第34話 父娘の亀裂(※マイシャ視点)


 桃の節も半ばに差し掛かった頃――久々にアドニス邸にやってきたお父様は、応接間のソファに座るなり、わたしに冷ややかな眼差しを向けてきた。


 お姉様が誘拐された青の節に、コンラッド様と華やかな式を挙げた事が気に入らないのかしら?

 それとも、お姉様の事件が起きてから一年も経たずに妊娠した事が気に入らないのかしら?


 雲一つない晴れやかな空から窓に差す陽射しも、テーブルの上にあるティーカップもほんのり温かいのに。

 今にもお説教が始まりそうな雰囲気に口から自然と重い息が漏れると、お父様が重々しく口を開いた。


「マイシャ……アーティにアドニス家からの援助の額を減らすよう頼んだそうだな?」


 ああ、その事――アーティ兄様ってば、お父様の説得に失敗したのね。

 優しくて優柔不断なお兄様だからあまり期待はしてなかったけど、わたしがお願いした事までお父様にバラすなんて酷いわ。


「お父様……わたし、コンラッド様と一緒に過ごして気づいたの。あの方もお姉様の死で深く傷ついてる……十分すぎる位、深く……だからもうこれ以上、うちの事で負担をかけたくないの」

「……お前の、システィナを失った怒りや悲しみはその程度だったのか」


 わたしが涙を溜めて呟いた言葉に、お父様は眉一つ動かさずに心を見透かしたような酷い嫌味を放ってくる。


「嫌な言い方しないで! わたしは、怒りや悲しみに囚われたって何にもならないって気づいただけ……! だって、コンラッド様やこの家をどれだけ憎んだって、お姉様はもう戻ってこないでしょ!?」


 お姉様はもう、この世にはいない。

 いない人間の為にどれだけ怒り悲しんだところで、何の見返りもない。

 ただ自分の幸せが遠ざかるだけなんだから――


 ついカッとなって言い返してしまったけど、そこまで言うのは不味い。

 言葉をつぐんで顔をうつむけると、上質なワンピースの細やかな刺繍が目に入ってきた。


 そう。今の私は、メルカトール邸にいた時より、ずっと良い生活をしている。

 誰もが羨むような上質な服に豪華な料理、華やかな社交界では次期領主夫人として一目置かれて囲われて。

 その上お腹には可愛い子どもが宿っている。


 表面上はお姉様の事で心を痛めているフリをしてるけれど、こんな恵まれた環境で幸せを堪能しないなんてもったいないわ。

 

 だけど――


「コンラッド様は……今でも夜、お姉様を救えなかった悪夢で目を覚まされる時があるわ。その姿がもう、痛々しくて……」


 コンラッド様は今、お酒も断って、多少陰りはあるもののかつての貴公子の姿を取り戻してるけど、わたしの前では情緒不安定になる事がしばしばある。

 お姉様に謝りたくても謝れないという状況が相当辛いらしい。


 そんなにウジウジ嘆くなら、一度くらい姉様に謝りに来ればよかったのに。


 一度も謝りに来ない、葬儀にも出てこれない時点で分かってたけど――コンラッド様はわたしが思っていたよりずっと弱い人だった。


 でも、見た目も華やかだし、頭も良いし、お話も上手だし人当たりもいい。

 何よりこの都市の次期領主。この都市で一番有望な男の人。

 だからわたし、コンラッド様が落ち込む度に優しく慰めてあげてるの。


 それにパーティーで『大金払って花を取り替えた坊ちゃんボンボン』だの『どれだけ美しくても汚れた花には興味がない非情な男』だの『横恋慕していた妹が姉の不幸な事件を利用した』だのヒソヒソ言う人がいるから、わたし、コンラッド様がどれだけ苦しんでいたか、お姉様を失ったからこそわたしの事は絶対に幸せにしたいと言ってくれてる事をお茶会開いて涙ながらに話したりして、悪い噂を払拭しようと頑張ってる。


