこくんと首を縦に振ってみせる。道の端に茂っている大きな緑色の葉を持った植物へと近づくと、丁度いい大きさのものを上手く探しだし、植物へと優しく声をかける。

  「少しいただきますね。大切にしますから」

 そのように告げた少年は、優しく植物を根元から折る。葉は傘替わりにするには十分な大きさで、二本拝借すると、少年はシーナに葉の傘を手渡す。シーナはそれを受け取ると、まじまじと植物を見つめて少しした後に微笑んだ。

 「立派な葉だ。これは薬草にもなる種類のものだから、雨が止んだ後にすり潰して薬にしよう」

 少年はシーナの言葉に嬉しげに首を縦に振る。始まったばかりの誰にも褒められないような陳腐な旅は少年が予想していたよりもずっとずっと楽しく、鮮やかな感情が胸を飾る。高まる胸の鼓動に合わせて足を少し速めれば、すぐに雨が降り始めて二人に降り注いだ。雫が傘替わりの葉に当たる音は、軽快なリズムを奏でている。それはウォルやシーナの感情を揺さぶるには十分すぎる素敵な音楽だ。二人は大股で北西に向かってずんずんと歩いていく。茂る木々達は、もう、すぐそこにある。前方に見えてきた森に、ウォル少年は小さく息を飲んだ。大きな木々は小さな旅人を見つめ、そしてどこか観察しているように見える。歓迎されているかのような静けさの中、二人はもう少しだけ足を速めて森への一本道を進むのだった。


 ―― 十 ――


 森はとても静かだった。森の入口に到着した頃には雫の量も増え、葉の傘では防げなかった雫が若い旅人たちの髪や額を濡らした。雫が地面に落ちる音、傘に落ちる音、濡れた地面を歩く度に靴と地面が擦れる音。それらの音は決して耳障りな音ではなく、寧ろ若い旅人達には心地の良いものだった。

 ずっと辿ってきた一本道は森の直前で途切れており、改めてこの森に足を踏み込んだ者が数少ないということを思い知らされる。幾分か冷たくなったように感じる空気に、ウォルは身震いをして上着の上から腕を摩った。シーナは迷うことなくどんどんと森に入っていく。この森はルグの村に住む村人達の間では「迷いの森」などと呼ばれており、入ったら最後、無傷で森を出ることは不可能だと噂されていた。薬屋のおばさんは、高値で取引されている珍しい種類の薬草を求めてこの森に入っていった自分の旦那が未だに帰ってこないのだとよく村の子供達に聞かせていた。森の向こうに続いている陸地にルグの村と同じように発展している村や国があって、そこに住んでいる人が居たとして、この森で迷い帰れなくなった人はどの程度居るのだろうか。ウォルは身震いをする。

  「迷いの森なんて過剰な言葉だとは思っていたが……」

 不意に、シーナがそのように言った。ウォルが視線をシーナの方へやると、シーナは大きな木の幹を眺めていた。木の幹にはいくつもの傷が付けられていた。

「これは……」

「人工的な傷だな。古いものが多いが、ひとつだけ真新しい傷がある」

 シーナは木の幹に意図して付けられた傷を親指の腹で撫でた後、さらに続ける。

「相当な切れ味の刃物で付けられた傷だな。他の傷に比べると大分深い傷だ。刃の長さも料理に使うようなナイフじゃあないことは確かだ。こんなにいい切れ味を持っていて、尚且つ刃の部分がナイフよりも長い刃物となると随分と限られてくる」

 ウォルはルグの村に住んでいる人々の職業から、刃の長い刃物を所持することを許されているものを思い浮かべた。刃の部分が短い刃物を使う職業ならば、沢山思いつく。薬草屋だってそうだし、魚屋だってそれに含まれるのだから。しかし、今回は刃の部分包丁よりも長い刃物を扱う職業を思い浮かべなければならない。ルグの村では、村人が殺傷能力のある刃物を仕事以外でのプライベートな用事に利用することは禁止されている。イグニス村長が決めたことだ。昔からの決まりで、ウォル自身も父親や母親がウォルが5歳に満たない時からそのように教えてくれたことをしっかり記憶している。

 ウォルは記憶のなかから長い刃を扱う職として思い当たるものを口にしてみる。内心、それが正解であると確信していて。

「……騎士、ですね」

「ああ、正解だ」

 シーナな頷くと、大きなため息を零した。どうやら森に若い騎士の青年たちが入っていったのは間違いないらしい。彼らが無事だと良いが、森の中は静かで、到底近くに彼らが居るとは思えなかった。果たしてこの森の何処に彼らが居るのか検討などつくわけも無い。

