第37話 初めての市場
ウェサ・クヴァレはティブロン村に一番近い内陸都市です。
大きな外壁に囲まれた都市の中央を大きな川が横切るように流れ、川から北は平民、南は貴族ときっちり住み分けられているのが特徴だそうです。
今回、私達が訪れた目的は北部側――川に沿った大通りで行われる市場です。
市場は午前から夕方にかけて開かれており、行商人や近くの街や村の人間が売り物を並べています。
その数は多く、私達が朝、市場を訪れた時には既に大勢の老若男女で賑わっていました。
「ステラさん、大丈夫か?」
「ええ……大丈夫です」
絶え間なく続く人の波は、一人だったらパニックを起こしていたかもしれません。ですがリュカさんがいるお陰で安心と緊張が私の不安を抑えてくれています。
(ここに来るまでもそうでしたが、ここに来てからもリュカさんに助けられっ放しですね……)
――俺、ウェサ・クヴァレで3節くらいリュルフ達と曲芸したり何でも屋やったりしてたんだ。だから北部の何処に何があるのかは大体分かってるよ――
昨夜、ウェサ・クヴァレに着くなりリュカさんはそう言って安価な割に質の良い宿に案内してくれました。
お陰で昨夜は久々に柔らかいベッドでぐっすり眠れました。
「ステラさん……髪、ちょっと雰囲気変わった?」
「ああ、宿の洗髪剤のお陰ですね。村ではあまり髪の手入れが出来ませんでしたから……リュカさんも使われたんですよね? 髪の毛に少し艶が出てます」
「分かる? たまに使うとスッキリするんだよなぁ」
洗浄・浄化魔法を使って髪についた汚れは落とせても、艶や滑らかさを出すには洗髪剤や手入れが必須です。
髪の艶や滑らかさは一度整髪剤を付けたくらいで出るものではありませんが、朝夜と傷んだ髪を丁寧に労わった事で何とか痛々しい髪から多少見られる髪、くらいになってくれました。
野宿ではなく宿を取った甲斐があったというものです。
ですがここから先――
(一日も早く、貴族と相対しても恥ずかしくない姿に戻らなくては)
みすぼらしい人間なら、僅かな金でも喜ぶだろう――そんな風に足元を見られて買い叩かれないように。
「あ、俺達の場所はここだな」
紙に書かれた文字と家の壁に小さく書かれた文字を見比べてリュカさんが荷物を広げます。
朝、市場の出店の手続きをする為に市場のギルドを訪れた際、既に大通りの大半の部分が埋まっていました。
それでも端の方はまだ空きがあり。人通りが少なめな分場所代も安く、午後は買い出しに出るので午前だけ、という事で更に安くできたのは助かりました。
今回は売るのがメインではなく、この市場の雰囲気やスミフラシの布や装飾品が何処まで関心を引けるかを確認する為です。
テントを張る資材もなく、床に一番大きな青い布を敷いてそこに染めた布や貝、皿貝など売り物になりそうなものを広げていきます。
幸いこのスタイルで売っている人達は珍しくなく、特に悪目立ちはしません。
準備をしているとふと、不思議な感覚に囚われました。
前にも一度、同じような所に来た事があるような、そんな錯覚です。
(ウェス・アドニスにいた頃はこうして外で平民達に混ざって何かをするという事はなかったはずだけれど……)
――いえ、一度だけ。ウェス・アドニスの市場をコンラッド様と歩いた事があります。
こことは街の雰囲気や人の衣服こそ違いますが、この暖かな賑わいは同じです。
それを思い出しても身が竦まないのは、例えその後悲劇が起きるとしても――その部分だけは自分の中で楽しかったものとして残っているからでしょうか?
思い出したくない部分は時間が埋めてしまったからでしょうか?
