第61話 冷たい火花・2
ステラは男爵令嬢、マイシャは伯爵夫人――同じ『貴族』と言えど、天と地ほどの差があります。
辺境の村娘が洗練された都市の領主夫人に向かって物申しても一笑に伏されるだけ。
ですが、かつて社交界で一花咲かせた悲劇の子爵令嬢の言葉を添えればどうでしょうか?
ここには、かつての私――システィナ・フォン・ゼクス・メルカトールを知っている方が何人もいらっしゃいます。
誘拐されて令嬢としての価値を失ってしまったとはいえ、それまでの私は私なりに誠実な交友関係を積み上げてきたつもりです。
そして、パーティーやお茶会でマイシャがうっかり失言しそうになるのを止めに入ったり、失言してしまった後のフォローをする私を見続けてきた方々が今の私の言葉を聞けば――
「システィナ嬢がそんな悩みを……」
「そう言えば、いつもマイシャ様の傍にはシスティナ嬢かアーティ卿が……」
「マイシャ様は目を離したら何を言い出すか分からないところがありますから……きっと家はもっと……」
推測通り、場の空気が少しではありますが変わりつつあります。
アクアオーラ領に文通している従姉妹がいる事はコンラッド様以外の方にもチラホラお話していましたから、この場で私の発言を嘘と見抜ける人はいないでしょう。
「なっ……な……」
驚いた様子でブルブルと肩を震わせるマイシャは私がシスティナの名前を使って反論してくると思っていなかったようです。
自分優位な状況で散々私を罵って、私が居たたまれなくなって逃げ出した後好き放題言いふらそうと思っていたのでしょう。
「ひっ……酷いわ……お姉様と文通してた事を利用して、お姉様の言葉を勝手に捏造するなんて……!! やっぱり貴方は悪女……悪魔よ!!」
「まあ、酷い……システィナ様亡き後、一年も経たずにあの方が深く愛していたコンラッド様との子を宿した貴方こそ、よっぽど悪魔の所業ではありませんか?」
私の発言に場の空気が凍ります。
きっと誰もが思っていながら、面と向かっては言わなかった事。
私もこのような華やかな場所でこのような品の無い事を言うのは非常に抵抗がありますが、マイシャを激高させて自らこの場を離れさせるか、コンラッド様が無理矢理連れて行くか、あるいは私達より高位の貴族が仲裁に入るか――そういった道を切り開くには多少厳しい言葉も投げかけねばなりません。
奪われたくなければ、戦わなければならない。
相手に物騒な凶器を付き付け、必要とあらば相手を傷つけねばならない。
(……そう、私はマイシャから婚約者の変更を突きつけられた時、戦わなかった。戦わずに逃げた。だから全てを失った)
私はその選択を長い間後悔していました。でも、今は後悔していません。
逃げた事で得られた大切な物がたくさんあるから。
でも、ここで逃げたらまた全部失ってしまう。
(失いたくない……もう、逃げたくない……その為なら、もう敵を傷つける事も
あの人が私達を守ってくれたように――私も、私達を脅かす敵と戦います。
「だっ……だって、アドニス家から婚約者を替えたいって言われたら、従うしかないじゃない……!! わたしだって、最初から乗り気だった訳じゃない……でも、コンラッド様が姉様の事ですごく苦しんでるのを知って……わたし……支えたいって思って……愛してしまったの……!! もちろん、姉様に罪悪感あるわ……!! でも、悪魔だなんて……!!」
コンラッド様の腕をギュッと掴んで、悩み苦しむマイシャの演技に感心します。
――全てを知ってる身としてはとても白々しく見えますが。
「そうですか……あの手紙に書かれていた通り、家の為に嫁いだのですね」
「……手紙?」
「ええ……システィナ様が亡くなられて数日後、私の元にシスティナ様から一通の手紙が届いたのです……コンラッド様の婚約者がマイシャ様に変わり、マイシャ様からは『お姉様にはもう、何の価値もない。わたしは家の為に嫁ぐから、姉様も家の為に決断しろ』と迫られたと」
私が全て言い切る前に周囲からどよめきが上がりました。
――システィナ姉様にはもう、何の価値もないのです。
3年前マイシャから突きつけられた言葉が、頭を過ぎります。
何度も私の心を切りつけてきた――私を殺した言葉に今初めて感謝します。
「なっ……私、そんな事、言ってない……! 嘘よ、デタラメよ……!!」
流石にこの発言は絶対に認めてはいけないと分かっているのでしょう、マイシャが咄嗟に声を上げましたが――声を上げる前に一瞬顔が強張ったマイシャの表情に、一体どれだけの貴族が気づいたでしょう?