「進もう。私たちに出来るのは、この森のどこかに居るだろう若い青年の無事を祈ることと爺さんの望みを叶えてやることだけだ」

 シーナのその言葉に、ウォルは敢えて返事をしなかった。静寂に包まれた森の中を、ふたりの旅人はゆっくりと散策し始めるのだった。


 ―― 十一 ――

 

森の奥へと足を進めれば、空に昇る太陽の光が届かなくなり薄暗さを覚え始める。ウォル少年は持ってきた提燈ランタンに火を灯し、それから葉の傘で急いで提燈の火が雨に濡れるのを防ぐ。柔らかい赤色の光は少年の灰が掛かった桃色の髪を優しく照らし、辺りは少しだけ明るさを取り戻したようだった。

 シーナは木についた切り傷を追って森を進んでいた。森に入って既に三回朝日を眺めた。歩き続けたことで靴が濡れた土のせいで随分と汚れてしまったが、気にしてはいられない。あれからは休みを挟みながら歩き続けているものの、人どころかモンスターにも会えていない。本当にこの森に植物以外の生命が存在するのかと疑いたくなるほどだった。

「少し休もうか。腹が減ってな」

「ええ。それでしたら、此処にまだ木の実が残っていますよ。干し肉も少しありますから、これをどうぞ」

 少年は茶色の布の袋の中から木の実や干し肉を取り出してシーナに譲り渡した。シーナは感謝の言葉を口にしてそれを受けとり、その後でウォルを眺める。

「干し肉も木の実も、今回の分で終わりそうだな」

「……はい。もう少し余分に持ってこれば良かったですね」

「いや、この程度が適切だ。しかし参ったな。森に入れば低級のモンスターが山ほどいると予想していたんだがね」

 シーナはそっと眉根をよせ、それから干し肉を一口齧った。ウォル少年は木の実をふたつ口に含み、それからおずおずとこう口にする。

「先生…、この森はすこし可笑しいですね。これも月の涙の影響なのでしょうか。ぼくも、森にはモンスターがいると思っていたのですが、真逆こんなにもモンスターが居ないのは…」

 少年は辛抱できないといった口振りで言い切ると、自分の師を見詰める。少年の言葉に、シーナは首を縦に振ってその言葉を肯定するとわざとらしく肩を竦めた。

「生物が居ないのは、確かにお前の言う通り可笑しい。爺さんの話によれば、本当であれば森の中は今の状況とはまったく反対の筈だからな。爺さんが嘘をついているとも思えない。きっと、何か原因があるはずだ」

「……」

  ウォル少年は、眉根を寄せてきゅっと口を結ぶと黙り込んでしまう。なにか理由があって森の中がこんなにも静かなことは明白だったが、その理由というものがまったく検討もつかないのだ。危険な生物で溢れかえる森というのも些か嫌なものではあるが、こうして話に聞いていたものと現実が大いに違うとなると更に不気味に思えてくる。

 険しい顔をしている少年を見て、シーナはくすりと笑って頬を緩めた。そうして、皺の寄った少年の眉間をそっと人差し指で突くと、優しい声色でウォルに声を掛けた。

「そんな顔をするな、ウォル。歩いていればこうなっている原因も見えてくるさ」

 シーナが諭すような言い方をすれば、険しい顔をしていた少年は数回頷いてから身体の力を抜いて微笑んだ。

 「そうですよね。先を急ぎすぎちゃいました」

  「旅は始まったばかりなんだ。こんなことで気を揉んでいたら、胃に穴が開いてしまうぞ。胃に穴が空いてしまっては美味いものも食べられないから、胃は大いに大切にすべきだ」

  シーナは故意に冗談めかした言い方をする。そんなシーナの言葉に首を縦に振った少年は、一度深呼吸をした後に改めて周囲を見渡すことにした。動物やらモンスターの足跡、独特な匂い、もしくはそれらの食べ残しや巣があればと思ったのだ。しかし残念ながら、彼の目にはそのようなものは何一つ映らなかった。代わりに、地面に生えている小柄な植物の葉の下に隠れているキラリと光るものがあることに気がついた少年は不思議そうに首を傾げてそれをじっと見詰めた。

(なにか落ちている……?)

