第39話
私のアドバイスは逐一お姉さんに伝えられていたらしい。姉のためになるならいいと、最初は開き直っていた桃だが、やがて嘘をつき続けることに耐えられなくなり、私やオタク趣味から遠ざかることに決めたそうだ。
「勝手すぎて反吐が出るよね……。過去の自分をぶん殴ってやりたいよ」
桃はすっかり泣き止んでいたが、目は真っ赤なままだった。
私は軽い調子で言葉を吐き出した。
「過去の自分を殴りたいのは私もそうだよ。でも、この件に関してだけは過去の自分を許すことにしたんだ」
「……私もそうするよ。これ以上、ウジウジしても仕方ないからね」
ようやく肩の荷が下りた気がした。随分と長い道のりを歩んできたように思う。
絵里、と呼び掛けられる。
「絵里は誤解しているみたいだけど、うちの姉は漫画を描き続けているからね」
「え、そうなの?」
身を乗り出す。
「彩音のお父さんのところでアシスタントとして雇ってもらっていたんだ。で、ここ最近になってようやく商業誌デビューが決まった」
心に暖かいものが満ちていくのを感じる。あれだけの才能を持ちながら、やめるのは勿体ないと思っていたのだ。でも、やめていなかった……。これほど嬉しいことがあるだろうか。
「どういう漫画を描いてるの? バトルもの? それともラブコメ? 夢だった少年誌でデビューする感じ?」
「落ち着きなっての」
私から距離を起き、口の端を吊り上げながら言った。
「成人向け漫画雑誌でデビューするみたいだよ」
「へぇ、エロ漫画かぁ……」
私はうっとりした。
「確かに色っぽい女性キャラクターを描くのが上手かったもんね。納得だよ。きっと凄い絵になってるんだろうなぁ……」
「ちょい」
桃が呆れた顔をする。
「なんかリアクションおかしくないかい? 普通、『エロ漫画なの!?』ってならない?」
「え、単純に向いていると思ったんだけど」
「絵里って大物だよね……。ついていけないわ……」
なぜか呆れられた。
「お姉ちゃんは絵里に感謝してると思うよ。絵里のアドバイスのおかげで上達したわけだから」
「それはないでしょ」
「あるんだよ。今度、お姉ちゃんと会いなよ。紹介するからさ」
また創作者の知り合いが増えるのか……。嬉しくもあるけど気が重かった。
桃は息を吐き出した。だいぶ精神は持ち直してきているらしい。
やがて真剣な顔で口を開いた。
「今日、ここに来た要件をまだ伝えてなかったね。彩音のことで訊きたいことがあったんだよ」
「辻本さん……?」
学校を休んでいたことを話すと、桃は眉間に皺を寄せた。
「やっぱりよくなかったか……」
「何があったの?」
昨夜、たまたま辻本さんを街で見かけて声を掛けたそうだ。その時、いつも以上に刺々しい反応が返ってきたという。
「ゾンビみたいな顔色をしてたよ」
「それは……」
大丈夫なんだろうか。
「話を聞いてみて驚いたよ。大学生達と会っていたみたい」
心臓が跳ねる。つい先ほど、喫茶店で見た光景が思い出された。
桃は溜息をついて言った。
「どういう話をしたのか具体的な内容までは教えてくれなかったけど、調子が悪そうだったから、『大丈夫かい?』って聞いたんだ。そしたら『知りません』と返された」
随分と突き放した言い方だ。
「それだけならまだ平常運転に思えた。でも、見過ごせなかったことが一つある。彩音の腕時計、一時間以上ずれてたんだ。そのことを指摘したら、『ああ、そうですね』って……」
一分でも時間がずれたらすぐさま直す人だ。確かにそれは不自然すぎる。
「家までついていくよ、って言ったら『来ないでください』って拒絶された。あそこまで冷たく拒絶されたのは初めてで、正直ちょっと傷ついたな……」
「桃はよくやったと思うよ」
「サンキュね」
笑みを浮かべる。
「でも、ついていかなかったのは失敗だったと思う。今日ここに来たのは、彩音の学校での様子を訊きたかったからだよ。本人に訊いても、絶対に教えてくれないと思ったからさ」
でも、と顔を暗くする。
「学校を休むほど追いつめられているとは思わなかった。なんだかんだ、メンタルの強い奴だと思っていたからね」
私はソファから腰を浮かせて桃を見下ろした。
「行こうよ」
「え?」
「辻本さんの家に行くんだよ。ちょっと遅い時間だけど、七時までには着けるんじゃないかな?」
桃は一瞬の逡巡も見せず「よしきた!」と立ち上がった。親指を立てて笑う。
「絵里のこういうところ、マジで好きだぜ」
「ありがとう。でもそれ、恋ちゃんの前では絶対言わないでね」
「恋ちゃん?」
「私の推しの一人」
絶対ぶつくさと文句を言われる。辻本さんの前でも言わせない方がいいだろうな。そんなことを考えながら玄関に向かう。
私達は夕焼けに染まった街に繰り出した。
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