第62話 とんでもない暴挙
私を受け止めてくれたのは、たくましい、男性の手――でも、体が全く震えません。
だって、私の目の前にいるのは――
「……リュカ、さん?」
以前と違って身なりがちゃんとしていますが、その暖かな眼差しも、精悍な顔つきに刻まれた独特の紋様も、燃えるような朱色の目と髪は見間違うはずがない。
「ステラさん、大丈夫か……? 何かややこしい人に絡まれてるみたいだけど」
「あ、あの……何故、リュカさんがここに……」
「細かい事は後で話すよ。ひとまずここから離れよう。話が通じない相手と一緒にいても仕方ないだろ? こんだけ男がいるのに誰も間に入らないしさぁ」
リュカさんの言葉に周囲から怪訝な視線が集まります。
「リュカさん、マイシャ様は伯爵夫人……一都市を預かる領主夫人です。この状況で間に挟まるのは侯爵家以上の人間でないと無理だと皆様分かっているのです……!」
というより、ここに集まっている貴族の大半は侯公爵家の方が私達をどう諫めるのか楽しみにしてらっしゃるのです。
公爵家の生誕パーティーでここまで騒ぎ立てた貴族達が、どう裁かれるのかを。
「私達もこの状況で離れてしまっては、後で何と言われるか……リュカさんも目を付けられてはタダではすみません。私が何とか誤魔化しますから、早くここから離れて……」
リュカさんが私から手を離し、ホッとしたのもつかの間、彼は何故かマイシャの方に向き直り。
「なあ、貴族の上下関係とか、そういうの俺よく分かんないけど……こういう場所で人が着ている物を貶すのって、すごく失礼な事じゃないのか?」
「なっ……何よ、この人……警備兵! ここの警備兵は一体何をしているの!?」
マイシャが周囲を見回して大声を張り上げると、大広間の隅に点在していた警備の方が駆けつけ、リュカさんに対して
「リュカは俺の連れだ! 何か文句あるなら俺に言え!!」
男性の大声が辺りに響き渡った瞬間、警備の方達が硬直します。
声がした方を見ると人の壁が割れ、赤系統を基調にした軍服を着こなした青年が私達の方に近づいてきました。
無造作にふわついた髪、凛々しい太眉、迫力のある目――それらを彩る真紅は
数週間ほど前、リアルガー家が代替わりした事が新聞に載っていました。
新しい公爵は以前雪山で酷い凍傷を負い、後遺症で左手の指が足りない――その情報に一致するように青年の左手は小指と薬指の第一関節から先がありません。
もはや彼が名乗らずとも、誰であるか分かります。
「リュカはかつて雪山で遭難しかけてた俺を助け、リアルガーとローゾフィアの長年の確執を払拭したローゾフィアの英雄だ。そこの女も警備兵も、ローゾフィアの英雄に無礼を働けばリアルガー公爵家を敵に回すと思え!」
リアルガー公の一括に警備兵は次々と魔法陣を消し。
流石にマイシャも他地方の公爵に難癖つければ只では済まない事が分かっているのでしょう。あれだけ煩かった口を噤みました。
予想外の援護はとてもありがたいのですが――
「英雄……?」
聞き覚えのある話と一致しない人物に戸惑っていると、リュカさんが気まずそうにこちらを振り返り。
「……ご、ごめん。俺、君に嘘ついた。英雄なんて言われる程、大した事してないし……知られたら、距離置かれちゃいそうだったし……」
確かに。もしあの時、リュカさんがローゾフィアの英雄――侯爵家の令息だと知ったら、きっと私はリュカさんに故郷に戻るように説得し、距離を置こうとしたでしょう。
リュカさんが身分を偽ろうとするのは理解できますが――