  遠くから見ただけでも光を反射するそれが金属の類であることは判断できる。少年は再び歩き出した自分の師の背に声を掛けると、もう一度視線を金属製のそれにやった。

「先生、この森の中で金属の類の落し物があるというのはおかしいですよね」

「……おかしいな。少なくともルグの村では、この森に入れるのは騎士だけの筈だし、滅多に人なんて来ない筈だ。金属製のもの、となると、動物やモンスターが落としたものとも思いにくい。……ウォル、そんなことを聞くということは、なにか見つけたのか?」

「ええ。ほら、この葉の陰に」

 少年が指さした方に視線をやったシーナは、金属で出来た落し物に近づくとそっとそれをつまみ上げた。それは金属部分で出来たペンダントトップに、紐が通されているペンダントで、どう見ても人があまり入らないようなこの迷いの森には似合わないものであった。

「女性物のペンダントだな」

「……!!それは!!」

 シーナが手袋の上でそっとペンダントを転がすのを見て、ウォルは空色の瞳を見開く。そうして、じっとシーナの手の上のペンダントを眺めた後に、二度頷いた。

「それ、騎士のお兄さんのものです。髪をひとつにまとめている、ララさんのものだと思います」

「あの赤毛の騎士の……」

 シーナは眉根を寄せてじっと月のような色の瞳をペンダントに向ける。もう一度首を縦に振ってシーナの言葉を肯定したウォルは、このように続けた。

「少し前に、ララさんから母親の形見だと見せてもらったことがあるんです。きっと間違いありません。デザインが珍しいものだと仰っていましたから、よく覚えているんです。もしも本当に彼のものなのであれば、ペンダントトップの金属部分の裏側が、蝶の羽のような独特な模様をしているはずです」

 シーナはそっとペンダントトップを裏返し、そしてそのデザインが確かに蝶の羽のようなデザインをしていることを確認した。そうして少年の方を見て首を縦に振ると、「この近くに、行方不明となった騎士達が居るかもしれない」と口にする。

 「騎士のおふたりが!?」

 ウォルは驚いた顔をして、それからもう一度辺りを見渡した。しんと静まり返った森の中に騎士の二人や彼らの馬の影が見つかることは無い。それでもこのペンダントを見つけたのは大きい進歩だ。シーナはウォル少年に目をやると、はっきりとした口調でこのように言う。

「本当に彼らがこの森に入った上で森の中を彷徨って居るのなら、騎士の二人が弱っている可能性や、モンスターに襲われて怪我をしている可能性も考えられる。声が出せない状況に陥っているとも考えられるから、兎に角意識を配りながらこの先を進もう。血の匂いや息遣いで気づくことが出来るかもしれない」

「わかりました」

「ペンダントについてだが、紐が鋭利なもので切られているように見えるんだ。母君の形見なら、自ら切ったとも思えない。ましてやあのララが、そんなことをするとは尚更思えないな。……嫌な予感がする」

  師の言葉に首を縦に振った少年は、森の中で事切れているかもしれない二人の顔を思い浮かべ、眉根を寄せた。今は、改めて騎士のふたりが無事で居ることを心の中で切に願うこと以外に出来ることはない。

「この森にモンスターが居ない理由が、彼らに関係していないことを祈るしかないか」

  そのように呟いたシーナの顔を、少年はそっと見上げた。暗い森の奥を睨みつけるように見つめる師は、何時になくウォルがこれまでに見たことの無いような険しい顔をしていて、更にウォルの胸の内を不安に染め上げるのだった。


 ―― 十二 ――


 それから三時間ほど経っただろうか。薄暗い森を更に進むと、次第に若い旅人たちの鼻を生臭い臭いが劈き始めた。ウォルは顔を顰め、そうして師を見やる。師であるシーナもまた、険しい顔をしながらしきりに辺りを見渡して居るのだが、その視界に生臭い香りの根源が映ることは無かった。

ウォルはこの生臭い臭いに心覚えがある。というのも、ウォル少年はルグの村ではよく薬草屋の娘やおばさんに傷の手当の仕方を教わっていたのだ。よって、この臭いが怪我をした際に香る独特の血の香りであることは、ウォル少年にとっては容易く察しがつくのだった。

「先生……」

「言わなくても分かっているさ。少しずつ臭いが濃くなっている。きっと、この周辺に負傷した騎士が居るに違いないだろう」

 ウォルの言葉の続きを待たずに発言したシーナは、そっと息を潜めるように囁く。「負傷で済んでいれば良いがね」と続けたシーナに、ウォルは手の内のペンダントをきゅっと強く握る。

「そうですよね。先生、向こうに行ってみま――」

「ウォル、待て!」

 ウォルがシーナに声を掛けるが、その言葉はシーナの焦ったような声でかき消される。その瞬間、師の言葉に思わず口を閉ざした少年の背後で、がさがさと、草の揺れる音が響いたのだ。ウォル少年は、なんとも形容し難い、背筋が凍るような感覚を覚えた。自分の前に立つシーナは、口元こそにぃっと笑みを浮かべているもののその額には脂汗が滲んでいて、その視線はウォルの背後へと向けられている。少年は一度深呼吸をして覚悟を決め、そうしてゆっくりと振り返った。振り返った先で空色の瞳に写った存在に、ウォルは思わず叫んで逃げ出しそうになった。

