第2話
私自身は一歩も動いていないけれど、突然目の前に現れた彼らによって劇的に変わってしまったのだ。そしてそれは決して悪い体験ではない。
むしろ開いていなかった目を開ける感覚。使っていなかった体の一部を動かす感覚。
私は何の期待も思惑もなくただの興味本位で毎週録画の設定をした何週間か前の自分に心から感謝した。よくぞやったと。
私の日常は一変した。仕事中もドラマの脳内再生が止まなかった。
次回はどうなるだろうと予想もしてみた。予想通りに展開したことはないのでどうせ裏切られることは分かっていてもとにかく思案してみた。
それにより仕事に支障が出ることはなかった。むしろ録画を再び見るために効率が上がった気までしていた。
とはいえ、世界が変わるというには、さすがに大げさだったかもしれない。
実際には私の世界はまったく変わっていない。
私の机は今日も書類で散らかっている。隣の席の人は今日も同じ髪型をしている。
斜め向かいの席の人は今日もお茶を飲んだあとむせて咳き込んでいる。
今日会社に来る道中もすごく混んでいた。昨日と同じ時間に家を出たからだ。
特に示し合わせたわけでもないのにみんな飽きずに同じ道を同じ時間に通っている。
世界が一枚の画なら、私がいるここは一度も色を塗られていない箇所だ。
忘れられた世界の端っこ。存在すら気付かれない空白。世界を作る人が気にも止めない場所。
選ばれたわけじゃない。特別じゃない。ただ単に放置されている。
この場所で、この生活がずっと続いて行く。海外ドラマを相棒に私は、行けるところまで進んでいくんだ。代わり映えしない生活を進む勇気をまたもらえた気がする。
ありがとう海外ドラマ。これからもよろしく。この世界の隅の空白を進む力をありがとう。
私は今日もいつもと同じ時間に会社のドアを押し開ける。自席に近づき、気のない「おはようございまーす」を誰とも目を合わせず呟きながらパソコンの電源を入れようとしたとき、向かいの席の同僚が返してきた挨拶に耳を疑った。
「สวัสดีค่ะ ทานข้าวแล้วหรือยังคะ」
何と言ったのか聞き取れなかった。
私は同僚と目を合わせたまま固まってしまった。
「เป็นอะไรไหมคะ」
同僚が訝しげに私を見て言ったその言葉も意味が分からなかった。何か問いかけているようには聞こえた。
私は同僚の質問らしい言葉には答えず、上司に挨拶をしに向かった。
「おはようございます」
上司は読んでいた書類から顔を上げて私の顔を見てにこやかに言う。
「สวัสดีครับ」
やっぱり分からない。
答えない私の顔をじっと見ている上司の目線を無理矢理切って私は自席へ足早に戻る。
休みボケにもほどがある。確かに昨日まで3連休だった。
連休明けはキーボードを打つ速度が遅かったり、文字が書きづらいことがあるが、人の言っていることが分からなくなるほど現実離れした過ごし方はしなかった。
ただずっと部屋で海外ドラマを何周も見ていただけだ。ごく普通の休日の過ごし方だ。
確かに日本語より外国語を聞いていた休日だったとは思うが。
どうしよう。自分の部署の人と話が通じないだけなのか?でもどうしてそんなことに?
とりあえず始業前にパソコンのログインを済ませようと席につき、キーボードに目を落とした瞬間、私は固まった。
キーボードがいつもと違う。キーが見たことのない配置になっている。
何これ。どうなってるの。
パソコンが静かに立ち上がり、画面を見てまた固まった。
いつも見ているアイコンやデータの名前がすべて読んだことのない文字になっていた。
日本語の表記が1文字もない。かろうじてアイコンの画は変わっていないのと、数字とアルファベットが読めた。試しにデータを1つ開いてみたら、見たことのない文字がずらずらと並んでいた。このデータの内容を少し覚えていたので、何とか読んでみようとしたがまったく読めない。漢字もひらがなもカタカナもない。
謎の古代文字が並んでいるようにしか見えず、まったく歯が立たない。
ふと目にした壁時計を見てぎょっとした。並んでいる数字が分からなかった。
私は椅子を蹴って立ち上がり、その場で叫んだ。
「I don't work today! There is no place like home!!」
鞄をつかんでそのまま事務所を飛び出した。
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