「……コンラッド君が苦しんでいるからと言って、何故私達への援助を減らさねばならない? 彼の苦しみと私達の苦しみは全く別物だろう」


 娘の幸せより自分の権利ばっかり主張するお父様に心底呆れてしまう。

 お金の事しか考えていないお父様には、わたし達の辛さも苦しみも分からないみたい。


「お父様……わたし達がこの家を憎み続ければ、わたしの子どももきっとこの家を憎むようになるわ。わたしは子どもに余計な怒りや悲しみを植え付ける親になりたくない」


 怒りも悲しみも、生きていたら背負っていかなくてはならないもの。

 親から余計な怒りや悲しみを背負わされるなんて、私は絶対嫌だわ。


「お前は、私とアーティがお前の子どもに恨み辛み吐きつけるような人間だと思っているのか?」

「そんな事言ってない! これから子どもが生まれるって時に、うちから負担がかかるような援助を課せられてる状況はおかしいんじゃないかって言ってるの……!」

「……子どもに両家の禍根を背負わせたくないという気持ちは分かる。しかし、それとメルカトール家とアドニス家で交わした話は別だ。あれは取引だ。お前が口を出していい話ではない」

「でも、この間新しいドレスをオーダーしようとしたらお金が足りないって言ってたわ……! ドレス一つ作れない程困窮しているなら、援助だって厳しいはずでしょう? メルカトール家の娘として、アドニス家の次期当主夫人として、口を出さない訳には」

「それは金が足りないからではない。2節前に藍色の染料になる花インディグラスを栽培している土地が魔物に荒らされた関係で他の染料ものきなみ高騰している。何処の貴族も今はドレスの手直しで間に合わせている。新しいドレスなど作っている場合ではない」


 ああ言えば、こう言う――わたしと父様の言い合いをお兄様もお姉様もいつも困ったように眺めていた。

 その後、お兄様やお姉様は慰めてくれたけど、お父様が折れた事は一度もない。


「……お父様はわたしの事を考えてくれないのね」

「お前の事……? アドニス伯から何か言われているのか? 援助が減額されないなら子どもにかける費用を削る、と脅されているなら」


 頷けば、少しはお父様の気持ちも揺らぐかしら――と一瞬思ったけど。


「いいえ……アドニス伯はわたしの妊娠を心から喜び、援助の事は何も心配しなくて良いと言ってくださっているわ。わたしの妊娠に良い顔をしないお父様と違って、とても気前のいい優しい方だわ」


 ここでアドニス伯お義父様を悪者にする訳にはいかない。

 お父様はすぐ確認するでしょうし、お義父様のわたしに対する心象も悪くなってしまう。


「……マイシャ、お前が婚約者変更の時に何と言っていたか覚えているか? 私やアーティの言葉を蔑ろにして、システィナを蔑ろにした家の味方をする……システィナが今のお前を見たらどう思うだろうな」

「コンラッド様がお姉様を誘拐した訳ではないわ」

「本来外出する必要が無かったシスティナを自身の我儘で連れ出し、守れなかった挙句、汚名まで被せたのだぞ……!? 私にとっては、あの男が誘拐したも同然だ……!!」

「そんな言い方、酷すぎるわ……! アドニス家からの援助を膨らませる事も出来ずに、ただただ消費する金食い虫になってるお父様にそんな風に言われたくない……!!」


 声を荒げて立ち上がる同時に、応接間のドアが開く。そこには困った様子のアドニス伯とコンラッド様が立っていた。


「……親子水入らずの話に邪魔するのもどうかと思ったのだが、険悪な状況はお腹の子にも負担がかかる……コンラッド、マイシャを部屋に連れて行け」


 ああ、やっぱりお義父様は優しい。私のお腹にいるのはお父様の孫でもあるのに、お父様とは大違いだわ。

 お義父様に感謝していると、わたしの肩をコンラッド様がそっと抱き寄せる。その手はとても温かくて優しい。


「パーシヴァル卿、貴公の気持ちは重々分かっている。今回、そちらの希望通りの支援をしたのはアドニス家からの誠意だが正直、減額を願い出たい気持ちもあった。マイシャはそれを察してくれたのだろう。この子はもうアドニス家の人間だからな……」