  そこには驚く程大きな、それこそシーナの百七十三センチの身長をゆうに超えるほどのサイズの鳥が立っていたのだ。クァア、と少し高い気味の悪いゾッとする声で鳴いた鳥はぎょろりと太陽よりも赤い瞳で此方を見下ろして睨みつける。白色の羽には赤い血液がこびりついているのを確認したウォルは、やっとの思いで悲鳴を喉奥で噛み殺した。

「おいおい、森に低級のモンスターが居なかったのは、が原因かよ……」

 シーナの言葉に、鳥はまるでその意味を肯定するかのように一鳴きしてみせた。

「先生……」

 ウォルの声が情けなく震えている。それに気がついたシーナは、ウォルを庇うように弟子の腕を引くと自分の背に隠した。ウォルは師のその背の心強さに涙が出そうだと感じてしまう。だが、シーナはハープ弾きだ。到底、このような鳥のと戦えるとは、ウォル少年自身思えなかった。しかし、シーナはウォルを安心させるように微笑むとそれから背の位置にある皮の入れ物に手を伸ばした。

「いいか?ウォル。どこでもいい、何か洞窟があるならそこが一番良いだろう。兎に角、その身を隠せる場所を探すんだ」

「ですが、先生は……」

「逃げ場が見つかったら指笛を吹いてくれ。私は耳が良いんだ。きっと気がつくだろう。お前の指笛が聞こえれば、私はこの鳥と戦うのをやめて音のした方向に全力で逃げる。……分かったな?」

 シーナは月のような綺麗な色の瞳を優しく細め、自分の愛弟子を諭す。少年が首を縦に振ったのを確認し、シーナは鳥へと向き直ると、「来いよ化け物、焼き鳥にしてやる」と口にしてにっと口元を緩めた。

「行け!ウォル!」

 シーナがそう声をあげたのを合図に、鳥の化け物もまたその大きな足を動かし始める。ウォルは自分の師に背を向けて走り始めた。隠れられる場所を探せ、とは、この森の中では無理難題のようにも思う。けれども、見つけ出さなければ間違いなくハープでしか戦うすべを知らないシーナ・ブルックスという男は、あの鉤爪によってぐちゃぐちゃの肉の塊に成り果ててしまうだろう。

 (木の実を探すのと同じ要領だ、すぐに見つかる)

 ウォルは首を横に振ると空色の瞳で周囲を見渡した。大丈夫だと胸の内で三度唱え、そうして嗅覚や視覚を頼りにして岩の近くや変に段差ができている木の影を見て回る。遠くからシーナの何やら馬鹿にしたような煽るような言葉を並べる声と鳥のあの気味の悪い鳴き声が聞こえてくる。まだ勝負はついていないらしい。

 ほっと息を吐いた少年は、木の影から「……アーヴァインの少年?」という、なんとも細くて小さな声が聞こえることに気がついた。ウォルは思わず声を荒らげた。

「……騎士の……!レルディさんですか!?」

「…………夢じゃあないらしいな」

 沈黙の末にため息混じりに聞こえたその声は、疲弊しきっているようだ。急いで駆け寄れば、ペンダントを落とした方ではない、もうひとりの騎士である白髪のレルディという名の男が木に背を預けて立っていた。

「……!怪我を!」

「大丈夫だ、そんなに酷いものじゃあない。向こうにある洞窟の中にララが居るが、そっちも怪我自体はそこまで酷くないんだ。歩いて帰れる程度の傷なんだが、何せあの鳥が……」

 若い騎士は、シュガーのような淡い色をした己の髪をくしゃりと掻き回した。額や腕に切り傷があるのを見るに、どうやらレルディはあの鳥に襲われたらしい。彼が言うように深い傷ではなさそうで、立って歩くにも支えなどは必要なさそうだ。ウォルは胸を撫で下ろすと、「洞窟にララさんも居られるのですね。ご無事で良かった」と零す。

「…ところで、アーヴァインの少年は何故迷いの森に?ここに入るにはイグニス村長の許可が必要なはずだ。ましてや君のような少年がこんな危険な森に……」

 騎士が怪しむような口振りで言い切った。恐らく、こっそりこの森に忍び込んだとでも思っているのだろう。ウォルは態とらしく肩を竦めるとこのように返した。

「先生と……。ハープ弾きのシーナ・ブルックス先生と村の外を旅することになったんです。その第一歩めがこの森だったんです」

「……成程。俄には信じ難いが、今此処に君がいるのが何にも勝る証拠だろうな。……ところで、アーヴィンの少年。隠れ場所を探していたんだろう?」

 レルディが顔を上げて森の奥を指さした。ウォルは首を縦に振り、その言葉を肯定する。

「はい。……向こうで先生があの鳥と戦っているんです!隠れ場所を見つけた後で指笛を吹けと指示されて…」

「それは一大事だ!急ごう!」

 ウォルの言葉に目を見開いたレルディは、そう言うとウォルの細い手首を掴んで走り出す。足をもつれさせながらもレルディに合わせて大股に走るウォルは、まだ遠くで鳥が気味の悪い声をあげているのを耳にすると目を伏せて自分の師の無事を願った。どうか、ウォルが知る限り誰よりも不健康な色をした白い肌が、つい先日作ったジャムに似た色をした鮮血で染まっていないことを。


