第15話


 水曜の放課後、私は喫茶店にいた。コーヒーに口をつけながら店内を眺める。美しい絵が茶色い壁に飾られていた。BGMは控えめながら耳に心地よく、良い店だと思った。


「編集者と打ち合わせする際によく使っている店です」


 制服姿の辻本さんが言う。手元には紅茶の入ったカップが置かれていた。私とは違い、場慣れした雰囲気を漂わせている。


 座っているだけで絵になるなぁ……。


 つい忘れそうになるが、辻本さんは絶世の美少女だった。おまけに現役ミステリ作家という肩書きまである。本来、私のような根暗一般人と関係を持つことなんてありえない存在だった。そのことを自覚して、少しだけ緊張する。

 

「昨日、恋川さんの家で話したそうですね。どうでしたか?」


 楽しかったと伝えると、辻本さんは不快そうに眉を顰めた。


「そんなことは聞いていません。ルール違反がなかったかどうかを聞きたかったんです」

「な、なかったよ」


 三人の間で交わされたルールはそれほど多くない。

 頭の中で思い返す。

 一日最大三時間、私は一人の相談に乗ればよかった。それ以外の時間にアドバイスする行為は禁じられている。ルールを破ったらペナルティとして、期限の延長が課されることになっていた。


「では、本題に入りましょうか」


 二つの腕時計を見ながら言う。いい加減、なぜ二つはめているのか突っ込みたいところだ。しかし、今日は時間制限があった。また後日にしようと思い直す。

 辻本さんは真顔で口を開いた。


「実は先日から二作目の執筆をしているんですが……」


 私は思わずお尻を持ち上げた。


「今度はどんなものを書いたの? 処女作の続編?」

「……嬉しそうですね」

「嬉しいに決まってるよ! 絶対読ませてもらうね!」


 顔を逸らされる。微妙に頬を赤らめているように見えた。


「絵里さん、大声ではしゃぐのははしたないですよ。場所をわきまえてください」

「え、あ、ごめん……」


 椅子に座り直す。


「絵里さんには今日、作品の冒頭を読んで面白そうかどうか判断してほしいんです」 


 プロの生原稿を読めるのか……。

 嬉しさと同時に不安も覚えた。


「編集者さんには許可を取ったの?」

「その必要はありません。ルール上何の問題もありませんから」


 村上春樹は編集者に読ませる前に一度、妻に原稿を読んでもらっていると聞いたことがある。しかし、私なんかが読んでいいものなんだろうか。編集者に直接読ませた方が絶対いいと思う。

 とはいえ、本人が大丈夫と言っているのだ。躊躇して時間を浪費するのは互いにとってよくないだろう。

 辻本さんは茶封筒から五枚の原稿用紙を取り出すと、テーブルの上に置いた。


「早速読ませてもらうね」


 原稿を手に取り、活字の世界に潜っていく。

 宇宙船が舞台だった。処女作とはずいぶんと様変わりしている。設定説明と宇宙船描写が長々と続き、あっという間に五枚読み切ってしまった。


「どうでしたか?」


 私はコーヒーに口をつけてから、ふう、と息を吐き出した。


「面白そうって思えたよ。窓から死体が見えたところで終わっていて、上手い引きになっていると感じた」


 そうですか、と辻本さんは頬を緩めた。安堵の色を浮かべている。珍しい表情だった。

 しかし次の瞬間、真顔になった。


「私に気を遣っているんじゃないですか?」


 彼女らしくない後ろ向きの発言だった。


「え、どうしてそう思うの?」


 辻本さんは唇を噛んだ。手元のカップの中を見つめている。やがて顔を上げた。


「担当編集者に書き直しを命じられたからです」

「……え、どこが駄目って言われたの?」

「まず、設定の説明が多すぎるそうです。読者が読みたいのはストーリーやキャラクターであって、設定ではないと言われました」

 

 私は何も言わなかった。目で先を促す。

 

「会話があるのは四ページ目からなんですが、それもいただけなかったそうです。今のエンタメの基準から言うと、あまりに遅すぎると。これでは最初の二ページで多くの読者が本を閉じてしまうと言われてしまいました」


 確かに、その編集者さんの指摘は的確だと思った。


「私は納得いっていません」


 辻本さんが目に光を宿す。


「どんなことにも例外はあるでしょう。そもそも、設定を最初に提示しているタイプのSF作品は多く存在しています。それに私の作品は論理の美しさを競うミステリというジャンルです。ミステリとしての完成度が高ければ問題ないでしょう。絵里さんもそう思いますよね?」


 珍しく声に感情が乗っていた。腹に据えかねているのだろう。

 どうやら私は、編集者さんのアドバイスを否定する材料を与えてしまったらしい。

 このままでは編集者さんとの関係が悪化して、本を出して貰いづらくなるかもしれない。そうなった時のことを想像して血の気が引いた。慌てて口を動かす。


「辻本さん、落ち着きなよ」

「私は落ち着いていますよ」

「お、おち、おち、おちち、落ち! 落ち着いて!」

「落ち着いていますが……」


 哀れなものを見るような目を向けてくる。

 どうやら落ち着くべきは私だったらしい。

 呼吸を整えてから言った。


「編集者さんの意見は一理あると思う」

「さっきは褒めてくれたじゃないですか」


 しらっとした視線を向けられる。


「ごめん。正直距離感を測りかねてちゃんとした感想言えてなかった」

「どういうことですか?」

「……な、仲良くなったから、色々と躊躇して言えなかったんだよ」

 

 視線を逸らす。まともに顔を見られなかった。

 辻本さんは「仲良く……」と呟き、顎に手を当てて考え込んだ。

 彼女の中で私は仲良し認定されていなかったんだろうか。胃がキリキリと痛む。

 辻本さんは頷き、「そうですね」と口にした。


「私と絵里さんは仲良しです。それなら確かに、きついことは言いづらいかもしれませんね。私、人と仲良くなるのは久しぶりです」

「そ、そうなんだ」

「はい。私にとって絵里さんは特別みたいです」

「……」

「……」



 謎の沈黙が生まれてしまった。

 なにこれ……。めちゃくちゃ恥ずかしいんですけど……。

 私は言葉を紡いだ。


「そ、それはともかく、もう少し編集者さんと話し合った方がいいと思うよ。結局、編集者さんを納得させないと出版まで持っていけないわけだから」

「それは……その通りですね」

「一回、編集者さんの言う通りに直してみるのもありなんじゃないかな? いざ直してみたら、そっちの方がやっぱりよかった、ってなるかもしれないよ?」

「……しかし、絵里さんはこの原稿を褒めてくれました」


 雨に濡れた小動物のような雰囲気を漂わせて言う。テーブルの上に置かれた原稿を愛おしそうに撫でた。


「それを私は否定したくありません。絶対に」


 辻本さんの言葉を聞いた瞬間、胸に痛みを感じた。

 なんだろう、この感覚……。

 可哀想に思ったのか、健気に思ったのか、嬉しいと感じたのか。自分の感情がまるでわからなかった。

 何か言わなくては、と言葉を探すが、気の利いた台詞は何一つ浮かばなかった。沈黙が続いてしまう。

 辻本さんは紅茶に口をつけた。ナプキンで口元を拭い、私を見つめてくる。


「書き直したとしても、この原稿は保管しておくことにします」

「う、うん」


 むず痒い空気を払しょくするため、私は最近読んだSF小説の話を振った。流石に唐突だったかもしれない。しかし、辻本さんも偶然読んでいたらしく、嬉しそうに乗ってくれた。それから十分間、私達は貴重な時間を割いて感想を言い合った。

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