「でも、名前が……」
そう。確かローゾフィアの英雄の名前はルカリオだとお父様が言っていました。
「その……俺の本当の名前は」
「……リアルガー公、妻が失礼な物言いをしてしまい、申し訳ありません」
リュカさんの言葉を遮るようにコンラッド様が前に出てきて、リアルガー公に頭を下げました。
「お前の女が失礼な物言いをしたのは俺じゃない。謝る相手が違うだろ?」
最もな物言いにコンラッド様は身をただすと、今度は私達に向けて頭を下げました。
「……ステラ嬢、リュカ殿……妻が失礼な事を言ってすまなかった。すぐに引き下がる。後日、改めて謝罪を」
「コンラッド様……どうして!」
「マイシャ、頼むからもう黙っててくれ!! リアルガー公とローゾフィアの英雄に無礼を働けば戦争が起きるかもしれないんだぞ……!!」
見た事もない、コンラッド様の表情と怒声――それはマイシャも同じだったようです。
もしそこにいるのかつての私であれば、あまりの怖さに委縮してしまったでしょう。
ですが、そこにいるのマイシャです。頭ごなしに威圧するのもまた火に油を注ぐ行為です。
「わたしっ……わたし何も間違った事は言ってないわ!! あの女が着てるのは蛞蝓の体液で染めたドレスだって事実を言ってるだけじゃない……!!」
「場所と状況を考えろ……!! ここはウェス・アドニスじゃない!! 君が好き勝手に物を言えるような場所じゃないんだ!!」
コンラッド様が乱暴にマイシャの腕を掴み、引っ張っていきます。
他地方の公爵家に目を付けられてようやく、マイシャを力ずくで連れて行く事を決めたのでしょう。
何はともあれ、これでマイシャと離れられる――と思ったのですが。
「何事だ? 騒々しい……我が家が主催するパーティーに余計な水を差しているのは誰だ?」
新たな声がした方の人の壁が大きく割れ、他の誰より豪勢な衣装を纏った紳士が現れました。
見る者誰もが目を奪われるような美しく重厚なコートはもちろん、被る冠には青い宝石が幾つも垂れ下がり、指にはこれまた大粒の宝石が所狭しと輝いています。
この、美しく冷たい威厳に満ち溢れた印象しか持たせないこのお方こそ、ルヴィス公爵閣下。
ウェスト地方の誰もが膝をつく偉大な王を前に、冷たい空気と重い沈黙が伸し掛かります。
理性ある者なら誰もが口を噤むこの状況で――恐れ多くも公爵の前に
「公爵様……! 公爵様のパーティーで騒いでしまい、申し訳ありません……!」
「……マイシャ夫人。先ほど随分とコンラッド君が声を荒げていたようだが、何があったのだ?」
固まってしまったコンラッド様の手を振り払ったマイシャはルヴィス公爵の前で両手を組み、懇願するような声を上げます。
「あの者が着ているドレスは大蛞蝓の体液で染めた物なのです! いくら色が美しくとも、そんな物をこの領地で広められたら大変な事になりますわ……! だからわたし、皆が騙されないようにと思って伝えてたら、コンラッド様が……!」
マイシャの訴えにルヴィス公爵は嫌悪の表情を浮かべました。
「……大蛞蝓のドレスは確かに、気持ち悪いな。騒ぎたくなる気持ちは分かる……だが、騒ぎ立てるのは美しくない。この場にふさわしくない者がいるのなら醜く騒ぎ立てずに私や兵達に報告すればよかろう?」
「はい……ルヴィス様の仰る通りです。本当に申し訳ありません……公爵様の手を煩わせたくなくて、わたし……」
本当に、白々しい――この場でどれ程の貴族がそう思っているでしょうか?