それとも、あの方との想い出は全て色褪せてしまって、喜びも恐怖も感じなくなってしまったからでしょうか――自分でも驚く程心が痛まず、他人事のように思い返す事が出来ました。
(……私は、ちゃんと前を向けているようですね)
そして、暖かな春の日差しを受けながら市場に立つ事、数時間――
スミフラシの布や衣服の鮮やかな青は遠くの人達の目も引いているようで、少し離れた場所からでもこちらに歩いて来て興味深げに布を手に取って見てくれる人は多いのですが、ティブロン村の名前を出すと皆表情を曇らせて去ってしまうのです。
大声をあげて逃げていくような人はいませんが、呪いが相当根深い事を痛感させられます。
「ティブロン村で作った布だって言わなければ買ってくれるんじゃないか?」
「そうですね、聞かれなければそうしてもいいのですが……」
商談で場を和やかにする為に世辞を言ったり、購買欲を損なうような事柄は聞かれない限り言わなかったりは、商売上よくある事です。
その上で大事な事は、商品について聞かれた事には正直に答える事――これが物を売る上で最も大切な事です。
お客様は神ではなく、私達と同じ人――嘘は何処で明らかになるか分かりません。
そして商品に対して誠実でない相手と分かったらまともな取引を続けようとする人はいません。
そもそも、村興しの為に売りに来てるのに村の名前を隠しては意味がありませんし。
「ティブロン村を知らない人達……あるいは呪われてても気にしない人達に買ってもらえたらと思ったのですが、そう上手くいきませんね」
「前者はともかく、後者は難しいかも知れないなぁ……あ、そうだ! アーティ卿に頼めばいいんじゃないか? ラリマー領ならティブロン村の事を知ってる人も少ないだろうし」
「いいえ……噂が届いてない地域に売りにいった場合、その分費用がかかります。例えば物が10万ベルガーで売れても、往復費用で15万ベルガーかかったら赤字になってしまいます」
「……なるほど」
ただ、布も装飾品もそこまで嵩張る物ではありません。
別の商品をラリマー領まで運ぶついでに木箱一つ馬車に乗せてくれるような、そんな商人と繋がる事が出来れば。
その為にはまず、この都市の商人貴族、あるいは裕福な商人の目に留まる必要があるのですが――
「お、リュカじゃないか!」
リュカさんを呼ぶ声に振り向くと、人ごみの中から麻袋を片手に抱えた大柄な男性が近づいてきました。
「ああ、ビルさん、久しぶり! どうっすか、その後の様子は」
「いやー、効果てき面だよ。今も全然寄り付いて来ない。本当感謝してるよ。で、そちらのお嬢さんは?」
「ああ、ティブロン村のステラさんだよ。ステラさん、この人はここの裏通りで酒場やってるビルさん。酒場の屋根に住み着いてたゴスカラスを追い払ったのが縁で仲良くなったんだ」
「そ、そうなんですか……」
気さくに男性と会話するリュカさんからふられて、咄嗟に返した物の、声が不自然に上ずってしまいました。
やはり、見知らぬ男性と対面すると体が硬直してしまいます。それでも前に比べれば大分――大分マシになった感覚はあるのですが。
ビルさんはそんな私の様子に違和感を覚えたのでしょうか? 私から視線を逸らしてリュカさんの方に向き直りました。
「って言うか、お前本当にティブロン村に行ったんだな……青ペンギンは?」
「ああ、それが……」
青ペンギンとの交友から、この都市での思い出話――リュカさんとビルさんの間で流れるように会話が弾んでいきます。
その間に体の硬直も収まってきました。
「……だからティブロン村の呪いはスミフラシって生物のスミで、呪いでも何でもなかったんだよ。現に俺、もう半年以上ティブロン村に住んでるけど全然青くなってないだろ?」
「へぇー……でも新聞屋の奴がティブロン村の村長が新聞取りに来る時、一度だけ舌が真っ青なのが見えて以来、気味が悪くて仕方ないって言ってたぜ。呪いでなくても舌が真っ青な人間なんて、俺は到底受け入れられねぇな」
気味が悪い――怪訝な視線と共に痛烈な言葉が胸に刺さります。
そして、理解しました。先ほどのビルさん態度はティブロン村の人間に関わりたくないという感情の表れだったのでしょう。
彼から感じる、私に対する嫌悪感――私がここにいないかの如く扱われる状況に何とも言い難い不快に煽られます。
いっそ手袋やブーツを脱いで大きな口を開けて「私も染まっていません!」と言えたらいいのですが――
(リュカさんに見られるとまずいんですよね……)
一度体に着いたら落ちないはずのスミフラシのスミがついていたステラの体が、綺麗になっている――それをリュカさんが村人にポロッと話してしまう事があったら一大事です。
私の手足や口が染まっていない事を口止めするのもおかしな話ですし。
