第63話 この場の最高権力者


 誰も言葉を発せず、身動きすら取れない程冷え切った空間の中、ルヴィス公爵の凍てつくような視線に耐えてどれくらい経ったでしょうか――


「父上……こちらは随分と冷え切っているようですが、何がありましたの?」


 周囲に鈴の様に美しい声が響き渡るなり、マイシャが声の主の元へと駆け寄りました。

 美しい声にふさわしい美貌と艶やかなアイスブルーの髪と目を持つ、ルヴィス公爵の愛娘に。


「レイチェル様……! この女がレイチェル様を侮辱したのです……!」

「侮辱……?」

「マイシャ様……いい加減、人聞きの悪い事を広めるのはやめて頂けませんか? スミフラシは確かに蛞蝓なめくじと似ていますが、蛞蝓とはまた違った趣のある、とても可愛い生き物なのですから」

「はっ……!? あんな気持ち悪い生き物を可愛いですって!?」

「……話が見えませんわ。マイシャ夫人、もう少し落ち着いて話されて?」


 私が牽制すると睨みつけてきたマイシャは、レイチェル様に促されるとまた媚びを売るようにレイチェル様に向き直ります。


「レイチェル様……スミフラシというのは、全体がこの女のドレスと大体同じ色で、このくらいの大きさで、プルプルヌルヌルしてて、頭部から飛び出た二本の触角から、着いたら二度と落ちない青いスミを拭き出す大蛞蝓のような生き物です」

「まあ……」

「この女はそんな生き物の体液で染めたドレスが、レイチェル様に似合うと……!!」

「すっごく気になりますわ、その生き物……!!」

「えっ」


 レイチェル様が歓喜の声をあげ、マイシャが固まったのを確認して、左手でライゼル卿の腰をつつき。

 我に返ったライゼル卿がポケットから取り出した一枚の紙を受け取り、レイチェル様の元に近づきます。


「レイチェル様……生憎写真は無いのですが、大体こんな感じの生物です」


 スミフラシが描かれた紙を両手で広げてみせると、レイチェル様の目が一気に輝きました。


「まあまあまあ……とても可愛らしい! ですが、これは蛞蝓ではなくアメフラシでは?」

「ええ。恐らくはアメフラシの仲間かと。私、蛞蝓も可愛いと思うのですが……それぞれ別の良さがあるので、一緒にされるのは納得がいきません」

「その通りですわ。蛞蝓とアメフラシは生物学上全くの別物……それぞれに良さがあるのだと父上や家臣に何度言っても理解してもらえなくて、諦めてましたけど……」


 レイチェル様は小さく頷くと、私の手を力強く握りしめてきました。


「ようやく、ようやくですわ……ようやく蛞蝓なめくじ蝸牛かたつむりやアメフラシの可愛らしさを理解している方と巡り合いましたわ……!」

「私も……システィナ様から、レイチェル様が私と同じ物を好む方だとお聞きして、ずっとお会いしたかったのです……!」

「システィナ……ああ、そう言えば彼女は私の趣味を理解しようとしてくれた……本当に、惜しい方を亡くしましたわ……」


 天井――の先にある空を仰ぐかのように、レイチェル様は遠くを見上げました。




 あれは、私が14歳の頃。初めて生誕祭のパーティーにお呼ばれした時。

 15歳以下の令息令嬢達には大広間ではなく、専用のサロンが解放されていました。


 お父様はどうしても都合が付けられず、付き添いで来てくれたアーティ兄様は城を散策したがるマイシャに付き添い。

 一人で同年代の令嬢達と話していた時に心無い言葉をかけられたのです。


「お母様が言ってましたけど、貴方のお父様って全然商才が無いそうですね」

「私も聞いた事がありますわ。いつも何処かに行ってるそうですけれど、景気がいい話は聞かないと」

「だから娘をせっせと売りに出しているのでしょうか?」

「商人は何でもお金に換えたがると言いますしね……その拝金主義には感心致しますわ」


 ウェス・アドニスでもそういう悪意にぶつかる事はしばしばありました。

 ただ、ここでも一層の悪意に晒されて――一人で頼る人もいない事もあって心が押し潰されそうになった時。


「この場では美しさが絶対……家も出自も気にしなくてもいい場で貴方達は一体何を言っているの?」

「レイチェル様……」

「美しくない者が美しい者に難癖をつける、とても醜いものを聞かせられて私とても気分が悪いわ……家ごと潰されたくなければ、その子に謝罪して早々に去りなさいな」


 突然の出来事に驚いている間に、私に嫌味を言ってきた令嬢達は頭を下げてそそくさと去っていきました。


「た、助けて頂いてありがとうございます、レイチェル様……」

「私……貴方にも怒っているのだけど?」

「えっ……」

「何ですの? 先ほどの貴方のいかにも苛めてくださいと言わんばかりの弱気な態度……ちょっと嫌な事を言われた程度で弱気になるから、追及されるのです。貴方もウェスト地方の貴族の端くれならば、何を言われても堂々としていなさい。嫌な事を言われても堂々真っ直ぐに問い返せば、弱き者は皆押し黙ります」

