第4話
何とか家までたどり着いた時には疲れ切っていた。何より無事に家までたどり着けたことに心底ほっとした。大仕事をやり遂げたような達成感で満たされ、ソファに倒れ込んだ。
家より素晴らしい場所はない。本当にそう思う。
まもなく眠気がやってきた。
そうだ。一旦寝てみよう。朝のあの様子は日々のストレスが影響したのかもしれない。
私はたぶん疲れている。ゆっくり休めば何事もなかったようになると信じて眠った。
目が覚めた。外はすでに白んで夜がまもなく明けようとしていた。
テレビのリモコンに手を伸ばして電源を入れるとニュース番組が流れていた。
キャスターの話す内容を聞こうとして、知らない言葉だと気付いた。
寝ぼけているだけかもと淡い期待を持って集中して聞いてみても同じだった。
顔を知っている人が知らない言葉を滑らかに話しているのはとても奇妙だ。
夢ではなかった。私以外の人はこの知らない言語を話す世界に私はいるのだ。
ということは昨日に続いて、今日も会社に行けば上司や同僚が知らない言葉で話し、知らない配列のキーボードを打ち、見たことのないお金を使って自動販売機でコーヒーを買わなくてはならないのだ。いや、正確には昨日はほぼ何もしていない。今日からはそれらをやらなければならない。気が遠くなる思いがした。
最も問題はキーボードの配列が分からないということだ。これは仕事に支障を来す。
支障を来すどころか、データ入力が仕事の私は文字が打てなけば何も出来ないに等しい。仮に仕事に参加できたとして、今の自分がキーボードを打てない
ことを上司や同僚に説明することができない。何より職場全体に迷惑をかける。
だめだ。今日は休みを取ろう。そう決めた。
と同時に気付いた。上司に電話で休みを申請するのか。
みんなが話すあの言葉は今は話せないので英語で何とか言うしかない。
ああ、TOEICのビジネス仕様を勉強しておくんだったと今更ながら後悔した。
とはいえいきなり流暢に英語を話せるはずもない。今の英語力を総動員するしかない。
上手く言えるのか。私の言いたいことは伝わるのか。もし聞き返されたりしたら。
ためらいで手が止まる。
長考しそうになり、ふと時計に目をやると、そろそろ連絡しなくては無断欠勤になりそうな時間だった。考えている暇はない。思い切って上司の携帯の番号をプッシュする。
「สวัสดีครับ」
すぐにつながった電話の向こうで上司の声がした。
「あ・・・、Good morning, boss」
ボス?口が勝手に言ってしまったが、上司のことはボスで良いのか?
そんなふうに呼んだことないけど。頭の中で思いながら間を開けずとにかく続ける。
「I・・・I want to take a day off today.because I have a terrible headache.」
こんな感じで良いんだろうか。伝わるのかな。休みたいってこれで良いんだっけ。
上司に対して失礼な言い回しになってない?
電話の向こうは無言だった。この沈黙は何だろう。何か他に言うべきだろうか。
けれどもう言えることが何もない。これしか台詞を準備していない。
同じ内容を繰り返すべきだろうか。不安に駆られて口を開き書けた時、
「OK.หายไวๆนะ」
私の返事を待たず電話は切れた。何を言っていたか分からなかったがOKは聞こえた。
絶対に言った。OKだけは確実に分かった。
「良かったぁー・・・」
たぶん伝わった。何とか言いたいことを分かってもらえた。
本当は英語での丁寧な言い方など検索したかったけれど、スマートフォンのキーボードも知らない言語になっていて調べられず、まったく自信が持てなかった。
とにかく、今日1日の休みは確保できた。やった。これだけでもすごい進歩だ。
が、今日はこれで終わりではない。
この1日でとにかく、明日からの仕事を何とか乗り切るための言葉を身につけなければ。
付け焼き刃だがそれほど切羽詰まっている。一夜漬けだろうと何だろうと取り組もう。
本棚の奥に眠っている学生時代の英語の参考書を引っ張りだす。
開くと、日本語の部分は別言語になってしまっていたが、英語の部分は英語のままだった。
学生の頃何度も読み込んでいたおかげで、日本語が書かれていなくてもどんな内容だったか思い出すことができた。それが分かれば自ずと英語で書かれている内容が分かった。
参考書を何周も復習していたら1日はあっという間に過ぎて、倒れるように眠った。
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