 ―― 十三 ――


  はあはあと二人分の息が生暖かい洞窟内に響く。レルディに連れられて辿り着いた洞窟は薄暗くて血腥かった。急いで走ってきたこともあり息も絶え絶えだったが、今はそんなものに構っていられないと言わんばかりに、洞窟に飛び込んだ瞬間にウォルは指笛を吹いてみせる。指を口にあて、できる限り強く息を吹くと、ピーッと高い音がはっきりと大きな音で鳴った。

 洞窟内に響いたそれに反応してか、洞窟の奥から人が歩いてくる気配がする。隣に立っていたレルディは、その気配に思わず後ずさったウォルの肩に手を置くと「大丈夫だ」と一言こぼし、気配の方を見やった。ウォルは困惑したような顔をしながらも同じように洞窟の奥に目をやる。

 結果から言うのであれば、洞窟の奥から歩いてきたのはペンダントの持ち主であるララだった。レルディが言っていた通りララもまた怪我をしているようだったが、命に関わるような傷は見受けられない。ララはウォルの姿を確認すると橙の瞳を大きく見開き、それから口を開いた。

「……ウォルじゃないか!どうしてこんなところに!?」

「ララさん!ご無事で良かったです。ぼくはシーナ先生と村の外へ旅に出る途中で鳥に遭遇して、ここに逃げてきたんです」

 ウォルの言葉を聞いたララは怪訝そうな顔をして「村の外へ?」と繰り返した。それも無理はない。ウォルのようなまだ職も持たぬ少年が村の外へ出る理由など、ララにとっては全く検討もつかないだろう。

「月を泣き止ます術を探し出せと、村長から頼まれたのです。だから、その方法を探すために他の村や街に行こうと入ったのがこの森で……」

 ウォルは成る可くわかりやすい言葉を選び取りながらララに説明をする。落ちていたペンダントトップのおかげで近くにララが居る可能性に気がついたのだとペンダントトップを渡せば、ララは「探していたんだ!ウォルが拾ってくれてよかった」と言って嬉しげに微笑んだ。

  ウォルの話を粗方聞き終えたララは、顎に指を当てて「なるほどな」と返す。どうやら、ウォルが森に居る理由をちゃんと理解してくれたように見えた。ララはそっと切り傷が目立つ逞しい腕をウォルの灰が掛かった赤色の髪に伸ばし、口を開いた。

「……話はわかった。聞いた限りだと随分無茶な話だが、あのハープ弾きとなら本当にやってしまいそうだな、ウォル」

「勿論、やってやるさ」

 ララがウォルの髪を撫でながら発した言葉に返答したのは、ウォルではなかった。ウォルよりも先になんとも生意気な口振りで言葉を返した男が居るのだ。ウォルは顔を上げて声の主を確認する。そうして、ここ最近で一番の嬉しげな声をあげた。

「シーナ先生!ご無事で良かった!」

  思わず自分に飛び付いたウォルを、シーナはそっと受け止めた。シーナの身体を見てみるものの、不健康な色をした肌に血液の赤黒い色は見当たらない。ウォルはほっと胸を撫で下ろすと心底安心したと言わんばかりの笑顔を浮かべた。そんなウォルの髪を今度はシーナがくしゃくしゃに撫で回し、そしてすぐにその口を開いて言葉を発する。

「焼き鳥にしてやるには至らなかったがね。……ウォルこそ、洞窟だけじゃなくて騎士達も見つけるなんてお手柄じゃないか」

 シーナの言葉にウォルは胸を張り元気に返事をする。シーナはそんなウォルを見てもう一度優しく微笑むと、すぐに真剣な表情を浮かべてララとレルディに視線を移した。

「さて、騎士の二人と再開したのは良いが、無事にこの森を出るにはあの鳥をどうにかせねばならないな」

 騎士の二人が首を縦に振ってシーナの言葉に同意を示した。シーナは地面に腰を下ろし、そして胡座をかく。ウォルはその隣に三角に足を曲げて座り、シーナに習ってララやレルディもそのまま胡座をかいて地面に座り込んだ。

「兎に角、まずはあの鳥があそこまで怒っている理由が知りたい。心当たりがあるんだろう?」

 シーナは騎士のふたりをじっと見詰めた。まるでその理由を彼らが知っていると確信したような口ぶりだ。騎士の青年たちに向けられたその視線には冷たさはない。しかし、言い逃れは許さないという明確な意思が汲み取れるようなものであるとウォルは感じた。