「……そういうものでしょうか?」

「そういうものですわ」


 そう言われても(皆押し黙るのは相手が公爵令嬢レイチェル様だからでは?)という疑問は消えず。

 じっとレイチェル様を見つめながら、どう答えればよいか悩んでいると、


「……納得できないなら、証拠を見せて差し上げます。着いてきなさい」


 納得いかない私が気に入らなかったのか、レイチェル様は私をサロンから連れ出し、庭園へと連れて行ってくれたのです。



 夜の庭園は星明かりだけでは暗く、レイチェル様の照明魔法ルーチェを頼りにしばらく歩いていると。


「ああ、いましたわ。ほら、これをご覧になって……とても可愛いでしょう?」

「ええ……とても綺麗な花々で」

「花もまあまあ美しいけれど……私が見て欲しいのはこれですわ」


 レイチェル様が指さした、葉っぱの上には――小さな、小さな蛞蝓が居ました。


「れ、レイチェル様……これは、蛞蝓なめくじではありませんか!」

「ええ。うにょうにょとゆったり歩く姿……とても可愛らしいでしょう?」

「……」


 何も言えずに黙り込んだ私を、レイチェル様は真っ直ぐに見つめてきます。


「私が蛞蝓を愛でて、何か問題あります?」

「いえ……何も」

「ほら。嫌な事を言われても堂々と聞き返せば弱き者は皆押し黙る」


 やっぱりそれは、レイチェル様が公爵令嬢だから――嘲笑ったり嫌悪すれば後が恐いから、と思ったのですが。


「貴方の父親が本当にうだつの上がらない弱小貴族なのかどうか、私知りませんけれど……そう言われて貴方が弱気になる必要が何処にありますの?」

「……それは」

「私は貴方や父上がどう思おうと何と言おうと蛞蝓が好きですし、葉の上でゆったり動く蝸牛も好き。海の中を揺蕩たゆたうウミウシやアメフラシも大好き。私は自分の感性を一切恥じません。恥じれば私も、私の大好きな物も、全部否定してしまう事になりますもの……貴方も都市の花を背負うなら、その位強い心構えでいなさいな」


 恥じれば否定してしまう事になる――レイチェル様のお言葉を自分に置き換えてみると、納得できるものがありました。


 私が弱気になったから、否定しなかったから令嬢達はお父様を貶してもいい存在だと認識して暴言を重ねてきた。

 私が何かを恥じれば、周りはそれを貶しても良いとみなす――


「ありがとうございます、レイチェル様……とても勉強になりました」

「それは良かった。ここに連れてきた甲斐がありましたわ」

「あの……蛞蝓にも、種類があるのでしょうか?」

「ええ、これはスリーラインスラッグと言って、この辺りでよく見かける種ですわね。見てごらんなさい、淡紫の背中に、薄っすら三本の青い線が入ってますの」

「……本当ですね。こんな小さいのに、綺麗な線が入ってる……」

「……システィナ嬢、無理しなくてもよろしいのよ。例え話として出しただけで貴方に蛞蝓に興味を持てとは言っていないわ」

「いいえ、レイチェル様……私は無理などしていません。これに触れと言われたら無理ですが、先ほどこれが好きだと語ったレイチェル様はとても楽しそうで、私もちょっと興味が出てきたのです。無理しない範囲で是非、レイチェル様のお話を聞きたいです」

「…………あ、生憎、私も忙しいですから、貴方だけに時間を取っている訳にはいきませんの」

「そうですか……残念です」

「興味を持ったなら、自分で調べなさい。それじゃあ、私は忙しいですから」


 そう言って足早に去っていったレイチェル様。


 その時は、あまり良い印象を持ってもらえなかったかな、と気落ちしていたのですが――後日、私宛てに匿名で軟体生物図鑑が贈られてきたのです。


 図鑑は絵本や本よりずっと高価なものです。

 高級な革の表紙を開けばありとあらゆる軟体生物が写真付きで説明されているそれは、一般には流通していない程希少な物だろう事は私にも分かりました。


 お父様から心当たりがあるか聞かれ「レイチェル様かもしれない」と答えたらそれ以上は何も聞かれず、私は分厚い図鑑を数日かけて読み明かしたのです。



 その後、レイチェル様とゆっくりお話しする機会を得られぬまま、時だけが流れてしまいましたが――レイチェル様から頂いた知識は今も私の中に生きています。




「体液で染めている、という事ですが……スミフラシを殺して染めているのですか?」

「いいえ。イカやタコのように危険を察知した際に吐き出すスミを利用しています。スミを抽出する為だけの殺生はしていません」


 マイシャは体液だ体液だと散々罵りましたが、イカやタコのスミを使った料理はアクアオーラでは一般的ですし、ラリマー領でもソースや調味料として使われます。

 