「ええ……私もそこは疑問に思っていたのです。だって、本当にマイシャ様がメルカトール家の為に嫁いでいたなら、気に入らない女を貶める為にメルカトール家の名誉まで貶めるような事、絶対にしませんもの」
そう。家の為――本当にメルカトール家を、父様を、兄様を大切に思っているならこんな事はしない。
本人は本当に大切に思ってるつもりかもしれませんが――憎たらしい相手を踏み潰すついでに潰れてもいい、その程度の大切な思い。
綺麗に飾り立てている、その薄っぺらい思いでも――私を踏み潰そうとさえしなければ、皆の為に見逃してあげられたのに。
「……システィナ様は最後の夜、何か悪い夢を見てしまったのかもしれません。手紙には家族を想う言葉や事を荒立てたくない旨も記されておりましたから、私が声を上げる事をシスティナ様は望んでいない……そう思ってずっと心の内に秘めていたのです……でも、夢を見た訳ではなかったのかも知れませんね」
「そ……そんな手紙が本当にあるなら見せなさいよ! 今すぐに! さっきの手紙も!」
「申し訳ありません……それらの手紙は父がうっかり古い新聞と一緒に焼いてしまいいまして……ただ、最後に送られてきた手紙はアーティ様が送って下さったものですから、ウェス・アドニスに戻られた時にお聞きなさるとよろしいわ」
手紙自体は虚言ですが、文言は事実です。
マイシャが今しでかしている事を知れば、アーティ兄様は私が何を言わずとも忖度してくれるでしょう。
「嘘ね。アーティ兄様がそんな手紙を読んだなら、私にそんな酷い事を言ったのかと確認するはず……!! でもそんな事一度も聞かれた事ないわ!!」
「アーティ様は他人に宛てた手紙を勝手に覗き見るなんて事はしませんわ。あの方の妹でありながら、そんな事も分からないのですか?」
「は……? 貴方が聞けって言ったんでしょう!?」
「私は手紙を出したかどうかを聞くように言っただけですわ。本当に……アドニス家で何を学んでいらっしゃるのかしら?」
私の冷たく突き放した物言いに、マイシャの手が震えています。
歯も食いしばっているのでしょう。口元が微妙に歪んでいます。
私もアーティ兄様も、マイシャと誰かの間が険悪になる空気を察すると割って入りマイシャを連れて離れた後あれこれ助言したり、諭したりしていました。
でも今思えば、こうして冷たく突き放す事も必要だったのかもしれません。
可愛い妹、家の名誉、自分が悪者になりたくない――優しさや愛という綺麗事で飾り立てた事なかれ主義が、今のマイシャを作り上げてしまった。
(……いえ、少なくとも、私が知っているマイシャはここまで愚かではありませんでした)
私や兄様はマイシャに厳しい言葉をかけられませんでしたが、その分お父様はマイシャに厳しかった。
マイシャもお父様に叱られたくないから自制していた面がありありと出ていました。
ウェス・アドニスの花と呼ばれるプライド、他人の目、それらもマイシャを諫めていたはずです。
そこからアドニス家に嫁いで多少鍛えられているかと思ったのですが、全く成長してない――それどころか一層傲慢になってしまったようです。
(まともに領主夫人として研鑽を積んでいれば、そもそもこんな所で騒動を起こしませんか……)
コンラッド様もアドニス伯も、私達以上にマイシャを甘やかしていたようです。
チラ、とコンラッド様に視線を向けると、彼は気まずそうに視線を逸らしました。
その姿が一瞬、かつて私を見捨てた姿と被り――胸がズキりと痛んだ、その時。
「姉様の言葉を捏造して、嘘をでっちあげて……そんなにわたしを陥れたい訳……!?」
「……嘘をでっちあげてまで私を陥れようとしているのはマイシャ様の方では? 私、マイシャ様にここまで蔑まれるような事をした覚えが全くないのですけれど……私を悪女と謗るならば、理由をお聞かせ願えますか?」
「覚えがない……!? 幼い頃のわたしを怖がらせておいて、よく言うわ……!!」
マイシャのお陰で我に返る事が出来ましたが、この子の未だ冷めやらない怒りに少々うんざりしてきました。
コンラッド様も、私の方を見ていないマイシャを止めてほしいのですが――
「わたし、貴方の気持ち悪いまだらの舌を見て、怖くて、気持ち悪くて声を上げただけなのに、お父様も、お姉様も兄様も、私が悪いと責めた……!! 貴方はその事を私に一切謝罪する事なく、さっさと館から出た後、お姉様達に取り入って……!! 貴方のせいで私はとても傷ついたのに……!!」
涙を武器にして、周りの同情を誘う――被害者だけが使える、良い手段です。
ですが――