「……先生、あの鳥は怒っているのですか?ぼくにはそのようには感じられませんでした。人間というものが珍しくて敵意を向けているようにしか……」

「間違いではないさ。人間というものは、あの鳥にとっては随分と珍しいものだろうな。きっと警戒はする。……しかし、あの鳥は普段はもっと温厚で優しい性格をしているんだ。きっと人間を見たって襲っては来ない。精々逃げ回るか隠れるかだろうな。これはお前に貸した本にも載っていたことだよ」

 シーナはそこで一度言葉を区切り、そしてすぐに続けた。

「それに、鳥は怒りを覚えると体を大きく見せるような体勢を取るんだ。とは言っても、あの種の鳥は元が巨体だからその行動に目が着く人はまず少ないがね。加えてあの鳥はずっと私を狙いながらも周りを気にするような素振りを取っていたんだ。きっと何か大切なものを探しているに違いない。例えば――」

 シーナはそう言うとララを指さした。いや、正しく言うのであればを指さしたのだ。

「子供や卵、なんてものはいい例になるだろうよ」

 ウォルはばっと振り返り、視線をララの後ろにやった。ララの後ろには騎士二人分の荷物が寄せられて置いてある。じっと目を凝らせば、その影で小鳥が座り込んで眠っているのが見えて、ウォルは驚いた表情とともに次は騎士二人に視線をやった。

「あの小鳥!」

「…ああ。ハープ弾きの言う通り、恐らく俺らがあの小鳥を親鳥から離したのが悪かったんだ」

 そのように口を開いたのはララだった。太陽のような橙の瞳をそっと伏せ、苦笑を浮かべている。

「提案したのは俺だ。俺達は薬屋の娘が見たという化け物の退治のためにこの森に入った。結論から言うとそんなものはいなかったんだが、たまたますれ違ったあの小鳥の足から血が流れているのが見えたんだ。恐らく木の棒にでも引っ掛けたんだろうな。放っておいても良かったんだが、噂に聞くとこの森には山ほど凶悪なモンスターが居るらしいじゃないか。森に入ってから見かけたのは全て低級のモンスターだったが、この先上級モンスターに出会う可能性もゼロではない。だとしたら、小鳥のあの足だともしもの時に逃げられないんじゃあないかと、そう思ってな」

 続けてララの言葉に補足するようにレルディが口を開く。

「実際、小鳥は人間の俺たちですら簡単に捕まえられた。誓って小鳥にとって害になることはしていない。持ってきた薬を傷口に塗ってやって布で巻いてやったのと、気持ち程度だが干し肉を分けてやった。小鳥の足は随分良くなったから、親鳥に返してやろうと思ったんだが、小鳥を抱いてあの鳥に近づいた途端に襲いかかってきてな。思わずこの小鳥を抱いたままこの洞窟に逃げ込んでしまったという訳だ」

 ララもレルディも真剣な表情を浮かべていて、彼らの言葉に嘘偽りがあるようには思えなかった。シーナもまた、「なるほど、親鳥が子を攫われたと思うのも無理は無いな」と納得したように数度首を縦に振っている。

 向けられた多数の視線によってか目を覚ました小鳥は、ぴぃぴぃと鳴いてみせるとララとレルディの間まで歩いてくる。そして二人を目に写しながらぱたぱたと羽を振って見せた。それはダンスを踊っているようにも見えて可愛らしい。

「随分懐いているようだな。その小鳥にとっての君たちは字の通り恩人そのものだろうよ。となれば、きっと自分の親が恩人である君たちを襲うのを見ると、この小鳥は少なからず傷ついてしまうだろうね」

「それは望ましくない。……どうにかならないか、ハープ弾き。俺達は騎士だ。何かを守るために剣を使う仕事をしている。しかし、俺達が持つあの剣は今は鳥にとって更に警戒心を煽る道具に過ぎないだろう。……となれば、俺が思いつくのはこの身一つで体当たりくらいだ」

 シーナの言葉に、ララが眉根を寄せてそう言った。その言葉を待っていたと言わんばかりに得意げな表情を浮かべたシーナは、ララを見詰めるとこのように口にする。

「…野蛮な発想はよしてくれ。私は平和主義者なんだ。勿論、方法はある。要は、あの鳥の気持ちを沈めさせて小鳥に怪我が無いことを確認させるで良いんだ」

 シーナはそう言うと、そっと黒い手袋を外し始める。ウォルは、その行為の意味を知っている。シーナがその手袋を外すときに、決まってハープを弾くのだ。

 ――しかし、何故今ハープを?