「アメフラシは毒を持っている事もありますが……スミフラシはその辺りの心配はありませんの?」

「はい。現時点で毒が検出されたという報告はありません。ティブロン村は冬に食糧難でスミフラシを食す風習があるのですが、村の者達に奇病が流行った歴史は一度もございません」


 レイチェル様の手ごたえは抜群です。静まり返った空間で興味津々で聞いてくれるお陰で正しい知識を広めていける。

 マイシャに絡まれた時はどうなる事かと思いましたが、これでようやく一息付けそ――


「お、お待ちください、レイチェル様……! スミフラシのスミは、一度肌に着いたら二度と取れないのですよ……!? この女も舌がまだらで、自分がそうだからと人を巻き込もうとして……呪いを巻き散らかそうとしているのです!」


 呪い――この期に及んで引き際を見定められない彼女の呪いも解く時が来たようです。


「……確かに、食糧難からスミフラシを食した私の口は手足同様長い間青く染まり、悩まされ続けてきました……ですが、メルカトール家のパーシヴァル様が尽力してくれたお陰で、ようやくスミが取れる薬が見つかったのです」

「……お父様が!?」

「どうです? レイチェル様、マイシャ様……私の口の中は青く見えますか?」


 手袋を外し、口も少しだけ開けてみせると、マイシャの表情が固まり。レイチェル様は不思議そうに首をかしげました。


「貴方の口も、手も……とくにおかしな様子はありませんけど?」

「でしょう? 全てはパーシヴァル様が見つけてくださった薬のお陰です……という訳で皆様、スミフラシの布を扱って万が一スミが着いてしまった時はメルカトール家にご連絡ください。薬を取り寄せるのに少々お時間頂く事になると思いますが、ちゃんと私の様に元の綺麗な肌に戻りますわ」


 ここに来る前に伯父様から届いた手紙には大分青みが抜けてきたと書かれていました。

 本当はそこから完全に色が抜けるかどうか、確認してから公表したかったのですが。


 ザワザワと周囲がどよめく中で、それでも納得がいかない様子のマイシャにレイチェル様が冷めた視線を向けています。


「マイシャ夫人……何をそんなに怒っているの? 嫌なら自分が着なければいいだけの話でしょう」

「でっ……ですが」

「それと……先ほど貴女、スミフラシの事を気持ち悪いと叫んでましたけど、貴方のそのドレスも虫が吐き出した糸で編まれた物よ? その扇子だって魚の鱗を剥いで張り付けた物だし、ここにいる殿方が巻いているベルトは牛やワニの皮を剥いで作られた物。ボタンだって魔物の骨を削って作られた物も多く使われてる……皆敢えて口を出さずに着こなしているだけよ?」


 顔が引きつったのはマイシャだけではありません。この場にいる複数人の女性が顔を強張らせています。


「花の美しさはそれぞれ違いますから、比較するような事はしませんけど……その程度の事すら分かってない者が領主夫人というのはどうなのかしら、父上?」

「確かに……暴れ馬一頭まともに制御できないコンラッド君も、アドニス伯は荷が重すぎるようだな」


 暴れ馬――最大の罵倒に顔を真っ赤にしてドレスの裾を掴んでいるマイシャの横で、コンラッド様が深く頭を下げています。


「本当に……申し訳ありません……」

「お前達はもう帰れ……そして前アドニス伯シュトラウス退と伝えろ」


 コンラッド様をウェス・アドニスの後継者として認めない――公爵の言葉にどよめきが起きるものの、コンラッド様もマイシャも声を上げる事が出来ません。


 声を上げた瞬間に死が待っていると思えば、誰でも言葉を押し殺すでしょう。


 ウェス・アドニスではコンラッド様とマイシャが最高権力者ですが、ここでは公爵が最高権力者。

 そして公爵が盲愛するレイチェル様こそ、このパーティーにおける真の最高権力者なのです。


 それを分かっていなかったのであれば『愚か』としか言いようがありませんし、公爵家が主催するパーティーで誰かを貶すような真似をしてルヴィス公爵もレイチェル様も懐柔できると思っていたなら『浅はか』としか言いようがありません。


(……大人しくしていてくれれば良かったのに)


 あるいはコンラッド様が早々にマイシャを私から引き離してくれれば、こんな事にはならなかった。

 コンラッド様が誘拐される私を助けられなかった事は前アドニス伯が上手く繕いましたが、今回はその手は使えません。


 ウェスト地方の有力貴族が集まるこの場で醜態を晒したあの二人は、これからどうなってしまうのでしょう?


 マイシャと共に去るコンラッド様の背中から漂う哀愁に、何とも言い表せない複雑な感情が胸に押し寄せました。


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