ですが、この場でマイシャの白々しさを公爵閣下に説明できる者はおりません。
説明した所で何のメリットも無いからです。
現時点でマイシャの名誉はほぼ地に落ちているようなものですが、それでも領主夫人の立場は変わりなく。
後でアドニス家から報復があるかもしれないと思えば、迂闊に口は挟めません。
最も――この状況で誰かに余計な口を挟まれないのはこちらとしてもありがたいのですが。
「……そこの娘、名は?」
「ステラと申します」
ルヴィス公爵の視線がこちらに向けられ、深く頭を下げて一礼します。
「ステラ、マイシャ夫人が言っている事は事実か?」
「……スミフラシは大蛞蝓ではございません。恐らくアメフラシと呼ばれる物と同じ種です。このドレスをスミフラシが吐き出すスミで染めているのは事実です」
「……蛞蝓もアメフラシも似たようなものだ。確かに、そちらが着ているドレスは美しい青ではあるがそんな物で作られているなら見過ごす事も出来ん。罪を問わない内に即刻出て行くが良い」
これで、ステラの全てが終わる――と言わんばかりのマイシャの堪え切れない笑み。
ウェスト地方の貴族の稔侍を忘れ、この場で周囲にどう思われているかも理解できていないなんて、本当に――本当に愚かな事。
もはや怒りより哀れみが込み上げてきますが、今はマイシャを哀れんでいる場合ではありません。
「……ルヴィス公爵閣下、差し出がましいお願いで大変申し訳ないのですが……私、是非ともレイチェル様のご意見を聞きたいですわ」
ルヴィス公爵の眉がピクリと動きます。
「……娘に、何故?」
「マイシャ様のような意見も承知の上でこのドレスを着てきたのは……レイチェル様ならばこの青の価値をご理解いただけると思ったからです」
公爵の不快を買う事は、死に繋がる――それは、誰にとっても同じ事。
それでも。私はここで引き下がる訳にはいかないのです。
「娘に……蛞蝓の体液で染まったドレスが似合うとでも?」
「ええ。今、公爵閣下も認めてくださったではありませんか。美しい青だと」
公爵の眉間にしわが寄って、冷たい眼差しが一層厳しくなり。
長い睫毛の向こうにある、惹き付けらる青の瞳孔に捉えられて全身が凍り付くような寒さに包まれる中、ふと、右手だけが冷たさを免れている事に気づきます。
いいえ、冷たくないどころか、とても温かい。
不思議に思って横を見ればリュカさんが私の手を掴んで、真っ直ぐに私を見つめています。
「リュカさん、危ないから私から離れて……」
これ以上、巻き込む訳には――と言いかけた所で、ギュッと握る力が強くなり。
「君が逃げないなら、俺も逃げない」
困った顔の口角を上げようとして作ろうとしてくれるのは、きっと、笑顔。
ああ。この方は――こんな時まで私を守ろうとしてくれている。
強く握る手が微かに震えているのは、笑顔になりきれないのはすぐ傍に死の危険があると分かっているからでしょうに。
この状況で、まだ――私の傍に居ようとしてくれている。私の意思を尊重してくれる。
その瞬間、心がずっと温かい物で満たされていくのを感じました。
これまでずっと穴が開いていた部分が埋まっていくような、そんな不思議な感覚。
(……大丈夫。私はもう、大丈夫)
この温かさがあれば、もう私は――何に怯える事も無い。
再びルヴィス公爵に向き直ると、ルヴィス公爵と私の間をリアルガー公が遮っていました。
「おい、おっさん……この人はレイチェルの意見を聞きたいって言ってるだけじゃん。そんな殺気飛ばすような事じゃないだろ……!?」
「黙れ……可愛く賢く気高く美しい愛娘を侮辱された怒りは、まだ子を持たぬお前には絶対分からん」
リアルガー公を一切見ずに私を睨むルヴィス公爵のとても冷たい瞳は、きっと多くの魔物を、人を、殺してきたのでしょう。
誘拐犯よりよっぽど恐ろしい、覇王を前にしても――私の体はもう震えない。
「リアルガー公……どうか私の事はお気になさらず。ルヴィス公爵閣下は聡明な方。ローゾフィアの英雄まで手にかける事はなさりません。殺す時は私だけを綺麗に殺してくださいますわ」
「いや、君が死んだらリュカが」
「今ルヴィス公爵閣下とお話しさせて頂いてるのは私なのです。どうかお引きください」
「……分かった」
リアルガー公が引いた後、改めてルヴィス公爵と対峙します。
公爵は変わらず凍り付く程冷たい表情をしていますが、近くにいるコンラッド様が、マイシャが、周りの貴族達が唖然とした顔でこちらを見ています。
それもそのはず。辺境の村娘が他地方の公爵を退け、自領の王に物申しているのですから。
ウェスト地方の貴族にとって、これはとんでもない暴挙です。
でも、このぐらいの事をしでかさないともう取り返しがつかないのです。
きっと過去に歴史を刻んで来た英雄達も、こういった窮地を切り抜けてきたのでしょう。
そして私も。彼らと同じように歴史に名を刻まなければなりません。
「公爵閣下、どうか……レイチェル様とお話させてください。私の処罰はその後、いかようにもお受けします」
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