 ウォルは自分の師の黄色くて優しい瞳を見詰め、その意図を読み取ろうとする。勿論、少年のその思惑は、残念ながらかないそうも無いのだが。

「ウォル。お前なら、今から私が何をするのか予想がつくだろう?その予想は大正解だ。私はお前が今浮かべていることをそのままそっくり行動に移すだろう。……さて、不思議で仕方ないといった顔をした弟子に、ひとつ先生らしいことを教えてやる」

 シーナはアクアグレイの色をしたハープを皮の入れ物から取り出すと、薄く色のついた爪で弦を弾いた。それからララ、レルディ、ウォルというように順番に目を合わせてからにっと笑って続ける。

「この世を住処として生きるどの生物も、心と耳さえあれば良い音楽は良く聞こえるものだよ。…これは真理だ。この世に生きるどんな生物にも変えることの出来ない、音楽という名の無限大の可能性が導き出したたったひとつの真実だ」

 ウォルは、その言葉の意味を理解するのに少しだけ時間を要した。そして、その言葉を咀嚼して嚥下した先で、思わずこのように感じてしまったのだった。

 (ああ!なんて素晴らしいのだろう!シーナこの人は、ぼくを納得させるのがあまりにも上手すぎる!)

 シーナは少年が言葉の意味を解したのを確認すると、悪戯を仕掛けたあとの子供のような顔をしてハープを構えた。

「着いてきなさい、ウォル。旅の始まりに相応しい、素晴らしい幻想曲を聞かせてやる」

「はい!先生!」

 少年の元気な返事と共に、シーナは腰を上げた。洞窟の入口付近で親鳥の奇妙な鳴き声が聞こえてくる。その鳴き声は先程までは少年の心を恐怖に染めあげていたが、今は不思議とそんなことはない。前を歩く頓珍漢なハープ弾きはら誰よりも楽しげな表情を浮かべている。シーナは数歩歩き出してから、忘れていたと言わんばかりに足を止めてララとレルディを振り返る。そうして、ララとレルディの間でコミカルなダンスを披露している小鳥を指さすと、小鳥を抱えて自分についてくるようにと指示をした。

「正気なのか、お前達は!ハープで鳥を落ち着かせようだなんて無茶だ!」

 レルディがそう言って険しい表情をする。しかしシーナは表情をひとつも変えない。態とらしく考える素振りを見せたあとで、シーナはレルディにこのような言葉を投げ返した。

「残念ながら正気だ。いっそ、この思考や行動を狂気だと捉えてもらっても構わない。流血を必要としなければ叶わないような方法など、最初から求めちゃあいないんだ。無茶でも苦茶でも良い。穏便に全てが片付く方法があるのなら、それを試してみるに越したことは無い。……そうは思わないか?」

 レルディは眉根を寄せるものの、返す言葉は見当たらないらしかった。そんな彼から視線を外したシーナは、次こそ洞窟の入口付近へと足を向けるのだった。


 ―― 十四 ――


  あと十歩歩けば洞窟を抜けてしまう。そのくらいまで歩みを進めたウォル達は、シーナの指示によって漸く足を止めた。鳥は既にこの洞窟にシーナやウォルが隠れていることに気がついているらしく、赤い瞳で洞窟の穴を覗いてみたり、鋭い爪を此方に伸ばしたりしている。

「さて、行こうか」

 シーナは左手で抱いて固定したアクアグレイの色のハープに視線をやると、手袋を外した右手の指先でそっと弦を弾いた。ぽん、と高い音が鳴る。ウォルは二十二の弦のひとつひとつを丁寧な、確かな手つきで奏でるシーナの姿をじっと見詰めた。使える全ての指を利用して弦を弾くシーナの奏でる音楽は、魔法のように聞き手の心を穏やかにする。シーナは楽しげに笑うと、また歩き出した。そうして、洞窟からその身を出してしまった。

 クァアと気味の悪い声をあげていた鳥は、シーナがハープを弾きながら目の前に躍り出たことに興奮しているようだった。その鋭い爪先をシーナに向かって振りかざすものの、シーナはなんてことないようにそれをさらりと躱してしまう。

「覚えておきなさい、ウォル。鳥は耳がいいんだ」

 不意にハープを弾くことを辞めないままシーナが笑って言った。その視線はハープに向けられたままだったが、自分の師の語るその言葉は確かにウォルだけに向けられたものだ。ウォルは返事をするのを忘れるほどに目の前の光景に浸っていた。そうして、師がこの後で続ける言葉に耳を済ませる。

「鳥は人間よりもずっと複雑な音を聞き取ることが出来る。つまり、ハープを聞くにはうってつけの観客という訳だ」

 鳥はあれからもシーナに攻撃を仕掛けているものの、その全てを綺麗に躱されている。加えて鳥の動きは徐々に遅くなっているように見え、シーナのハープの音が届いていることは間違いないようだった。