ただ、ビルさんの言葉に一筋の光が見えました。
「あの……ビルさん。もし、口も手足も染まっていない村人が来たら受け入れてもらえますか?」
小さく息を吸った後、ビルさんに尋ねると一瞬驚いたような表情で私を睨みました。
ただ、横にいるのがリュカさんという事もあってか、無視するという態度は取れないようです。
「まあ……手足隠してるあんたよりは話聞いてやろうかなって気にはなる、だろうな」
「分かった。じゃあ次は子ども達連れてくるよ」
「リュカさん!?」
「ステラさんだって今、同じ事考えただろ?」
ええ、同じ事を考えました。同時に、子ども達を連れてここに来る事の難しさも。リュカさんにまた護衛を頼む事の心苦しさも。
だけどリュカさんは、そんな私の悩みを解決するかのように話を進めていきます。
「で、ステラさん……次はいつここに来る予定なんだ?」
「ここで買った布を染めて完全に乾かすまで1週間……品質を確認したりここに来るまでの日数も考えたら大体2週間後、でしょうか」
「分かった。なあビルさん、またゴスカラスが来たら追い払うの無料で引き受けるから、俺達の事しれーっと広めといてくれないかな? ティブロン村さ、今呪いの噂を払拭する為に色々頑張ってんだよ。そういうの見たら俺、応援してやりたくてさ」
「ほー……分かった。話のタネにもなるし、ティブロン村の奴らが物を売りに来てるって事を広めるだけでいいなら協力してやるよ」
「ありがとう、すげぇ助かる」
「ありがとうございます、ビルさん」
子ども達の口は青に染まっていませんから普通に話せます。
これで、ティブロン村の名誉が少し回復できるかもしれない――きっかけを作ってくれたビルさんに感謝の気持ちを持って微笑みかけると、彼は慌てた様に言葉を重ねました。
「お、おう……で、でもいいのか? それで上手くいくとは限らねぇぞ。血の気が多い奴が興味本位で荒らしに来るかもしれねぇし……」
「大丈夫、そん時は俺とリュルフ達が全力でステラさんと子ども達を守るさ」
「ま、リュカ達がいれば大丈夫か……この辺りなら騒ぎになっても中央に陣取ってる奴らの迷惑にならないだろうし……」
「心配してくださるのですね」
「お、俺のせいであんたらの頑張りが台無しになるのも悪いからな。ま、まぁ頑張れよ。これは餞別って事で」
ビルさんは麻袋から青林檎を取り出してリュカさんと私に1つずつ手渡すと、口笛を吹いて去っていきました。
「あの人、美女に弱いの相変わらずだなぁ……」
美女と呼ばれても、かつてウェス・アドニスの花と唄われた美貌には遠く及ばないので何だかしっくりきません。
ですが多少手入れすれば美女と認識されるほどの美貌が残っている事には感謝しなければ。
見目の良さは社交でも商売でも、何物にも代えがたい武器となりますから。
「あの……ステラさん、勝手に話進めてごめん」
私の沈黙を不機嫌と取ってしまったのでしょうか? リュカさんが頭を掻きながら謝ってきました。
「いえ……リュカさんこそ、本当に良かったのですか? 子どもを連れての護衛は大変でしょうし、リュカさんだってずっと村にいられる訳じゃ……」
「ああ、ニアちゃんを一人前の魔獣使いにする為に後1年くらい村にいようと思ってたから、気にしないでいいよ。俺も世話になった村に協力したいし、それに……」
「それに?」
言葉を詰まらせたリュカさんを促すと、返って来たのは言葉ではなくお腹の音でした。
「……ごめん。飯の話したら、何だか急激に腹が減ってきて……」
「ふふ……私もお腹も空いてきました。もう12時近いですし、昼食にしましょうか」
「よし! それじゃ少し歩くけど安くて美味しい店知ってるから、そこに行こう! 村長から頼まれた新聞屋も途中にあるし」
早口で被せてくるリュカさんから、先ほどの言葉を続ける気が無い事が伝わってきます。
(……きっと、私が心配で放っておけないのでしょう)
言葉に出さずとも、リュカさんの態度からそれはひしひしと感じます。
だけど私が心配される事を嫌がってるのを知ってるから、言葉に出せない。
リュカさんが悪い人ではない事はとっくに分かってます。
リュカさんが私と伯父様やアーティ兄様の関係を訝しんでいる理由だって、私が完全にステラを演じきれていないから、違和感があるから気になっているだけだろう、という事も。
私や子ども達の護衛も、村興しの手伝いも無償で引き受けて、今もこうしてきっかけを作ってくれるほど心優しい人が私の素性を知った所で、良からぬ事を企むはずがないって、分かっているのに――
リュカさんに対する申し訳なさと、何一つ打ち明けられない自分自身に歯痒さを感じながら、私達は商品を片付けて市場を後にしました。
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