 そう、わたしはもうアドニス家の人間。お父様のお小言に従わなくていい。

 そんな解放感に包まれながら、わたしはコンラッド様と一緒に応接間を後にした。




「……ずっと、聞いていたの?」


 私達の寝室へと続く廊下。

 お父様とのやりとりを何処まで聞かれていたのか、気になってコンラッド様に尋ねると、コンラッド様は軽く首を横に振った。


「いいや、君がパーシヴァル卿に怒る声が聞こえてしまっただけだよ」

「そう……お父様が分からず屋でごめんなさい」


 アドニス伯も、コンラッド様も、貴族達も、皆がわたしを次期領主夫人として認めているのに。

 お姉様が亡くなってからもう半年以上経ってるのに。


 生きてるわたしのお願いより、生まれてくる子供の未来より、死んだお姉様が望んでいたかどうかも分からないお金を大切にするなんて、酷い。


(……取引がどうだの、売り物に出来そうな物があるだの、お金の事ばかり考えて家にあまり帰ってこないのが商人だから、仕方ないのかもしれないけれど)


 それでも――体を労わる優しい言葉の一つくらいかけてほしかった。


 お父様も、色々口煩いけれどわたしの事を考えてくださってると思っていたのに――本当に残念だわ。

 アーティ兄様はわたしの事可愛がってくれるけど、お父様には逆らえない。


 お兄様は一切あてにならない。お父様はあてに出来ない。お姉様はもういない。


 そう思うと急に寂しくなって涙がこみ上げてきそうになるのを堪えると、コンラッド様の優しい声が落ちてきた。


「大丈夫だよ、マイシャ……何も心配しなくていい。父上も言っていたけれど君は元気な子を産む事に集中してくれ。今君とお腹の子に何かあったら、今度こそ僕は生きていけない」


 ああ、コンラッド様はわたしが欲しかった言葉をくれる。

 この都市で一番美しくて、有能なひと


 システィナ姉様が死んだ今、この人が愛するのはわたし。

 お父様や兄様と違って、ちゃんと毎日家に帰ってきてくださる。わたしを気にかけてくれる。


 お姉様が亡くなった事で、コンラッド様の心に深い傷が残ってしまったけれど――

 その傷を優しく撫でるだけでコンラッド様はわたしを愛してくれる。


 優しいお義父様に、お腹の中にいる可愛い子――コンラッド様がたまに亡霊姉様に懺悔する事にさえ目を瞑れば、私には幸せしかない。

 お義母様は既に亡くなられているから、わたしはここでたった一人のお姫様になれる。

 このウェス・アドニスで最も美しい花として持て囃される。


 そう思えば先ほどの不快感なんて吹き飛んで、温かい気持ちがこみ上げてくる。

 勢いあまってコンラッド様をギュッと抱きしめると、コンラッド様も優しく抱きしめ返してくれた。


(……誘拐事件なんて起きなければ、きっとこの立場はお姉様のものだった)


 心がチクりと痛むと同時に、あの夜ベッドに横たわった痩せ細ったお姉様の姿が頭を過ぎる。

 わたしの言い方が不味かったから死んでしまったのかしら――と罪悪感にかられる時もあったけれど。

 でも、私達の事を考えずに身を投げたお姉様ほど酷い事はしていないわ。


 ああ、もし天国が本当にあるのなら、お姉様の魂は今頃嘆いているのかしら?

 それとも、後悔しているのかしら?


 ごめんね、大丈夫、お姉様――わたし、今、すごく幸せよ。


 もう全部綺麗に水に流してあげるから、大切なお姉様として冥福を祈り続けてあげるから。

 だからもう、コンラッド様の夢に出てこないで。


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