第22話

「ハグくらいならいいけど……」


 辻本さんに近づく。間近で見ると、とんでもない美少女だとわかった。まつ毛が長く鼻筋が通っている。躊躇すると緊張してしまうので一思いに抱き着いた。背中に手を回すと、艶のある長い髪に手が触れ、興奮を覚えた。

 れもんの香りがする。更に抱き寄せると匂いが濃くなった。

 そのまま一分以上は経過しただろうか。


「もう結構です」


 囁かれ、私はゆっくりと体を離した。辻本さんはなぜか不機嫌そうに眉根を寄せていた。横を向いて唇を動かす。


「変な気分です……」

「そ、そうだね」


 家族連れが私達の横を通り過ぎていく。私は気まずさを誤魔化すために口を動かした。


「そういえば、どうして腕時計を二つはめてるの?」

「……これのことですか」

 

 腕を上げる。そこには二つの時計がはめられていた。アナログ時計とデジタル時計だ。

 辻本さんは時計に触れながら言った。


「一つ狂ってしまっても、もう片方を見れば今の時間がわかりますからね」


 私は小首を傾げた。


「でも、どっちが正しい時刻を示しているのかわからなくならない?」

「スマホを見ればいいんですよ」

「最初からスマホじゃ駄目なの?」

「あまり見ないようにしておきたいんです。電源を入れておくと気が散るので」


 だいたい予想通りの答えだった。

 辻本さんは赤いバンド部分に触れながら言った。


「こちらのアナログ時計は友達からいただいたものなので、つけているというのもありますけどね」


 そういえば、と辻本さんは続けた。


「その友達に絵里さんと話すことを勧められたんです。だからあの日、図書室で声を掛けたんですよ」

「……え?」


 意味がわからなかった。言葉の意味を理解する前に、辻本さんは話を前に進めた。


「評論家や編集者と似たような視点で作品を読んでくれると聞いていたんですが、正直、半信半疑でした。しかし声を掛けてみて、彼女の言うことは正しかったとわかりましたね」

「それって……」


 やめておけ、と理性が止めてくる。この先にあるのは落とし穴だ。今ならまだ引き返せる。わざわざ罠にはまる必要はなかった。

 それをわかっていながら、私は警告信号を無視して突き進んだ。


「……長谷部桃のこと?」


 辻本さんは表情を変えなかった。

 違うのか、と安堵しかける。

 しかし次の瞬間、彼女は弾丸を撃ち込んできた。


「ええ、長谷部桃から聞きました」


 視界が歪んだ。平衡感覚を失い、倒れそうになる。近くの街路樹に何とか手を突き、突如として昇ってきた吐き気を抑え込もうとした。


「絵里さん?」


 思考が空回りしている。ここでいくら考えたところで何の答えも導き出せないことはわかっている。時間の無駄にしかならないだろう。しかし、考えるという行為から逃避するのは無理そうだった。

 呼吸を落ち着かせ、街路樹から手を離す。混乱した状態で口を開いた。


「も、もう大丈夫だよ。ちょっとした立ち眩みだから」

「どこかで休みましょうか?」


 辻本さんが心配の色を浮かべて言う。


「いや、今日はもう帰りたいな。解散しよっか」

「送っていきますよ」


 自宅の前までついて来てくれた。感謝の言葉を伝えてから別れる。私はドアノブを掴み、そのままの体制で動きを止めた。家に帰る気分になれなかったからだ。

 何の気なしにスマホを取り出すと、恋ちゃんから『大丈夫?』というメッセージが入っていた。ついさきほどの送信だ。


 どういうことだろう?

 辻本さんが今の私の状態を伝えてくれたんだろうか? 

 それはないな、と考えを捨てる。デートの終わりに辻本さんが恋川さんに連絡を取るとは思えなかった。

 では、どうして急に『大丈夫?』なんて送ってきたのか……。


「見られてたのかな?」


 独り言を呟く。

 これもないか、と首を振った。恋ちゃんが私達に遭遇していたとしたら、声を掛けてきたはずだ。たぶん、『辻本との相談大変だったよね?』というニュアンスのメッセージだったんだろう。

 桃の件でナーバスになっているらしい。変な妄想に囚われてはいけないと自分を律してから、私はドアノブを回した。

 

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