第51話
「あんた、何でここにいるわけ?」
恋ちゃんが白けた顔で言う。
「本の整理をしていたんですよ。許可は取ってあります」
カウンターに目を向けると、図書委員の男子が眉を吊り上げてこちらを睨みつけていた。
「仕事をしてくれて感謝しているみたいですね」
「いや、図書委員でもないのに口出ししてくんなって顔に見えるんだけど……」
恋ちゃんが呆れの色を浮かべて言うと、辻本さんは不思議そうに「そうですか?」と首を傾げた。
「私が来るといつもああですよ。たぶん感情表現が苦手な方なんでしょうね」
相変わらず辻本さんは少しズレていた。今となっては安心するけど。
恋ちゃんは眉を顰め、辻本さんを睨みつけた。
「っていうか今話しかけてこないでほしいんですけど。あたしと絵里のイチャイチャタイム邪魔しないで」
「恋ちゃん、イチャイチャタイムって表現はおかしいと思う」
「じゃあ、ラブラブタイムで」
私は抵抗する気力を失い口を閉ざした。
「そういえば今日が最終日でしたね」
言いながら腰を下ろす。
「いや、ナチュラルに何隣座ってんの? 図々しすぎてびっくりするわ」
「絵里さんに聞きたいことがあったんですよ」
硬い表情で言う。私は思わず背筋を伸ばした。恋ちゃんも矛を収める。
「私達との関係をこれからどうしていこうと考えているんですか?」
息を呑む音が聴こえた。誰から発せられたものなのか、私にはわからなかった。ひょっとしたら自分の喉から出た音かもしれない。
ずっと引き延ばされていた問題だった。
相談を完遂したら距離を置こう。少し前までの私はそう考えていた。
しかし、今は……。
慎重に口を動かす。
「私は推しであることと、友達であることは、両立しないと考えていた。友達付き合いの中でふとした瞬間悪影響を与えてしまう――そういうことも考えられるからね」
二人の顔が僅かに強張った。
「私は桃との過去で友達を作っちゃいけない人間だと思っていたから、そもそも、友達になるなんて選択肢は端からなかったんだ。ただ、その過去に関しては、私の勘違いに基づくものだってわかったから、友達を作ってはならないという思い込みはなくなっている」
「なら……!」
恋ちゃんが身を乗り出す。
私は遮って言った。
「喫茶店で大学生達と話したよね。結果的にはいい方向に転んだけど、それはたまたまで、ひょっとしたら悲惨なことになっていたかもしれない」
「いい結果に転んだのならいいじゃん。それに、愛があるなら影響を与えてもいいって絵里言ってたよね? それなら何の問題もないっしょ?」
恋ちゃんが言う。
私は頷いた。
「確かにそういうことを言ったね。でも、あれは愛のある行為じゃなかったと思う。攻撃的で、自分の鬱憤を晴らしたいっていうのが先行していたように思うんだ。もちろん辻本さんのことは考えていたよ。でも、辻本さんを再起不能にするくらい追い込んでいたかもしれない」
自分の意志に反してネガティブな言葉が出てくる。自分でもびっくりだった。私は、こんなことを考えていたのかと愕然とする。
二人にしか見せられない、心の黒い部分だった。
「私は怖いんだよ。自分のせいで二人に悪影響を与えてしまうことが……。克服できたと思ってた。でも、この間の一件でまた不安になった。私は作品のことや推しのことになると周囲が見えなくなる。それで余計なことをたくさん言っちゃって、二人に迷惑をかけるかもしれない……。我ながら滑稽に思うよ。私にそこまでの影響力なんてないのにね」
「絵里……」
恋ちゃんが泣きそうな顔をする。
推しを悲しませているという事実に胸が痛んだ。息苦しくなる。
その時、溜息が聞こえた。
辻本さんが、冷めた視線をこちらに向けていた。薄い唇を開く。
「私は絵里さんのことが好きです」
しん、と場が静まり返った。
辻本さんは真顔で続けた。
「好きな人から影響を受けるのは当然のことです。さらに言えば、私は絵里さんの影響をこれからも受け続けたいと考えています」
スマホを取り出して画面を見せてくる。
「昨夜、『夕闇の魔術師の話がしたい』と連絡が来ました。例の大学生からです。了承してテキストベースでやりとりを始めたんですが、途中からヒートアップして通話に切り替えたんです」
そこで意外な話を聞かされたという。
彼は父親の小説を読ませてもらえなかったそうだ。理由はわからないがそういう教育方針だったらしい。しかし、高校生の時にどうしても読みたくなり、こっそり『夕闇の魔術師』を書店で購入して読んだそうだ。
「これまで読んだ小説の中で一番面白いと感じたみたいです。彼は早速父親の書斎に向かい、『夕闇の魔術師』の素晴らしさを語りました」
しかし父親からの反応は今ひとつだった。話し終えると、「それは失敗作だ」と一蹴されてしまったらしい。
「彼はその後、ネットの書き込みやレビューに目を通しました。そこで書かれていた全ての批判を受け入れ、『夕闇の魔術師』を駄作認定したそうです」
「え、どうして……?」
口を挟むと、辻本さんは悲しそうに言った。
「父親から否定されたからですよ。そのことを正当化したかったんでしょうね。自分の感想よりも作者、批評家、世間の声の方が正しいという方針を取ることに決めたみたいです。しかし、その方針は彼を苦しめました。自分が面白いと思ったものが叩かれているのを見ると、心が冷め『ああそうか、これはつまらないものだったのか』と意見を翻すようになったからです。そんなことを続けてきたせいか、彼はあらゆる作品に対して好意的な感想を持てなくなってしまいました」
辻本さんはスマホをしまった。
私の顔を凝視しながら言う。
「でも、彼は救われたんです。誰にだと思いますか?」
「え……わからないけど……」
「絵里さんにですよ」
大真面目な顔で続ける。
「彼は言っていました。自分は本を読むのを辞めたがっていたと。そのことに気づかないふりをしながら文芸サークルの皆に作品を勧め、批判するように促していたと。自分のスタンスを正当化できる空間を作りたかったんでしょうね」
辻本さんは私の目を覗き込んできた。
「しかし彼は、絵里さんの話を聞いて自分の間違いを認めることができたみたいです。これからは自分だけの『面白い』を探求していきたい――そうおっしゃっていました」
私は何も言えなかった。ただ黙って話を聞き続ける。
「絵里さん、言ってましたよね。悲惨なことになっていたかもしれないと。しかし、よく考えてみてください。絵里さんがいなかったら彼は救われていませんでした。そうなるとサークルの人達も彼のようになっていたと思います。私もまだ、家の中で一人キーボードを打ち続け、心を閉ざしていたかもしれません。絵里さんがいなかったら、間違いなく悲惨なことになっていたんですよ」
「そうだよ」
恋ちゃんが口を挟んでくる。
「絵里がいなかったら、あたしもパンクしていた。ノートに書くだけじゃこの不安は抑えられなかったと思うから」
二人の視線を浴び、私は体を硬直させた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます