モデル

春野訪花

モデル

「ちょっと手貸して!」

 唐突なことにぽかんとしてれば、こちらの許可も得ずに手を取られた。持ち上げられ、握られ、撫でられ……。

 呼び立てておいて放置されることには慣れている。今日も今日とて、「うちに来て」と一言連絡を寄越したかと思えば、部屋にやってきた俺をスルーだ。

 足の踏み場もないほどに散らかった一室。一応は彼女の居住区であるはずなのだが、そこにあるのは絵を描くための道具ばかりだ。部屋の中心には大きなキャンバスが、いつだって家主かのごとく居座っている。彼女はその前に座って、真剣な顔で絵と向き合っていた。

 なので、こちらもまた彼女を放置することにしたのだが……こうして手を握られている。これまた真剣な顔で。「俺の手」というよりは、「人間の手」のサンプルが欲しかっただけらしい。

 途中の絵を見れば、今回は男を描いているようだ。力強い目をした男が何かを見据えている絵。

「ちょっとこういう形にして――そう。そのまま」

 自分の手を動かして指示を出してくるので、言われるままに手を形作った。これもまた、よくあることだ。

 適度に開いた状態をキープする手を、無遠慮に触られる。手の筋をなぞったり、持ち上げてみたり、裏返してみたり。描かない部分だって入念に観察する。

 絵の具で汚れた指先が、手の甲をなぞった。

「ふはっ……」

 触れるか触れないかくらいの距離感で動かれてくすぐったい。

 彼女の手が俺の手を強く握った。

「ちょっと、動かないで」

「んなこと言ったって。くすぐったいんだよ」

 言い返すも、もう彼女には聞こえていないようだ。

 全く。

「触るならもっとはっきりと触ってくれよ。中途半端だとくすぐったい」

 ちらりと彼女が俺の顔を見上げてきた。

 スルーされるかと思ったので意外だ。

 指先、もはやつま先で触れていた手つきが、指の腹でなぞるように変わる。遠慮なく触ってくるだろうと思っていたのに、それはとても柔らかなものに触れるかのような、優しいものだった。

 思わず、動きを止めていた指先がぴくりと動く。だが、彼女はそれに文句を言ってはこなかった。ひたすらに黙々と、俺の手を撫でている。

「……な、なあ、そんなに撫でる必要って、あるのか?」

 彼女の手が止まった。俺のそばにしゃがみ込んでいるので、彼女の頭のてっぺんしか見えない。

「ある。質感とか分かった方が描きやすいから」

「ふぅん?」

 そういうものなのか? にしても、一瞬動きが止まったのは……?

 じわりと手に汗が滲んでいく。それが彼女に気づかれそうで、かといってここで手を引き剥がすのも不自然そう動けなくなってしまった。

 彼女もまた動かない。絵の具に汚れた手も。あれだけ俺の手を撫で回していたのに。

「…………」

「…………」

 不意に彼女が立ち上がった。

 思い切り目を逸らして、

「モデルありがと」

 と呟いて、絵の前に戻っていってしまった。

 絵の具やパレットなどで散らかっている中、唯一の生活空間と言ってもいい椅子の上で、まるで取り残されたような気分になった。

 だが、描きかけの絵を前に、筆を上下逆に持っている彼女を見て全くそんなことはないと気がついた。

 手汗をズボンで拭う。

「…………」

「…………」

 本当にそれだけ?と聞くには、もう少し時間がかかりそうだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

モデル 春野訪花 @harunohouka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説