 「……本当にハープひとつで鳥を宥めてしまうのか、あの男は」

 ウォルの隣に立って目の前の光景を見ているレルディが、呆然と信じられないものを見ているかのような声色でそう口にする。ああ、本当に魔法のようだ。幼い頃に読んだ魔法使いの物語のように、シーナは本当に魔法を使えてしまうのかもしれない。ウォルは心の中でそのように呟き、師を疑いもせずに見詰めた。シーナの指先が奏でるその音楽は、森に響き渡って反響した。静かな森でたったひとつ、このハープの音はやけに異質なものだったが、この場でシーナに演奏を辞めろと口にするような存在は誰一人居ない。

 やがて鳥は完全にその動きを止め、じっとシーナの奏でる音楽を聞き取ろうとじっとその巨体を縮こまらせて座り込んだ。その様子を目にして嬉しげにひゅう、と口笛を吹いたシーナは、自分よりもずっと大きい鳥の化け物を前に怯えるような素振りをひとつも見せないまま演奏を終える。最後の一音が響き、そして森に溶けるように消えていったあとで全員を包んだ沈黙を破ったのは、ララの腕の中でぴぃぴぃと鳴く小鳥だ。

 小鳥はララの腕を離れるとぴぃっと鳴きながら親鳥の元へ歩き出す。ララやレルディによる懸命な手当のおかげで、何の不都合もなく確かな足取りで歩いていくのを、シーナ達は優しく見守った。親鳥は我が子の無事を確認するとすぐに身体を起こして嬉しげな鳴き声を発した。再会を果たした鳥たちは、暫く会話を交わすように鳴いていた。親鳥が小鳥の身体に怪我が無いのを確認するために数度小鳥の周りをくるくると回っていたが、それも数分で落ち着き、その後で若き旅人たちにもう一度目をやった親鳥はクァッと嬉しげに鳴いてみせる。そんな様子にシーナは可笑しくて仕方がないと言わんばかりにくすくすと笑ってみせた。

「誤解は解けたらしいな」

「本当か?良かった…」

 ララが安心したと言わんばかりに脱力したように座り込む。レルディもまた、ほっとしたような表情を見せた。鳥からはもう殺意は感じられない。我が子の無事を確認したこともあってか、随分と嬉しげな親鳥は、座り込んだララとその隣に立つレルディの服を順番に咥えて自分の背へと二人を乗せた。

「おいおい、謝罪のつもりか?ったく、こっちはお前のせいで随分と苦労したんだぞ」

「丁度いい、ルグの村まで乗せてもらおうか」

 なんて呆れたように笑う二人は、満更でも無いような顔をしているように見えた。鳥はその言葉を解してか否か、返事をするように鳴いてみせる。

 ――どうやら、別れの時らしい。

 ウォルはそのように思う。勿論、そのように感じたのはウォルだけではない。鳥の背に乗せられた騎士二人はそれぞれがシーナやウォルに対する感謝の言葉を述べた。

「本当にありがとう。アーヴァインの少年に、ブルックスのハープ弾き。二人に出会わなければ、俺達はきっとルグの村には戻れなかった」

「ウォル、シーナ、元気にやるんだぞ。帰ってきたあとで沢山の話を聞くことができるのを期待している。何年の時間掛かろうとも待っているから、どれだけの月日が流れたとしても安心してルグの村に帰って来るんだぞ」

 その言葉を向けられたウォルは、なんだが心がくすぐったいように感じた。シーナは普段の調子で「お前達も元気にやるんだぞ。イグニスの爺さんをよろしくな」なんて返している。

「それじゃあ、またいつかの日にルグの村で再会しよう」

「おふたりとも、どうかお元気で!」

 シーナの言葉続いてウォルは騎士二人に頭を下げた。騎士二人は右手で拳を作ると自分の胸にそれをぐっと宛がう動きをする。ルグの村ではその行為は敬礼に限りなく近い騎士の挨拶として知れ渡っているのだ。鳥がタイミング良く羽を広げ、空へと羽ばたき始め、やがてルグの村の方向へと飛び去る。親鳥の後に続いて羽ばたき始めた小鳥も、その背をおってゆっくりと飛び去った。若き旅人たちはその姿を見送ると、やがて顔を見合せて楽しげに微笑む。

「さあ、私達も行こう。」

「はい、先生」

 長い旅は、まだ始まったばかりだ。

 後にこれを本に記したウォル・アーヴァインは、この森での出来事を【鳥に奏でる幻想曲】と名付けた。ページは新たに紡がれ始める。続くは、また新しい物語へと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

そして私は、月と奏でる キノ @kino__5

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