「マイシャ様……貴方は先ほどからずっと自分が傷ついた事を強調していますけれど……私も、絵本に熱中してつい口を開けてしまった時に貴方に気持ち悪いと大声で叫ばれて……本当に傷つきましたのよ?」
当時のステラの姿を思い返せば、自然と目に涙が溢れてきます。
彼女の気持ちに寄り添って言葉を紡げば、自分でも驚くほどに擦れた声が出ました。
マイシャは自分がステラに一方的に傷つけられた被害者だと思っていますが、ステラに暴言を吐いた加害者でもあるのです。
それに引きかえステラはマイシャに何もしていない。ただマイシャに暴言を吐かれて泣いてしまっただけ。
「父上に縋って泣いたあの日の事、今でも覚えておりますわ……貴方から謝罪の言葉が一切ない事も……こういう時、貴賤関係なく暴言を吐いた方から謝るのが定石だと思いますけれど?」
私とマイシャ、両方の話を聞いた周囲の方々はこの状況をどう見ているか――マイシャは空気で察したようです。
「こっ……子どもが言った悪口を今更」
「ええ。あの頃はお互い子どもでした。私は今更マイシャ様に謝罪など求めておりません。子どものした事を未だ引き摺ってらっしゃるのはマイシャ様の方でしょう?」
化粧をしていてもうっすら顔が真っ赤になっているのが分かります。
このまま、マイシャが怒ってこの場を立ち去ってくれれば――
「……っもうい」
「マイシャ……ステラ嬢の言う通り、子どものした事だ。なのに君のステラ嬢への態度は流石に度が過ぎて……」
ああ。せっかくマイシャが怒って立ち去ろうとしてくれたのに、コンラッド様の余計なフォローが入ってしまいました。
この状況で相手を庇うのは火に油を注ぐ最悪の言動です。
「コンラッド様、騙されては駄目……! この女は見目が良い事を武器に、寂しそうな顔して同情を集めるの! さっきの手紙の話だって、既に兄様を誑かして口裏を合わせてるに違いないわ……!」
「まあ……10年以上前に一度しかお会いしていないのに、酷い言い方……」
こうなったら、マイシャは相手が折れるまで意地でも動きません。
周りの人だかりも先ほどよりずっと厚くなっています。
コンラッド様とマイシャが揉めている今のうちに上手く抜け出せないかとライゼル卿を見ると、彼は感情の籠ってない目で呆然とマイシャを見ています。
今、彼の中で何が起きているのか分かりませんが、迂闊に声をかけたらこの状況が余計ややこしくなってしまう可能性がある――そう思うと全く身動きが取れません。
(こうなったら、この喧騒を止めてくれる方が現れるまで、自分とメルカトール家の名誉を守りながら耐えた方がいいかもしれませんね……)
とはいえ、中心で喚き散らしてるのがラリマー領の伯爵夫人――伯爵の中でも都市伯はかなり上位の存在です。
止められるのは同じラリマー領の都市伯か、それ以上の存在――というか、コンラッド様が止めてくれればいいだけの話なのですが。
「マイシャ、いい加減に……!」
マイシャの手を引いて強引に離れようとするコンラッド様ですが、頑なに動こうとしないマイシャに困り果てているようです。
(これが、私が愛した人……)
3年前より少しやつれた印象は受けるものの、かつて愛したお姿はほぼ変わりなく。
コバルトブルーの瞳も相変わらず美しいと思うのに――マイシャ一人軽く抑え込めない姿に強い哀愁を感じてしまうのは何故でしょうか?
「ねえ、皆もラリマー領で蛞蝓の体液で染めたドレスを広められるなんて嫌でしょう? わたし、皆の為に言ってるの……!」
マイシャは自分の過去を強調すればするほど不利になると分かったようです。
周囲の貴族達はマイシャに呆れてはいるようですが、だからと言ってスミフラシの評価が盛り返す訳ではなく。
私に向けられる、同情以上の刺々しい視線に足が微かに震え始めました。
生物学的にスミフラシは
(ここで公爵閣下や侯爵に仲裁してもらっても、両方追い出されてしまう可能性がある……)
そうなれば、このパーティーに来た目的を果たせずに終わってしまいます。
そうなったら村を重税から守る事が難しくなってしまいます。
(大丈夫……怯えては駄目。弱気になっては駄目)
両手を組み、ギュッと力を込めて震えを抑えようとしても、なかなか震えは収まってくれず。
(ここには……私を支えてくれる人などいないのだから。私が、しっかりしなければ。私が……)
己を諭せば諭すほど足の震えが大きくなって体勢を崩しかけた、その時――床に倒れ込む私の体を、誰かが受け止めてくれました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます