第4話


 九月上旬の涼しい風を肌に感じながら、バス停の前で足を止める。今日は珍しく家を遅く出た。読んでいた小説が面白すぎて中断できなかったからだ。

 とはいえ、遅刻の心配はしなくて済みそうである。ホームルームには余裕で間に合う時間だった。


 恋ちゃんが推しの作家だと知ってから既に一週間が経過している。

 あの日以来、毎日声を掛けられるようになった。トイレに向かおうとしたら「どこ行くの?」と必ず訊かれ、授業中に当てられたら「がんばれ」と応援され、一人で食事を取っていたら「一緒に食べようよ」と誘われた。


 最初は嫌がらせを疑った。ぼっちの陰キャにはきつい仕打ちばかりだったからだ。たぶん悪意はないんだろうと思う。仲良くなることでアドバイスを聞き出そうと考えているに違いない。しかし、どれだけ懐柔を狙おうと意見を変えるつもりはなかった。早く諦めてくれないかな、と思う。


 頭を切り替え、車道の先に視線を向ける。

 東山高校の制服を着た女の子が立っていた。バスを待っているらしい。

 見覚えのある顔だと気づく。

 中学時代の友達、桃だ。以前より髪を短くしている。身長はかなり伸びているようだった。


「うっ……」


 口元を抑え、慌てて視線を逸らす。

 心臓が激しく音を立て始めた。

 バスよ早く来てくれ、と念じる。早く。早く早く早く。でないと私は――。

 願いが通じたのか、バスが滑り込んでくる。心の底から安堵した。

 彼女とはあわせる顔がなかった。自分の傲慢性ゆえに傷つけた過去があるからだ。それは取り返しのつかない過ちで、謝って済むようなものではなかった。


 定期券を使いバスに乗り込むと、後方の席に座った。外を見ないようにしながら体を固くする。

 その時だった。

 別の席にいた私と同じ制服を着た女の子が立ち上がった。ロングの黒髪を揺らしながら近づいて来て、当たり前のように隣に腰掛けてくる。

 ……え、なんだこの子?

 横顔を見て、はっとする。

 辻本彩音だった。相変わらず凛々しい顔つきをしている。美人だ。


「あ、あの、辻本、さん……?」


 声を掛けると、こちらを向いた。しらっとした顔で言う。


「隣同士になるなんて奇遇ですね」


 ボケで言っているのだろうか?

 彼女は淡々と続けた。


「景色が見やすいところならどこでもよかったんです。あなたの隣を選んだわけではありませんから勘違いしないように」

「な、なるほど」


 バスが発進する。

 辻本さんは小型の端末を取り出すと、電子書籍を読み始めた。景色は? と突っ込みたくなるが、ぐっと我慢する。別の言葉を吐き出した。


「席、変わりましょうか?」


 彼女が座っているのは通路側だった。景色を見るなら私と変わった方がいいだろう。

 辻本さんは顎に手を当て、なるほど、と頷いた。


「論理的な提案ですね。しかし結構です。ここからでも窓は見えますから」


 辻本さんは視線を手元に戻した。読書を再開している。

 見ないのかよ、と心の中で突っ込みを入れた。

 朝から話すには疲れる人だなぁ……。

 たぶん、席を移った理由は別にある。

 私は覚悟を決めて口を開いた。


「え、えっと……以前、図書室で会った時のことですが」

「敬語は不要ですよ」


 え、と聞き返す。


「敬語は不要です、と言ったんです。堅苦しいのはどうも苦手なので」

「わ、わかりました……」

「ふざけてるんですか?」

「あ、ご、ごめん。でも、辻本さんもそうだよね」


 辻本さんはきょとんと首を傾げた。その反応を見て、いろいろと諦めることにした。彼女の言動にいちいち疑問を持ってはいけなかったのだ。

 気を取り直して言った。


「この前、図書室で勧められた『殺意の鼓動』って小説読みま――読んだよ」

「どうでしたか?」


 よかった、と率直な感想を漏らす。辻本さんは「当然ですね」と頷いた。心なしか、喜んでいるように見える。感情が表に出るタイプらしい。

 美人でこれはズルいな、と思った。

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